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■ 鮒寿司考 12/03/01

塾の京都教室の帰りはいつも決まった店で食べて帰る.もう10年になるかと思う.京都駅前交差点の北東角東へ2軒目の店だ.この界隈は京都駅が新しくなって以降大きく様変わりしたが,この店はそれより前から続いている.

その店長が,趣味で鮒寿司を作っている友人がいて数匹もらったがいらないか,と聞いてくれたので,先週薄切りにしておいてくれるようにたのみ,昨日受け取ってきた.子持ちの30cm近い大きなニゴロ鮒である.八割り方を冷凍にし,残りを少しずつ食べる.三年ものである.この味はほんとうに深い.鮒寿司は琵琶湖の特産で淡水魚の鮒のなれ寿司である.酸味が強いのだが,この酸味に川面の香りが交わって,えもいわれぬ深い味わいがする.去年の暮れに京都の錦市場で買った二年ものより実費で1.5倍だが,量と質をあわせて価値は3倍近いと思う.この酸味とにおいで食べられないという人もいるようだが,私は逆である.

こんなに川魚のなれ寿司が好きなのは,故郷の宇治川の思い出とつながるからだ.小学校に上がる前後の数年,裏が宇治川という所に住んだ.夏の夜など川面を通る風には何ともいえない香りがした.あの川面の香りは住んでみないとわからない.鮒寿司はあの頃の記憶につながる深い味わいがする.昭和二八年の台風で床上まで水が来てその後引っ越したのだが,この時期の川との交感は今も体が覚えている.私は故郷のある人間だ.故郷は,そう,体で覚えておくものなのだ.死ねば,親や親戚縁者が眠りまた宇治にゆかりの山本宣治が眠る小学校の裏山の墓地に還る.それだけだ.人間それでいいのである.

故郷のある人間は,また故郷を奪われることの意味を理解することが出来る.近年を見ても,アフガニスタンでもイラクでもこうして故郷をもつ人間がながく暮らしてきたはずだ.それぞれに異なる思い出を体で覚えて暮らしてきたはずだ.アメリカがそれを破壊した.また戦後沖縄ではアメリカが土地を強制収容して基地を拡げ,多くの人が故郷を奪われた.帝国は故郷を奪い人間を根こぎにする.これに対する最後の拠り所としての定義集なのだが,どこまでやれるのだろう.

故郷をもつもの,故郷を奪われて奪われた故郷を思うもの,それぞれがそれを大切にしながら,もっと深くつながることは出来ないのか.ありもしない普遍主義を建前に故郷を奪うものに対して,もっと深くつながって闘う道はないのか.甘い思いではあるが,こんな事を考えさせる.つくづく食は文化であると思う.縦軸に来し方を振り返り行く末を思わせ,横軸に世界に思いを馳せさせるような味わいを見いだすとき,それはうまいのだ.今宵,鮒寿司で一杯やりながらそんなことを考えた次第である.

鮒寿司を食べると故郷を思い起こす.琵琶湖水系の人間にとって,鮒寿司は小さい頃のこの風土の思い出と結びつく.このような土地土地の食べ物は,それぞれの地方や村や町にもある.日本列島弧は暖流と寒流が行き交う多湿な温帯にあり,生物の多様性は,例えば地中海地方に比べても大変大きい.長い時間をかけて育まれた特産の品々は,本当に貴重なものなのだ.

この1年,福島でどれだけ多くの特産物が失われたことか.若狭の原発が核惨事を起こし,北風に乗って死の灰が琵琶湖に降り,鮒寿司が食べられなくなる.これがこの1年,福島で起こった.そういうことなのだ.福島の海に面した地方には,市場に出ないで地元でだけ食べるような海産物もあっただろう.あるいは,山間の村でようやく特産品として根づきはじめた乳製品もあっただろう.何より,故郷そのものに住めなくなった人がたくさんいる.

ところが日本政府はあいかわらず利益誘導で若狭の原発を再稼働しようとしている.「露骨な利益誘導で再稼働」のような記事を読むとそれがよくわかる.とりあえず昨日の福井県議会で知事は国の基準が出ないうちに認めることは出来ないと答えていた.しかし,今後ますます福井県への圧力も強まるだろう.若狭で原発を再稼働してゆけば,百年という長さで考えるとき,惨事が起こる可能性は大変高い.

鮒寿司が失われるかも知れないという時代に生きている.鮒寿司を後の時代に残せるかどうかは,今のわれわれの責任である.鮒寿司のうまさに沈潜しているだけではいられない.

鮒寿司を分けてもらった店長に味の報告.本当にうまい.あの酸味がたまらない.肉が軟らかいといったら,骨まで柔らかくなるのがニゴロブナの特徴だそうだ.琵琶湖のニゴロブナが減ってきた.それとあの鮒は30cmどころかもっとあったようだ.ニゴロブナは小さいものは捕獲しないことになっている.店長が言っていたけれど,長い時間をかけて琵琶湖の人はニゴロブナのうまさを学んできたのだそうだ.ニゴロブナは琵琶湖固有亜種で特産である.ゲンゴロウブナも琵琶湖固有種.いずれも絶滅危惧類である.ニゴロブナがいたから,鮒寿司もこの地で育ったのだ.調べると鮒飯は岡山県の郷土料理だそうである.

それから店長と話が進む.結局若狭の原発の話しになる.もし若狭で何かあれば、琵琶湖が死ぬ.琵琶湖にも地殻変動はあるだろう.しかしそれは人間の寿命とはまったく異なる長い周期である.人間の勝手でここで琵琶湖を死なせてはならない.いずれ南海地震は必ず起こる.若狭の断層も動く.それでも原発を再稼働するか.そんな話をして,そして,まだやろうとしているやつがいる、と言うことになる.まったくその通りなのだ.

店長はこの店をながく切り盛りしてきた.趣味はグレ釣りである.先週は三重まで自分で車を運転して釣ってきた.それを店に出す.店長のグレのあぶりは絶品である.ときどきしか出ないが,昨日はあった.帰りしなに,グレを2匹くれた.焼いてすぐポン酢で食べろと言っていた.試してみる.京都に来られる折にはこの店に案内する.一報を.

それにしても,人間が生きてゆくとはどう言うことだろうと,こんな話をしながらつくずく思う.私はこの世界に自分があることがまだなにかよく分からない.若い頃からこの感覚はずっと続いている.分からないままでもいいから,とにかく精一杯のことはしてきたか.それもまだまだという感覚が強い.もういちどいろいろよく考えてみるつもりだ.