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■ 中東革命 11/02/21

2011年1月16日、チュニジアのベン・アリー大統領を追放した革命は、巨大な変革の時代の幕を開けた。それは目覚める民衆の力が起こした革命である。今回のチュニジア革命は、軍部や秘密結社やその党が政権を転覆したわけではないし、英雄的な声望のある人物に主導されたものでもない。世界的なドル余りのなかで物価が大きく高騰し、仕事もコネがなければありつけない現状に怒った国民が蜂起したのだ。一家の経済を支えて路上でもの売っていたチュニジアの青年が、警察への賄賂を拒否すると売り物を没収された。それに抗議してその身を燃やした。これが蜂起の導火線であった。治安維持を専門とする軍人あがりの独裁者だったベン・アリー大統領ですら国民の怒りを抑えることができなくって国外逃亡した。

チュニジア革命の火はエジプトに広がり、ついに2月11日夜、ムバラク大統領が追放された。アメリカはこれまで30年間、毎年対外援助の半分以上をイスラエルとエジプトにつぎ込んできた。そのエジプトでついに親米政権が崩壊したのである。

エジプトの近代は西欧帝国主義に対する抵抗の歴史であった。1798年のフランスのナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征軍に対する抵抗。ここから近代エジプトの歴史が始まった。しかし西欧列強はエジプトの独立を認めず、1882年にアフマド・オラービー大佐ひきいる反英運動が起こった。これはオラービー革命といわれエジプトの自由民権運動そのものであった。しかし終にイギリスはこれを鎮圧、エジプトを植民地化した。第一次世界大戦のなかで、1919年3月エジプト全土で反英民衆蜂起が起こった。その結果、大戦後の1922年2月28日にエジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。

1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナーセルのもとでエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界・アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。しかし、1967年の第三次中東戦争(六日戦争)は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失う。その後、サダト、ムバラクと後継の政権は開発独裁を進めた。中東の親米政権として国内の抑圧体制とそのもとでの新自由主義経済を推し進めてきた。2008年の世界的な経済危機はエジプト民衆の生活を直撃。そのなかで生まれ、2008年にストライキを呼びかけた「4月6日運動」が、今回の市民決起の柱の一つであった。

エジプト革命はイエメン、ヨルダン、レバノン、そしてバーレーン、リビアで燃えさかっている。これがさらにイランやサウジアラビア、またモロッコへと広がることは不可避である。この民衆蜂起の最大の特徴は非暴力である。専門化した軍事部隊が民衆の側についたということではまったくない。人間としての尊厳を守るために、服従することなく確信をもって広場に結集する。この力は、植民地主義・人種主義・軍国主義を一体となってきた非人間的弱肉強食の新自由主義資本主義とその政権を吹き飛ばす。

第一次世界大戦、第二次世界大戦をへて西欧帝国主語が組み立てた中東体制が音を立てて崩れはじめている。現代のローマ帝国・アメリカの衰退過程そのものであり、西欧が中東に打ち込んだくさびであるイスラエルも国家として存続の危機に直面する。今後中東にどのような政治体制が生まれてゆくのか、それはわからない。しかしいちど広場に結集しその力で政権を倒したことを人々が忘れることはない。祝祭空間に躍り出た民衆の力は押しとどめることができない。この経験は一人一人の体の中で忘れられない。下からの民主化は不可避である。一人一人が人間としての生き方を変え、それが世を動かしかえてゆく。

この中東の地殻変動は近代日本のあり方を問いなおすことを求める。西欧帝国主義の圧力のもとに、明治維新によってかろうじて独立を維持し、近代資本主義の段階に入った日本。しかし明治革命の初心を忘れ、東アジアの小帝国として十五年にわたる侵略戦争をはじめた日本。その敗戦の結果、戦後は敗戦国としてアメリカへの従属政権が続いてきた日本。その腐敗への怒りがいったんは民主党政権を生みだしたが、民主党が初心を忘れ、かつて以上にアメリカに従属する政・官・報道・検察の国内体制となった。その基本的な構図はムバラクのエジプトと変わらない。内務省発表をそのまま流していたエジプト政府系新聞と、検察リークをそのまま流す日本の大手新聞は同じである。そして昨日も東京で「沖縄高江にヘリパット建設をやめよ〜アメリカ大使館抗議行動」のさなか2人の市民が逮捕された。

鳩山前首相が明らかにしたように、アメリカ軍の抑止力は虚構である。それを明らかにすることは勇気のいることであったろうが、[「「抑止力なんて嘘.方便に過ぎない」と明確に語ったことはよいことだ。しかし、このアメリカを相手にするのに鳩山内閣は意思統一と準備が余りにも不足していた。それは教訓である。イラクにせよアフガンにせよ米軍あるところ戦争であり、泥沼であり、戦争の抑止力など東京の官僚が作った言葉だけのもにすぎない。その虚構のもと沖縄の自然が破壊される。

私は、フランス哲学者バディウの言う新しい段階の共産主義の理念をもつ。しかしだからといって、現在の民主党内の対立に対し「どっちもどっちである」という立場はとらない。現実政治で矛盾や対立が起これば、そこには必ず社会の土台部分の矛盾が反映している。凋落をはじめた現代の帝国=アメリカに追随し世の荒廃をさらに大きくするのか、そこから自立し国民生活を第一に新自由主義=小泉改革がもたらした諸問題に取り組むのか、この対立が民主党内の対立を生みだしている。この点に関して後者の側を支持する。現実の歴史過程を観念で超えることはできない。

この過程を経て、はじめて日本の変革は次の段階に至る。それを見すえて今を闘え。中東の民衆蜂起は、西洋と非西洋の対立を超え、人間としての普遍性を具体化するものであり、それこそが新しい共産主義である。仮説としての共産主義から、その理念のもとの実践の段階への移行、これがはじまっているのだ。そしてわれわれもまたその歴史の場にいるのだ。