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■ 近代と核力 11/03/15〜22

東北巨大地震

3月11日の地震はまったく大きな地震だった。渦中の人にかける言葉はないが、被災地の皆さんに心よりお見舞い申しあげる。また、福島原発現地で何とか事態を打開しようと奮闘されている多くの人々にはただ頭が下がるばかりである。政府に対しては、今はとにかく、事実を隠すな、最悪に備えつつ最善を尽くせ、その体制をとれ、ということしか言えない。この間、政府は事実を隠し、安易に考え、備えをしていない。計画停電なども東電に任せず、電車は動かす、娯楽施設は停電する、ネオンもつけない、工場への送電は云々と国としての指導性を出さねばならない。原発被災も震災後ただちに国家の問題として東電を越えて独自に調査し事態を把握しなければならないのに、東電の報告をそのまま発表するばかりで、政府が事態を主導することができない状態が続いていた。

原子力発電は二酸化炭素の排出が少ないというがそれは正しくない。ウラン精製過程で大きなエネルギーがいる。また温水を海に流せばそれだけでも海中の二酸化炭素が大気中に出る。第一、核燃料をリサイクルする体系は現在の体制のもとでは実用化の途は見えず、もう破綻している。再処理しても役立たない。原発被災はこれまでの日本原子力行政が建前としてきたことがことごとくウソであったことを明らかにする。地震国日本でかつてからその危険性は指摘されてきた。しかしここでも日本の官僚制はきっちりとした安全性の確保と核サイクル体系の構築をしないままに、原発を作ってきた。原子力保安院という通産官僚のあの無責任な態度を見よ。

私は、原子力は大切なものであり、人類が見つけた新たな「火」であると考えている。したがってまた、原子力そのものに反対するものではない。しかし同時に現代社会はまだそれを使いこなせる段階になっていないとも考えてきた。経済第一、金儲け第一の資本主義の中で原子力の制御は不可能なのだ。その根拠は次の事実にある。

近代資本主義の土台にある考え方は、ニュートンとデカルトに代表される物質観と思想、およびその方法論であるが、原子力技術の土台にある相対性理論と量子論はそれを一つの特殊性、個別性とするより高くより普遍的な理論と方法である。特殊性が普遍性を含むことはありえないように、近代資本主義が原子力を使いこなすことはありえない。まして地震国日本ではさらに困難である。直下地震だったらどうなっていたか。地震大国で原発を建てることはあまりに危険であり、経済第一でその危険に備えることは不可能である。

建前だけを取り繕ってきた戦後の日本政治が、本音の現実を前にして崩れはじめている。平安時代末期も江戸時代末期も天変地異が相次いだ。それは、政治や経済や社会のあり方を根本から変えなければならないという警告を、天が発したものといえる。安政の大地震から明治維新まで13年だった。このたびの巨大地震にもその声を聴くことができる。その声を聴きとることが人間の叡智なのだ。今回の問題は、原子力の制御ができる社会へ根本的な転換をはかれという天の警告である。そのような世がありうるのかどうかはわからない。

第一、経済優先で作られた原発は危険である。危険度の高いものから順次いったんすべて止める。あわせて原子力の実証的基礎研究を進める。

第二、火力・水力その他既存の発電の効率化と風力、太陽光その他の自然発電を増やす。生活を見直しこれまでの経済発展指向から循環共生指向へ転換してゆく。

第三、その方向で人々が力をあわせ、第一、第二を併行して推し進める政権を生みだす。そのもとで震災からの人間的な復興をめざす。

ここでもういちど技術とそれによって画される思想の歴史をふりかえって、これを確認しよう。ここに述べることは大きな枠組にすぎない。単なる概念のもてあそびという面も否定しない。しかしさまざまの大きな枠組への提起があってよい時代になっている。今後さらにいろいろ考えてゆくことを前提に、私見を述べる。

技術の爆発としての産業革命

人間にとって火は根元的なエネルギーであり、言葉は本質的な方法である。人間は、火を使い、協同して働き自然からめぐみを受け、言葉を獲得し、人間となった。言葉を使い経験をまとめ、掘り下げ、伝え、智慧を磨いてきた。言葉を持つことによってはじめて人間は考える生命となった。言葉によって協同して働き、道具を育てていった。道具を媒介にした協働の方法が技術である。かつて人間は、自然界にあるものを受けとるという段階から、大地を耕し植物を育てまた動物を飼う段階へ転化した。それが新石器革命であった。その転化の一つの到達点が産業革命であった。産業革命を考え方として準備したものは何か。それが、ニュートン力学とデカルトの近代的世界観であった。つまり、自然を変革するために、自然の法則を対象化して認識し、具体的現実に適用する、これを最後まで進めたのが産業革命なのである。

十八世紀の自然科学の成立は、デカルトの二元論をその根拠とした。ヨーロッパ近代は世界を物質世界と精神世界に分離したうえで、その物質面の探究に専念した。十八世紀に成立した自然科学は、時間と空間を、物質が存在し運動する枠組みとしてあらかじめ前提した。これは、言葉によって人間が自然を対象化して認識した時以来育ててきた世界認識のひとつの型であり、ニュートン力学はこの人間の世界を認識する仕方の集大成であり、その極限であった。西洋近代資本主義文明はここに根拠をもっている。しかし同時にそれは生命を物質に還元し、人間を個別の人間に切り離した。人間をばらばらにすることは、近代資本主義が人間の働くということそのものを冨の源泉として搾取するうえで、必要でありまた十分なものの見方であった。

近代の対立物としての原子力と情報の技術

だが、産業革命を土台とする自然認識技術の発展によって、ニュートン力学では説明できない現象がつぎつぎと発見された。産業革命がやがて製鉄などの重工業に広がりをみせるとキルヒホッフは溶鉱炉の研究から1859年に黒体放射を発見した。黒体放射のスペクトルの理論的研究は、統計力学と結びつくことによって量子力学の基礎となる理論を与え、最終的にプランクによってプランク分布が発見された(エネルギー量子仮説、1900年発表)。また1887年前後のいわゆるマイケルソン・モーリーの実験は産業革命以降の技術なくして不可能だった。その結果、光速度一定やローレンツ収束が発見された。

その思想的掘り下げのなかから相対性理論と量子力学が生まれた。それは、現象の時間・空間的かつ因果的記述に対する制約を暴露し、時空概念の絶対性を奪い取った。ニュートン力学が生みだした近代の生産技術は、逆にニュートン力学を乘りこえる事実の存在を人間に示した。それまでの「問いの枠組み(problèmatique)」が事実によって転換を求められたのだ。ニュートンの時間と空間を前提にする世界観の超越的枠組みは、相対性理論と量子力学においてとりはらわれ、その世界観は「発展する物質」としてのこの世界自体の認識を一歩一歩深めることを可能にした。相対性理論と量子力学は、時間・空間が物質存在と運動の前提ではなく、逆に物質が「運動しつつ=存在する」ことが、そこに時間・空間の「ある」ことである。このことを明らかにした。

原子炉は、重い物質の核分裂によって質量欠損が起こり、その欠損した質量mに対し、光速をCとすると、エネルギーと質量の等価性(E=mC^2)にもとずくエネルギーが放出されることを根拠としている。ここに光速cが定数として入ることは、そのエネルギーが膨大であることを意味している。これが原子力である。また今日のいわゆる情報技術、その土台としての半導体技術や超伝導技術の前進、コピューターと通信の劇的な普遍化の土台には、量子力学が基本思想と理論として存在している。これぬきにいかなる先端技術も不可能であった。いわゆる「ナノ技術」も含め、情報技術の土台もまたすべて量子力学が基礎理論となっている。

相対性理論と量子力学によって人間は原子力という現代の火を手にし、情報技術を獲得した。これは本質的には、かつて人をして人間とした、火の使用と言葉を生みだした有節音の獲得に匹敵する、根本的意義を有している。

大切なことは、それは近代の合理主義が生みだしたそれ自身の対立物だということである。この近代合理主義の根底には、人間を世界から隔て自然を対象化するという本性があった。その本性が産業革命を生みだした。産業革命の技術がもたらした新しい認識が、産業革命の土台にある近代合理主義では説明しきれない現象を人間に教える。西洋近代合理主義は科学を生みだした技術を発展させたが、その結果、近代思想の枠を超える事実とその理論が発見された。相対性理論と量子力学である。

だが近代思想にもとずく諸体制では、それを越える理論によって得られた力を制御することが本質的にできない。質量欠損そのものは人間の制御の下にはないにもかかわらず、放出されるエネルギーは膨大であり、また核分裂の放射性生成物の処理も出来ない。地中奥深く埋めようとしているのが関の山なのである。近代思想の枠のなかでこれを御することはできない。ここに、現代社会は原子力という「火」と情報技術という「言葉」をまだ使いこなせる段階になっていないと断定する根拠がある。

理念をもって新しい世をめざす

原子力を使いこなせる段階? それは経済を第一とし、経済成長を至上の価値とする思想から自由になり、経済は手段であり方法にすぎないとする立場に立脚して人間がこの世界に出現した意味を現実化する方向への転換である。

人間にとって経済は方法であり手段に過ぎない。ところが世の支配思想は、経済第一以外に道はないのだという思い込みである。原発さえそのコストが火力発電より安いという経済の論理を押しつける。安全性を犠牲にしてはじめて成り立つにもかかわらずである。経済を第一にする政治は本質的に人間に対して無責任である。こうしてあの東京電力と政府の無能、無責任が生まれた。経済を超えて原子力の安全性を確保することができるまで、すべての原発を止めよ。他の方法をいろいろ用いる。当面は火力・水力・風力発電。足りない分の節約。時間をかけた原子力利用の研究。これらの体制を既成のさまざまな利害を振り切って作る。それができる政権を生みだす。

東電や官僚制の非人間性の対局に、東北巨大地震において人々が示した深い人間性がある。この人間性のなかに未来はある。今回の地震、津波、そして原発の三重苦は、第二次大戦の敗戦以来の日本の転換点になる。いいかえれば戦後政治の大転換になる。近代を問い、文明の東西を問い、新たな人間が生きる形を生みだしてゆく、その転機だ。西洋近代と東洋、そして固有文化の狭間で苦しんできた近代日本の経験が、ここで力になる。かつて循環型の共生の世を人々は生きてきた。これを現代において見直し取りもどそう。それはまた、官僚、財界、マスコミ、その背後の帝国アメリカ、これらが支配する旧体制を打ち破るだろう。打ち破る力は、これまた旧来の左右の分岐を乗りこえた、古い意味での「右」でも「左」でもない新しい人間の台頭、これである。文化的固有性と人間的普遍性が統一された新しい人間が、この未曾有の困難のなかから生まれる。

それがフランスの哲学者・バディウの言う仮説としての共産主義だ。これはしかし、理念をもった人々による永続した長い時間をかけた闘いである。バディウの議論はおよそ次のようなものだ。

大切なことは、現実をあるままに仕方ないものとして肯定することをせず、理念をもって、不可能とされていることが実はそうではないのだと見定め、そのうえに日々なし得ることを実践して生きることだ。それが仮説としての共産主義だと言うバディウの言葉を肯うかどうか。それは今は開かれた問題としておいてよい。この意味において理念をもって生きるとき、人は、無責任体制としての官僚制、事実から目をそらせるマスコミ、必要なら冤罪もする国策捜査の検察機関の有り様を明確に見る。この認識、これが現実を動かす土台である。そのとき、どんな小さな実践も、大きな歴史のなかのそれぞれの歴史として、深い意味をもつ。それがまた新しい時代を準備する。