玄関>転換期の論考

■ 歴史を観念で越えることはできない 14/01/26

二〇一四年年頭の東京都知事選挙は、人間が歴史に係わるという問題に関して、大きな教訓を教える。それは「歴史を観念で越えることはできない」ということである。そして、歴史を観念で飛び越えようとするものは、必ず足もとをすくわれ、言うことは正しいかも知れないが、何ら現実の力をもいえない一つの勢力ということで終わる。また、機が熟せば、大衆の行動によって乗り越えられ、その勢力は歴史の流れの藻屑として消え去る。

宇都宮氏の言う「世界一働きやすい東京を創る」という課題は極めて重要である。しかし、もし脱原発候補の統一ができず、その結果自公都政の継続を許したなら、「世界一働きやすい東京を創る」ことは絵に描いた餅である。候補の統一なしに「世界一働きやすい東京を創る」を語ることは、自公都政を終わらせるという歴史の課題と向きあわないことになり、政治家として無責任である。「宇都宮けんじの政策」にも立派なことが多く書かれているが、候補の統一が出来ずに舛添候補が勝てば、すべては絵にかいた餅である。自公都政を終わらせるという現実の課題を観念で越えて、その先の政策をいくらのべても、それは空しい。ここをわからなければならない。

私が「歴史を観念で越えることはできない」と考えるようになったのは次のような経験による。私は学生時代、当然のように、社会主義革命論者であった。深く考えていたわけではないが、大きくはブント(共産主義者同盟)の思想潮流のなかにあり、多くの学生がそうであったと思う。ところが教員になり、教育現場での労働運動や地域の部落解放運動やいろいろな教育課題に取り組む中で、人々の要求していることは何も社会主義の実現ではなく、すべては民主主義の課題ばかりであることに気づいた。労働条件、地域の教育への要求、私が取り組んだ中学の今で言う特別支援学級を出た生徒の地元の高校への進学保障。すべてそうであった。

そこから私の試行錯誤がはじまったのであるが、それについてはかつて『個人史』に書いた。職場の労働運動の課題でも都知事選のような政治課題でも、現実にその課題にかかわる人の大多数が求めていること、まずはその課題に取り組まねばならず、それを観念で越えて、次の課題にうつることなどは出来ない、このことがよくわかった。

脱原発の課題は、日本における民主主義の問題である。民主主義を否定するもの、それが東電であり、それを擁護する自民党政府であり、原子力村である。核汚染をまき散らして責任が問われず、被害を受けるものが棄てられる。核汚染が現実にどのようになっているのかの情報さえ公開しない。子供だけでも何とかという願いも、実際のところ踏みにじられたままである。これは民主主義の否定である。脱原発は一つの旗印であるが、その内容は、日本での民主主義の実現である。

かつて小泉氏が導入した規制緩和と、それに伴う大きな格差拡大の現実化、これといかに闘うのかという問題は、内容において生存権や労働権という基本的な人権、民主主義の課題からはじまるのであるが、その本質は、強欲な弱肉強食の資本主義との闘いであり、反資本主義の内容をもつ。フランスやイギリス、その他欧州、そして南米では、反資本主義の新しい政党や運動が、金融資本と闘うさまざまの運動、近年では占拠運動などの中から生まれてきてる。

経済を第一とする世から、人間を第一とする世への転換、この大きな転換期の課題として、脱原発と反貧困の問題はともにある。しかし一方、この二つは、それを資本主義の枠の中で実現できるか、あるいは最後は資本主義そのものを問わねばならないのか、この段階に違いがある。だから、規制緩和政策での小泉氏の過去を問い、それがあるから脱原発でも一緒にやれないというのは正しくない。

まず、一つに集まれる最大多数を集め、脱原発の都政を生みだす。それは現在の安倍政権に大きな打撃となる。そして引き続き、貧困問題や労働現場の問題に取り組んでゆく。実際、このように安倍政権に打撃を与えてこそ、「規制の岩盤を崩し、企業がいちばんやりやすいようにする」という、小泉氏のときには出来なかったことまでしようとする安倍政権の悪政への現実の抵抗ができる。力をあわせて一点を突破し、その後に自らの政策の全面的な波及をめざす。

この問題に関係する歴史を顧みれば、かつて、中国共産党は蒋介石の国民党に追われ、長征という名の逃避行を余儀なくされる。しかし、その途上にある1935年8月1日、抗日民族統一戦線、つまり国共内戦の停止と一致抗日を呼びかける。自分たちを殲滅しようと追ってくる当の国民党にも呼びかける。それは、広範な支持を得、張学良の西安事件などを経て、国共合作が実現、遂に日本軍を追い払う。その後は一転、人民解放軍と国民党は内戦に突入する。そして今度は国民党が敗れ台湾島に逃げる。

歴史を観念で越えることはできない。現実のもっとも主要な矛盾となっている課題に対し、それに利害の一致するすべての人々を集めて取り組む。そしてそこから教訓を引き出し、すすんでゆく。次の課題では対立するということはいくらでもある。これが出来るのかどうか。近代日本のなかで、福島の核惨事を契機として、ようやくこの問題が、歴史の現実の課題として出てきたということである。

現実をつかみ歴史がいま求めている課題に向きあうことが出来るかどうか。それは旧来の意味での左派、右派の問題ではなくなっている。いわゆる日本共産党、そして社民党は宇都宮候補を支持している。また新左翼党派やその大衆組織でも、宇都宮支持のところがいくつかある。彼らはみな、いま歴史の課題が何であるのかをつかめていない。あるいは、その問題に背を向けて、自らの党派の伸張を最重視している。

これらの党派はみな、ロシア革命の時代の左派党や革命党にその歴史的な由来をもつ。そして現代は、これらの左翼組織がすべてその歴史的役割を終えてゆく時代である。世の変革運動をおしすすめる現実の組織形態は、その時代の情報技術に規定される。ロシア革命の時代の情報技術は、輪転機による新聞印刷と鉄道輸送網であった。現代は、情報技術がまた新しい段階に至っている。

新しい情報技術は、階級意志の構成方法を革新する。これに応じて、組織の在り方、あるいは組織そのものの必要性も変わってくる。現代は、世の変革をおしすすめようという組織の、根本的な解体と再編の時代でもある。東京都知事選のなかでその歴史的役割を終えようとしている党派は、おしなべて情報技術の革新に対応できず、現実の歴史過程として今何がもっとも主要な課題であるのかをつかむことができていない。よって、解体の過程に入っている。

ではいま何が求められているのか。一言でいえば、人間としての情報発信と共有、そして可能な行動、これである。