玄関>転換期の論考

■ 新たな運動への私見 10/12/22

週刊誌『週刊ポスト』(2011/1/1・7号)で、渡辺乾介氏のインタビューに答えて、先日来の市民デモに対する考えを小沢氏自身が述べている。その部分を引用する。

-----------------------------------------------------------------------------

―― この夏頃から全国各地で「小沢支持デモ」というのが起きている。インターネット上の呼びかけで自然発生的に1000人以上集まる。普通の市民が自発的にいわゆる「政治とカネ」の問題を調査したり、検証したりしている。特定の政治家に対して、国民がそういう形で集会やデモをすることなどかつてなかった。

小沢 みんな互いに知らない人だちなんですってね。

―― そうです。

小沢 それが自然発生的に起きるということは、日本の社会ではなかったことじゃないですかね。僕も大変感激しているんですけれども。

―― ある意味で、あなたが国民政治家としての新たな評価を与えられたといえるのではないか。

小沢 僕から見ると、日本の民主主義が、ようやく国民レベルで目覚めてきたんじゃないか、という気がします。主権者たる国民に、市民が声を上げなければいけないという意識が芽生えてきたことが、僕自身のことよりも非常にいいことだと思っています。

―― 大メディアから叩かれ続け、社会に絶望しているかと恩ったら、全然明るい。

小沢(笑い)だから多分、この永田町や財界、あるいは大きな新聞・テレビ、霞が関、そこの人たち以上に国民の皆さんのほうが、意識は進んできたと思う。

―― なるほど。

小沢 今挙げたのはアンシャンレジーム、旧体制の牙城の中で、自分たちの利権、既得権を守ろうとしている組織、集団だからね。その点で僕はものすごく将来への光明を見出しています。

―― しかし、ネット社会の新しい展開を、多くの国民はまだ知らない。

小沢 新聞、テレビが無視して、全然伝えないからね。

―― 「小沢糾弾の市民集会」ならば報道するだろう。

小沢(苦笑しながら)うん。ほんとうにね。ただ、国民の皆さんのほうが早く目覚めてきているというのは、一つには新聞、テレビ以外のメディアが増え、それを利用する人たちが急増したからですね。それが様々なネットです。しかも、ネットを利用する人たちは、かつては行動しない人が多かったですよね。ところが、今はお互いに呼びかけ合って行動するようになってきたでしょう。

-----------------------------------------------------------------------------

小沢氏は議員という立場をこえて一人の政治家として世の動きを正確に見ている。彼の言うように、新しい動きが、世の中に出てきていることはまちがいない。自分のことよりもそのことに光明を見出すというのは、本当の政治家である。デモに参加した多くの人もそして小沢氏自身も、自分のためではないことのために動いている。こういう無私の心が世を動かす。運動の今後に注目しながら、こちらもできることはしてゆきたい。

アンシャンレジームとは、フランス革命で革命の対象としていわれた言葉、まさに旧体制である。しかしそれが何を意味するのかは、われわれ自身がよく考えなければならない。小泉元首相も彼から見る旧体制を「抵抗勢力」と呼んだ。それは従来のケインズ式経済から弱肉強食の新自由主義経済への転換で言われた。これに多くの国民がだまされ、時代の閉塞を小泉改革が打ち破るものと期待した。しかしそれは壮大な詐欺であった。実際はブッシュのアメリカにいっそう従属し日本の金融資産を売り渡そうとするものであり、小泉軍曹とブッシュに馬鹿にされながら猿回しをやっていた。このように国民の利益を売り渡す、彼は真性の売国奴であった。これはまさに血の教訓である。これをふまえて、われわれは打ち倒すべき旧体制を自分自身の頭と体で考えなければならない。

アメリカへの従属を継続しアメリカの利益を優先する政治か、国民の生活を優先し小泉改革で失われた生活基盤の再建を優先するのか.現下の歴史の矛盾はここの集中している。この点においてその政治家がどのような立場であるかを判断し、そのことでその政治家を支持するかどうかを決める。アメリカ産軍複合体、日本検察、日本マスコミ、官僚制が一体となって小沢氏とその政策をつぶそうとしているなかで、私はこの点に関しては明確に小沢氏を支持している。

そのうえで自分の思想的な基盤がフランス哲学者バディウの言う「仮説としての共産主義」の理念であることも否定しない。今日は新たな共産主義運動が顕在化するその手前にいると考えている。それを具体化する革命家はまだ現れていない。あるいは、レーニンや毛沢東のような個人に体現される時代ではないのかも知れない。その運動はまた、西洋と非西洋の対立を超える、人間としての普遍性を具体化するものでなければならないと考えている。

新しい運動にはつねにつきものであるが、いろんな人が参加するだけに、内部に対立や反目が起こる。検察の横暴に反対するのが主で別に小沢個人を支持するのでないという人から、逆に小沢だからその個人を支持するという人まで、さまざまである。しかし小沢氏自身が言っているように、政治家はどのような路線でどのような政策を行うのかがすべてである。路線と政策を体現するから政治家である。そのかぎりにおいてその人を支持する。それぬきに個人そのものを支持するとかしないとかはありえない。このことをおさえ、運動内部での思想信条の自由と行動の統一を作っていかなければならない。これからが大切である。

このような問題意識に立って見ると、日本の多くの左翼党派は、民主党内に反映したアメリカ従属かあるいは独立かの矛盾を正しく分析できず、「どっちもどっちだ」「茶番にすぎない」との態度に終始している。それは現実の矛盾を分析を放棄することだ。

歴史過程を観念で越えることはできないのだ。もっとも主要な矛盾にすべてを集中せよ。これが毛沢東の教えであった。にもかかわらず中国派といわれる党派まで「茶番にすぎない」(日本労働党、『季刊 労働党』3頁)といっている。ここに既存の党派がその歴史的役割を終え、新しく動きはじめた人々に乗りこえられている現実がある。心ある党派の人々が、このことに気づいて新たな道を模索することを、かつてその場にいたものとして心から期待している。