玄関>転換期の論考

■ 夢を見る言葉 13/03/25

新聞報道によると、京大は英語で行う教養教育科目の授業を大幅に増やす。日経3月12日「京大、一般教養の半分英語で 外国人教員100人増」。以下本文。

私は、大学の講義を英語ですることには反対である。その理由は、人間は夢を見る言葉で考えなければ本当の創造性は生まれないと考えるからである。前に、マレーシアで義務教育を英語化しようとして失敗したという報道を聞いて、この問題について書いたことがある。「マレーシアの経験」である。それは義務教育での英語教育の問題であった。このような経験があるのに、日本でもあいかわらず幼児教育に英語を取り入れることを売りにする幼稚園や小学校がある。

そして今度は大学教育である。英語は現実的に共通語としての役割を果たしている。英語でやりとりできればどこに旅してもまず困らない。また学術論文なども、英語で書くことの利便性もある。しかし、それは母語で考える土台があったうえでの共通語の問題である。

人間、深く考えることができる言葉はやはり夢を見る言葉である。なぜそのように考えるか。次のような話がある。物理学者の湯川秀樹は、いつも枕元にメモ帳を置き、夢の中で新しい考えなどが出てきたらそれを書き残していたという。数学者の高木貞治もまた、夢の中で考えている。「近世数学史談」に次のような一節がある。

こうして夢の中でいろいろ考え、反例が作れたと思うのだが、起きて確認すると反例になっていない。夢も現実もどちらも同じ日本語であるから、そこに行き来があり、思索の深まりがある。これをくりかえして、そのうえに、ついに高木貞治は「アーベル体は類体なり」を証明するのである。類体論である。

高校生にいつも言うのだが、問題が解けるとか、わかるというのは不思議なことである。無意識の内部にこれまで蓄積してきたことが、目前の問題を集中して考えることで、結びつき、一筋の道が見えてくる。数学なんかの場合、無意識に蓄えられたことは数学そのもので、言葉は関係ないのか、あるいはその過程でやはり言葉が関係するのか、よくわからないところはある。しかし英語でやり取りし学んだ一般教養が、納得して記憶されるか、そしていざというとき無意識から現れるか。

人間は言葉をもつがゆえに人間である。その人をして人間としている言葉、その言葉で人間は夢を見る。人間が夢を見るときの言葉で考えなくて、どうしてものごとの底にまでおりていくことができようか。そして母語を大切にするもの同士こそ、その言葉はちがっていても共通語を介してたがいに深くわかりあうことができる。そうではないだろうか。

晴耕雨読さんに教えてもらったのだが、実際、イギリスで研究生活をおくる小野昌弘さんは「日本語並みに母語で高等教育を完結できる言語は世界でも数えるほどしかなく日本の大きな強み」といわれる。ところが、秋入学に英語授業である。これは多国籍化した日本の大資本の求めに応じた動きである。近代西洋こそ、固有の文化や言葉に根ざした大学教育をやってきた。フランスの大学が半ばを英語で授業することなど、ありえない。彼らは母語で考える大切さを知っている。西洋に学ぶのならその点をこそ学ばなければならないのに、相も変わらず皮相の西洋受容である。皮相な英語授業は、本当のところ国際化でも何でもない。そしてこのような大学の中から時代を開く思想や行動は生まれない。京大はわが母校ながらあまりにも情けない話である。草葉の陰で西田幾多郎が泣いている。

新しい大学生は、その中にあって自分を見失わず、制度の思惑を突き破って生きていって欲しい。私は、自分の夢を見る言葉である日本語を、少しでも耕しておきたいと考えてきた。この四ヶ月ほど数学の方に集中していたのだが、時間を見つけてもう少し基礎作業をすすめ、考察を深めたい。