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■ 追悼、ボー・グエン・ザップ将軍 13/10/15

ボー・グエン・ザップ将軍が4日、老衰のため、ハノイ市内の病院で死去した。102歳だった。その国葬が12日とりおこなわれた。まったく懐かしい名前だ。このニュースを知って、押入の奥から写真集『ベトナム 独立への歩み』をとりだし、もういちど見直した次第。この写真集は、日本電波ニュース社の写真と記事よりなり、1975年8月15日、丸善発行である。日本電波ニュース社はトンキン湾事件の起きた1964年からハノイに支局をおいてベトナム報道をおこなってきた。ベトナム通信社をはじめとする多くのベトナムの人の協力で出来た写真集である。

私は1972〜3年の頃、ベトナム反戦運動をやっていた何人かで、京大に来ていたベトナム人留学生のオン・トロンさんを学生課に紹介してもらい、ベトナム語を習っていた。だからあのベトナム文字の発音はすこしはできる。教科書は米軍が兵士のために作った英語の教本。越英、英越の辞書。しかし私が1973年秋に兵庫県で教員になり、そして74〜75年のあの激動。オン・トロンさんのその後は、気になりながらわからなかった。先日昔の仲間に会って聞いたら、ベトナムはその後、海外にいて知識や技術のあるものは、それ以前の立場に関係なく、それを役立ててほしいと国に戻るように呼びかけたので、彼も新生ベトナムのために働いてきたのではないかと言うことだった。それならよいのだが。

教員になって、1年後に手がけた文化祭の劇が『象牙の櫛』というものだった。これは日本にいるベトナム人留学生の団体の日本語機関紙『破鎖(ファンシェン)』に載った小説。その機関紙も押入をさがせばあるかも知れない。アメリカとの解放戦争の中で離ればなれになった父と幼い娘の話しであった。ベトナム解放区でうまれた短編の劇化である。今回ネットでさがすと、これが紙芝居本になっている。おどろいた。それを劇にした。 新米教師の指導するこういう劇が抵抗なく受け入れられる高校だった。解放戦線の文芸からは、もっともっといろいなものが出てくると期待して、ベトナム語を習っていたのであるが、実際に解放後は北の国家に統一され、民族解放戦線はもう表には出なくなった。そのころ聞いた解放戦線に共感する歌手の歌も、その後聴けなくなった。この歌手の歌はその後DVDで手にいれもっている。

歴史をふりかえろう。フランス植民地化のベトナムで、ボー・グエン・ザップは学生時代から独立運動に参加。1930年にはインドシナ共産党に参加。1939年、共産党がフランスによって非合法化されると、中国南部の共産党支配地域に亡命。このとき残された彼の妻と従姉妹は、彼の行方をフランス当局に追求され、獄死。フランス官憲に殺されたのである。1941年,共産党(1951年ベトナム労働党と改称)は統一戦線組織のベトナム独立同盟会を結成。そして1944年12月22日、ボー・グエン・ザップはベトナム解放武装宣伝隊を結成。独立戦争を開始した。武装闘争が進むなかで、宣伝隊は軍隊に成長、この日はベトナム人民軍創立記念日となっている。密林の奥で武装宣伝隊を指揮するボー・グエン・ザップ。このとき彼はおよそ33歳であったのだ。そして1953年11月、フランスが新たに基地を建設しはじめたディエンビエンフーを攻撃。これを奪取する。次の写真は1954年、対フランス独立戦争の指揮をとるホー・チミンとそして右端がボー・グエン・ザップ。こうして遂に、1954年10月9日、ベトナムは独立を達成。人民軍はハノイに入城する。

しかしアメリカは、ジュネーブ協定に調印せず、ベトナム南部にゴ・ジン・ジェムの政権をつくり、2年後の総選挙を破産させ、臨時の軍事境界線であった17度線を「国境」にかえた。その後のベトナム戦争の経過は、それぞれ調べてもらいたい。この写真集は、とりわけ北爆下のベトナムの人々の生活が詳しい。1975年4月26日午後5時、全土解放のためのホーチミン作戦が南ベトナム人民軍総司令部から発令された。しかしそのときすでに傀儡政権の軍隊は崩壊、逃亡と降伏を続けた。30日午前11時、大統領官邸の正門を突破し、官邸の屋根に解放戦線の旗がひるがえった。アジアの、ながくフランスの植民地下におかれたベトナムは、知恵と力をあわせてフランスとそしてアメリカを打ち破った。一貫してその軍事の中心にいたのがボー・グエン・ザップ将軍であった。

ベトナムの対フランス独立戦争とそれに続くアメリカとの解放戦争の勝利は、経済が第一の西洋の時代から、人間が第一の時代への転換を切りひらくものであった。事実この戦争の結果、アメリカはついに金本位制が維持できなくなる。それがニクソンショックである。金本位制は資本が暴走しないための知恵。それが維持できなくなった。その結果、金の裏付けの必要がなくなったドルはそれからバクチ経済に邁進。矛盾を蓄積し続けた。2008年のリーマンショックも今日のデフォルト問題も、ベトナム戦争でのアメリカの敗北にその源泉がある。ベトナム戦争と、それに励まされた1968年前後の世界の青年学生運動、これは新しい歴史段階のさきがけであったのだ。

その後のベトナムの歴史も紆余曲折。レ・ジュアン総書記の時代に資本主義を導入。中国と同じく党の独裁下の資本主義という道をたどっている。しかし、あのベトナム戦争の記憶は民族の記憶として失われることはない。大きな困難に出会えばそこに立ちかえる。当時の南ベトナム・グエン・ヴァン・チュー大統領の辞任演説「アメリカは、なぜ助けに来てくれなかったのか。助けたくないならアメリカは出て行ってくれ」。それがアメリカだ。傀儡政権は使い捨てである。ちなみにグエン・ヴァン・チューは結局アメリカに亡命、そこで生涯を終えた。それにしてもわれわれはいつ、原子力村の官僚やその政府の人間たちに、この言葉を言わせることが出来るのだろうか。ボー・グエン・ザップ将軍の冥福を祈るとともに、今の日本の現実とあわせて、改めてベトナム戦争の意義を思い起こさなければならないと思った次第である。