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■ われわれは今どこにいるのか 12/12/10

今は選挙真っ最中である。大きな流れのなかで、今われわれはどのような位置にいるのか。それはつまりこの選挙はどのような歴史的な背景のもとに行われるのかということであるが、これをすこし考えてみたい。以下は、3.11東電核惨事の半年前に読書録として書き留めておいたメモを読み返し、3.11をふまえて書き加えたものである。論旨の整理、根拠の提示をふくめ、今後も改訂は随時行うつもりである。ときにはこのような考察をすることも無駄ではあるまい。またこの歳になると、言うべきことは言えるうちに言い置きたいと思うようにもなる。追伸:季節外れのサクラの花。この木は4、5年前から冬に少し花をつける。

 1) 近代資本主義という大きな壁の前でこれをいかに越えるという課題に直面している。

日本で近代といえば明治維新以降であるが、世界史としての近代ははるかに長い。近代世界とは、1492年頃のコロンブスらの航海とスペイン・ポルトガルによる「世界分割」、そして1453年に東ローマ帝国がオスマントルコに滅ぼされ東方の知識人がイタリアに移動、そしてルネサンスがはじまったとき以来500年間の、資本主義経済を土台とする欧米中心の世界をいう。この世界は、資本主義の経済拡大を基礎にして展開されてきた。これが近代である。

近代資本主義に対して『死に至る地球経済』(浜矩子著、岩波ブックレット)は言う。2008年9月のいわゆるリーマン・ショック以降、問題は何も解決していない。それどころか、EUを構成するいくつかの国家に見られる国家財政破綻の危機、貧富に厳しく分裂する社会と経済ではドルを刷るしかないアメリカ、出口なき閉塞感がおおう日本。その一方で経済成長を続けるはずの資本主義中国もまた党と行政の官僚の腐敗が激しく、経済成長の揺り戻しも必至である。

こうして世界は多極化する。これは不可避である。だが多極化すれば問題が解決するのではない。多極化とは、政治的には中国やインドや南アメリカ、アフリカ諸国の経済成長と政治的な力の増大であるが、それはやはり近代の範疇に属すること、モダン資本主義の枠の内のことであり、拡大を旨とする方法はそのままである。浜矩子さんの冊子は、それらの相互関係を地球経済の構造とい^う視点で解明しようとする。

結論ははっきりしている。地球という有限の場で永遠に経済拡大を続けることなどできない。それを無理して国家が介入して拡大を維持しようとすれば、今度は国家財政が破綻する。日本もまた稼ぐよりも多い借金をくりかえしている。このままでは総破産である。

経済拡大によらない地球生活の維持と再生産の仕組みは可能なのか。核惨事の起こる2年前に浜さんは言う。「悲惨な結末を回避したければ、思い切って耐え難きを耐え、不可能を可能にする」。これはそのまま原発を維持するのか、廃棄してゆくのかの問題にあてはまる。産業廃棄物としての使用済み燃料の処理方法さえないのにもかかわらず、歴代自民党政権は50基以上の原発をこの地震列島弧に作ってきた。戦後日本は、後追い資本主義として、資本主義的拡大を短い時間のうちに実現しようとし、同時に核兵器製造力とを保持しながら、無理して無理してやってきた。その果ての「悲惨な結末」、東電核惨事であった。

資本主義とは絶えず拡大しなければ持続し得ないものであるなら、地球という有限の船の上で、それは永遠ではありえない。浜さんは、リーマン・ショックの本質をこの500年来の近代世界の行き詰まりとしてとらえている。そしてそれを乗り越える叡智が求められていることを説く。それは説得力がある。だがしかしいずれも開かれたままの問題であることはかわらない。使用済み燃料の処理方法未解決という問題ひとつとっても、これをおおやけにし、その上でこれをどうするか、智慧を集めて方法を見つけねばならない。しかし未だにここに大きな問題があること自体が隠されている。

近代資本主義をのり越えるという課題。事実として、ここに人類が直面している課題があることが明らかになる一方で、アメリカも、日本も、EUも中国も、時の政府や既得権層はこの基本問題を隠そう隠そうとする。問題指摘とその隠蔽のせめぎあい、それが現代である。

資本主義をのりこえるといえば、それではお前は共産主義かと聞かれる。しかし問い返せばよい。質問するものはどのような意味で共産主義というのか。現代では、そういう質問自体がもはや成立しない。資本主義後の世界を考えるとしても、それはかつて考えられた社会主義や共産主義ではまったくない。共産主義という言葉の定義そのものが開かれたままの問題であるのだ。

 2) アメリカからの独立という問題は、アメリカから独立するかどうかだけの問題ではない。

植草一秀氏の著『日本の独立』を読んだ。副題が「主権者国民と『米・官・業・政・電』利権複合体の死闘」で、これが本書の内容を一言で表している。事実に基づく説得力のある内容である。事実の積み重ねなのでそれを要約することはしないが、よくここまで明らかにしたものだと感心する。日本の国民が現在対峙しているものの姿をこのように明確にするのは、勇気のいることである。実際、この日本で『米・官・業・政・電』利権複合体を追求した政治家やジャーナリストが幾人も非業の死を遂げている。あるいはまた脅しに屈して節を曲げた者も少なくない。そのなかでこれを書ききった植草氏に心から敬意を表する。

本書は、超大国アメリカの存在を前提に、それと日本支配層の関係を暴露するという内容である。が、このような構造があきらかになる背景に、実はそのアメリカがすでに衰退過程に入っているという事実がある。この書の出版がなされること自体、帝国アメリカの力が衰退していることの現れである。そして、「米・官・業・政・電の利権複合体」こそが現代資本主義そのものなのだ、ということである。日本だけの個別性ではなく、形はそれぞれ違っていても、これが資本主義である。

これまでの日米同盟に関する議論は、アメリカが強大であり永続することを前提にしてきた。しかし、客観的な事実として、またどれだけの時間がかかるかは別にして、帝国アメリカは終焉に近づきつつある。帝国は戦争によって解体する。ベトナム戦争、イラク戦争、アフガン戦争、この戦争が帝国アメリカの崩壊のはじまりであった。さらに経済戦争である。経済は不均等に展開する。政治力、軍事力を背景に基軸通貨としての優位性を最大限に用いて、新自由主義の弱肉強食・拝金主義経済を進めてきたアメリカ。それしかなかったのである。しかし土台において国内産業は衰退の一途。大きな矛盾が蓄積されてきた。2008年の経済危機は矛盾の爆発の序章に過ぎない。2008年危機以降の経済危機を取り繕うため、今日までドルは無制限に刷られ続けている。これは資本の暴走である。暴走するアメリカ資本主義は再び経済破綻に陥る。遠からずドルは暴落する。

アメリカとの関係は、衰退しつつある帝国との関係をどのようにするのかという問題である。帝国アメリカを率いてきた産軍複合体の力は今しばらく強大である。東アジアにも緊張を生みだし、日本の防衛大綱も改定させた。尖閣問題もこの産軍複合体の手の上でのことである。すべてはアメリカ産軍複合体の政治工作である。菅から野田と続いた政権はこの米国産軍複合体の東洋における先兵となっている。思いやり予算を五年間保証し、米軍存在の矛盾を沖縄に押しつけてきた。そしてオスプレイである。

3年間の野党時代を経て再度政権を取るであろう自民党は、かつての自民党ではない。アメリカのもとで軍を世界に展開しようとするファシズムの党である。もとよりマスコミもこの本質を伝えない。かつて自民党に投票してきた層が同じ考えのまま変質した自民党に投票する。金融資本と帝国はその本質として、常に最大の利益、収益、拝金主義的活動を展開してきた。搾取・収奪のためのあらゆる合法的方法がなくなったとき、資本主義はその維持のためファシズムを登場させる。維新の会はこれを正面から掲げ直す勢力である。それは中国や朝鮮半島での戦争、それによる国家の再統合をめざしている。しかしこれはすでにかつてやりそして大敗北した日本軍国主義の幻影でしかない。ファシズムでは活路はない。日本においては「アメリカ産軍複合体−政・官・財癒着」の構造とその支配を打ち破り、アメリカに対して自立する、ここにしか日本列島に生きるものの活路はない。

そのうえで、広島・長崎・福島を経た我々にとっては、アメリカから独立するかどうかの問題に終わってはならない、ということだ。アメリカ問題は人類全体の問題である。原発の問題もまた、原発に依存しないエネルギーを開発して原発を止めると言うだけの問題はない。アメリカの核戦略に対して核兵器の本当の廃絶という問題である。つまり、日本において顕在化した諸問題の根拠を遡ると、アメリカの存在や核兵器の存在をそのままにして、日本だけが脱原発しアメリカから独立するという問題ではないことがわかる。

人類がかかえる最大の問題としてのアメリカ問題と核問題、ここからの活路をどのようにきり拓くのか。ここにアメリカからの独立という問題の真の意味がある。原爆と核惨事を経験したわれわれはアメリカ問題の当事者である。この立場と観点をしっかりもって、深く掘り下げることが必要だ。それなくして対米自立もまたありえない。

 3) 経済は目的ではない。人としての尊厳ある生活、これこそが共通の目的である。

この数年来、人々のやむにやまれぬ直接行動がくりかえされてきた。10年前の南米アルゼンチンやブラジルでの、新自由主義と軍事政権が一体となった政治に対する抵抗、これがさきがけであった。パレスチナや沖縄の闘いは一貫している。せざるを得ない。そして、2011年のアラブの春である。それがさらにEU諸国の緊縮政策に対する闘いに拡大し、アメリカ本国でのウオールストリート占拠運動。それぞれが今日まで継続している。

日本においても、反貧困厚生省前広場占拠運動=年越し派遣村や、いわゆる小沢氏への政治弾圧に反対する街頭行動がはじまり、それらが、3.11以降の反原発運動と合流。これまでデモに参加することなど思いもよらなかった人々がそれぞれに継続して抗議行動を展開している。そこにあるのは、人間としてこれを認めることは出来ないという人々のやむにやまれぬ思いである。生活に根ざした運動である。核惨事の現実、それを放置する政治への怒り、廃棄物すら処理できない原発を動かし続けようとするものへの怒りである。

かつて階級間の矛盾は一つの企業や生産現場での労使の関係としてとらえられていた。しかし、資本主義が帝国主義となり、植民地支配の収奪利益を労働者にも分配することが可能になって以降、大企業での労使関係はもはや階級対立ではない。関電労組を典型に大企業労組はおしなべて労使協調である。利益配分にあずかる組織でしかない。

一方では、1%の富めるものと99%のもたないものとしてつかまれるように、金融資本の新自由主義経済で富を蓄積する少数のものがいる一方で、直接の労使関係はもとより極端な低賃金と不安定雇用などさまざまの関係の中で、確実に収奪され、生存権さえ脅かされる多数がいる。派遣労働など職場で労使関係さえ結べないままに収奪される雇用形態もまた、新自由主義、日本では中曽根行革と小泉改革以降、一般的になってしまった。今日の日本では生存権、労働権は保証されていない。

これに対する闘いはこの数年新しい段階になった。新自由主義の非人間性と闘い、人間として当たり前のこと、それが人間原理であるが、そこから見て許せないことに対して行動する。これが今世界の各地で行われている行動の基調である。ここには内容として、行きづまる資本主義を越えようとする意志がある。

人間にとって経済は方法であって目的ではない。この500年、近代資本主義において経済は目的であった。金儲けは至上の目的であった。しかし、昔からそうであったのではない。人間はながく、協働して自然からの恵みを得て、助けあって生きてきた。経済はそのための手段であった。1万年を超える新石器時代以降の人間歴史のなかで、経済が目的であったのはこの500年にすぎない。もとより奴隷制社会や封建社会が成立すると、実際に働くものは経済以前のところで収奪されてきた。だから、フランス革命や明治維新とそれにつづく近代資本主義そのものは必然であった。しかし今日それはもはやのりこえねばならないところにまできている。経済は方法であり手段にすぎないという人間の原点に立ちかえることを歴史は求めている。

かつて社会主義は資本主義経済に代わる計画経済をやろうとして失敗した。そこにはやはり経済を第一の目的とする資本主義の思想から抜けだせないという面があった。物の生産を第一とする唯物論、単純唯物論による経済第一の社会主義は失敗した。こうしてまたその時代にはじまる政治組織、いわゆる左派政党も歴史的役割を終えた。情報技術的には輪転機と鉄道時代にはじまる「共産党」や「労働党」などを名のる政党が現代の人々の願いの受け皿となり得ず、党派の利害を優先することで人々に見放されつつあるのも、必然である。

今日の根本問題は、資本主義にかわる別の生産関係を生みだすということでもない。とりあえず生産関係はそのままにしても、経済自体が手段であるという立場から、これをのりこえるのである。経済は目的ではない。人としての尊厳ある生活、これこそ共通の目的である。人々がやむにやまれず立ちあがるのは、人間としての尊厳が冒されるときであり、まさにそうして金曜行動もまた持続してきた。

 4) こうして2012年、日本国内の政治潮流は次の二つに明確に完全に分岐した。

二つの立場、互いに相容れずしかもすべての人の明日にかかわる二つの立場がある。そこから二つの政策体系、二つの政治潮流がうまれる。第三はない。

  1. 国民の生活を第一とし地方の再建をめざす政治。対米自立。脱原発。人間原理確立。富の再配分。
  2. アメリカへ従属しその利益を優先する政治。対米従属。原発維持。経済原理優先。富の偏在増大。

2。の側を旧体制という。1。の側の人々をみれば、旧来の意味でいえば革命左派から反米愛国の右翼までが属している。旧来の意味でのその幅はきわめて広い。2。の側は植草さんの言われる『米・官・業・政・電』利権複合体そのものであり、これに排外主義的な親米売国のエセ右翼までが入る。それぞれに旧来の意味での右から左が入る。ということは、座標軸が旧来の右と左から根本的に変わっている。この新たな座標軸の基本は人間原理を第一とするか否かである。そしてこの分岐は主観的なものではない。これからの日本がどのようにすすんでゆくのかに関する客観的な分岐である。いずれの政策が行われるかで、世のあり方がまったく変わるという、そのような分岐である。今回をふくめ今後数回の選挙の真の争点である。

もとより大手マスコミ、テレビとほとんどの新聞社は2。の側、旧体制の側にあり、この分岐を隠そうとする。対米独立・脱原発の勢力を新聞テレビの視野の外に追い出し、旧体制内部の矛盾をことさら大きく取りあげて、あたかもそこが主要な争点のように見せかける。そして人々を旧体制内部のいずれかに誘導しようとする。しかしマスコミのウソを見ぬく人々が増え、本当の分岐のあり方をおさえる人々が増えた。この量は一定の時間がかかっても、遅かれ早かれ質的転化をもたらす。

目の前に二つの道が現れれば、困難と見える方を選べ。険しくとも頂上に続く道を選べ。頂きに続く道、展望の開ける場への道というのは険しいのである。楽をすれば谷に入り込み道に迷う。生活を第一とする脱原発と対米自立の道、それは確かに困難である。しかしそれをやりぬけば、子供らの未来も見える。安易な道、原発維持と対米従属の道、それは実は凋落するアメリカと心中する道であり、破滅の道である。

困難であればあるほど、人々が手を取りあうことが重要だ。しかし新しい人と人の繋がりの形が見出されているとはいえない。アラブの春でも、欧州の反緊縮抗議行動でも、新しい情報技術を駆使することで、そのときそのときの協働行動は実現した。これは今後ますます大きくなってゆくだろう。だがそれだけでは組織を生みだしたとはいいがたい。植草さんが5月に呼びかけられた主権者国民連合などは、新しい連合を指向するものであるが、まだ提唱された段階である。いろんな市民の活動が、議会内外の地についた日常活動として、国民連合の一環になってゆくかどうかは、これからの課題、今回の選挙を省みるところからはじまる運動ではないかと思われる。人間は新石器時代以来、つねに協働のための組織を作りだして生きてきた。言葉をもつことと協働のための組織をもつことは、人間の人間たるゆえんである。この点から言えば、人々の新しい組織形態、人と人がつながる形、これはまさに現在の試行錯誤である。

以上。これがわれわれの生きている世界の今ではないだろうか。歴史はいつでも現代がいちばんおもしろい。作ってゆく時代なのだ。ここに人の生きる意味もまたある。ただし作るといってもそれはかつてのように政治活動そのものとはかぎらない。まず、人として許せないことには声をあげ行動し、自分の仕事と生活において誠実であること。長いものに巻かれたりはしないで、自分の人生をつくること、などなど。まさに「人間として」を身のまわりから。それが世界史につながる。そういう時代である。