近代オリンピックは、1896年ギリシャのアテネで開催された。これを提唱したのはフランス貴族の三男坊であったクーベルタンである。彼は、歴史書のオリュンピアの祭典の記述に感銘を受け、「ルネッサンス・オリンピック」の演説の中で近代オリンピックを提唱した。賛同者によって国際オリンピック委員会(仏: CIO、英: IOC)が設立され、1896年のアテネオリンピックの開催へとつながったのである。
当時は、十九世紀の古き良き時代が終わり、西洋文明に陰りが見え、欧州世界の人々は「世紀末」ということで、先の見えない時代を言い表していた。このような時代のなかで、クーベルタンは、西洋文明の起源であると考えられていたギリシアに立ち返れと呼びかけた。近代オリンピックはこのように、西洋世界が自らのルーツを今一度思い起こそうとして、始まったのだ。第一段階のオリンピックは<西洋世界の自己確認のための大会>であった。
1917年、ロシア革命が起こった。その後、西洋世界はこれに対抗するべく、近代西洋の価値観を受け入れ資本主義化した非西洋地域でも開催させようとなってゆく。こうして、1936年に、1940年オリンピックの東京での開催が決まる。しかしその後日本は1938年にこれを辞退、急遽ヘルシンキとなるが、第二次世界大戦でこの1940年の開催はなかった。
ようやく、1952年のヘルシンキ大会よりソビエト連邦が初参加したが、これは第二次世界大戦における連合国の一員としての参加であった。非西洋世界での開催は、1956年メルボルンにはじまるといわれるが、当時のオーストラリアは白豪主義のもとにあり、これは西洋世界のなかでの開催。実際は、1964年東京である。この後、1968年のメキシコ、1980年モスクワ、1988年ソウル、2008年北京、2016年リオデジャネイロとなってゆく。第二段階のオリンピックは<資本主義的西洋の拡大のための大会>であった。もっとも、リオデジャネイロは、決定したときはBRICs の優等生であったが、その後、ますます格差が拡大し、先日も、2014年のワールドカップ開催にも反対する大規模な集会やデモがあったばかりだ。この先の予断は許されない。
ところが、今回決定した2020年の東京大会の意味は、これまでからさらに大きく変わるように思われる。結論からいえば<1%による1%のための大会>である。安倍首相は「福島原発事故については、状況はコントロールされている。… 放射能汚染水の影響は福島原発の港湾内の、0.3平方キロメートルの範囲内で、完全にブロックされている」と発言した。あのすべてをごまかす東電でさえ「遮断は完全どころか毎日、漏れています」と釈明するほどの虚言であった。ということは、安部のこの発言は東電の思惑をも越えたところでなされたということだ。つまり国際原子力村の意図を受けた発言なのだ。安部はIOCを騙したという意見がネット内で行き交っている。それはそうなのだが、しかし、まったく事態をコントロールできていないこと、東京も安全ではないこと、これをIOCの中心的な人間や、その背後でこれを操る人間たちは百も承知だとみなければならない。
それでも東京開催を決定しなければならない理由が、彼らにはあった。新自由主義の中心部分はいまも原子力発電推進である。ただし、欧州やアメリカの土地では原発をやらず、アジアやその他の非西洋地域で原発を推進する。事故が起こればその地域を封鎖する。これが1%の方針である。日本の原子力村の世界大の、いわば国際原子力村、これが1%の実態だが、彼らにとっては、商売をする上で、原発事故でオリンピックなどが開催できなくなったという事実だけは避けなければならない。彼らが今回の東京開催を仕組んだのだ。安部もまた彼らにコントロールされていた。
その意味では、マドリードでの開催はありえなかった。この数年間の金融危機のなかで、人々へ犠牲を押しつけて、金融資本だけは損をしないようにしようとする国際的な動きに対して、いちばん鋭くこれと闘ってきたのが、ギリシアとともにスペインの人々だ。スペインのM15運動は占拠運動の先駆けであった。スペインの闘いがアメリカに広がり、ウオールストリート占拠運動につながったのだ。だから1%の人間は、スペインの人々を憎んでいる。それに対してトルコのエルドアン政権は、日本の原発を買い入れ、基本的に原発推進だ。国際原子力村の方針に忠実である。スペインが最初に退けられ、日本とトルコが残り、そして核惨事をかかえる日本になったという選考過程は、このように考えれば、1%が差配していたことをあまりにも見え見えに教える。1%による1%のための大会、これが2020年東京オリンピックの意味である。
しかし、今時代は大きく変転している。800年続いた西洋の時代は転換の段階に入っている。また、ここまでふくれあがり、資源を使い果たしてゆく現代文明を、地球は許さない。実際、福島の核惨事はますますその深さを顕してくるだろう。地下水脈が核燃料と反応し合うことはすでに起こっているか、いずれおこるか、である。日本列島を再びの地震が襲うことも、十分予測されている。
福島核惨事は、これから、第1次世界大戦や第2次世界大戦に匹敵する惨禍をもたらしうる。この二年間の日本政府の無為無策が事態をそれだけ悪化させた。このまま東京で開催できるとはかぎらない。冷静に事態を見れば、むしろそれはありえないことだとわかる。
後世、歴史家は書かなければならないかも知れない。「800年続いた西洋中心の時代のその終わりの120年、オリンピックは最後を飾る祭典であった。しかし、西洋が生んだ原発という技術が東洋の日本で惨事を引き起こし、その事態が人間の手に終えなくなって、2020年に予定されていた東京でのオリンピックは開催不可能になた。そして、これをもって4年に一度の大会はもはや開かれなくなった……」と。先日、福島第一原発でクレーンが折れるという事故があったが、あれがもし4号炉の上に倒れていれば、この言葉はただちに現実になる。
最悪に備えて最善を尽くすという立場からも、このような可能性にも心おくべきである。そして、これだけ地球大の核汚染をもたらす以上、日本の反原発運動も、心ある世界の人ともっともっと手を繋ぎ、国際性をもたざるをえない。せめてまず世界の人々に、核惨事の渦中にある日本からはっきりと見えるこのような世界のありようを、伝えたいものだ。