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■ 株式市場の終焉 15/9/29

9月29日、東京の株式市場が大台の日経平均1万7000円を割り込んだことが報じられている。時事通信の記事「株終値1万7000円割れ=8カ月ぶり、中国景気警戒−東京市場」にもあるように、その原因は中国経済の落ち込みであるとするものばかりである。集団的自衛権問題では中国の脅威をあおり、株が下落すれば中国株が落ちこんだからだとする主張は、「中国が脅威ならその株価が下落するのは、脅威が減ることになるのでいいことではないのか」と問えばわかるように、支離滅裂である。また、安倍政権は大急ぎでまた株を上げようと、年金資金などを使ってカネをばらまき、その結果当面上げたり下げたりが続くだろう。

問題は、日本株の今日の落ち込みは本当に中国経済のせいであるのか、ということである。それは正しくない。前に紹介した『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫著、集英社新書)にあるように、資本主義的拡大はもはや限界に来ている。資本主義とは中心部が周辺部を収奪しながら拡大するシステムそのものであり、拡大・成長は資本主義の成立条件である。ところが地球は有限である。アフリカ諸国がそれぞれ近代化してゆく今、もはや現実に拡大する余地はない。実体経済活動への投資では利益が出ないので、資本主義延命策として格差を拡大し、周辺部を国内に作り、まさにそこから収奪するしかなくなっている。しかし、この方法は、結局国内の購買力を衰退させ、早晩行きづまる。あるいは、アメリカのように金融空間を作り出し、金融空間で周辺部から金を集める。しかしこれは必ずバブルの崩壊を招く。さらにまた、EUのように欧州帝国を作り出すことで生き延びようとするところもあるが、帝国の中の周辺部からの収奪を強めればあの南欧諸国のような危機が起こる。いずれも擬似的に拡大する場を作ろうとしてきたのが、それらの方法はもはや限界に近づいている。

したがって、拡大のシステムとしての資本主義は終焉する。日本はその先端を行っている。ゼロ金利になって20年。ゼロ金利とは投資に対して利益を付加することができないということであり、最初に日本がその段階に達した。それは、立場を転換すれば新しい段階として肯定されることである。しかし強欲資本主義は受け入れられない。拡大し続けなければ存在しえない。そのことは水野さんの本に詳しい。
株を発行するとは、企業の運転資金を得るためのものではなく、規模を拡大する資金を得るものである。発行された株式のその後の売買は、その企業の規模の拡大を見通し配当を期待して投資することになる。しかし、新たな開発や拡大は最早不可能になっている。株を新たに買う意味がない。現実の株式市場は政府がばらまいたカネをいかに集めるかの投機の場になっている。

その見せかけの拡大ももはや限界である。ここに世界の株価が下落する本当の理由がある。株式市場は、日本もアメリカも欧州も、そして中国もその他の市場も、同じ理由、資本主義の限界によって、下落するのである。こうして、資本主義とともに形成されてきた株式市場は、その役割を終え終焉に至っている

そのときに、強欲資本主義を続けようとするものがすることが、経済的には、量的緩和政策、つまりは実体経済とは関係なく紙幣を印刷し、あるいは年金基金のような公的ストックから金を引き出し、それをまさにばらまくことである。しかし、これは結局はバブル経済であり、どんな経済モデルでも、実際の経済が必要とする以上の貨幣を発行し続ければ、必ず崩壊に至る。そして、企業の暴走への規制を撤廃し、いっそうの格差を拡大して、そこから搾り取ろうとする。行きつくところ政治的にはファシズムである。

ファシズムは戦争から利潤を出そうとする体制である。経済拡大なしに利益を上げうるところが、兵器産業である。中東の戦争とは兵器産業が作りだしてきたのである。例えば、イスラム国は、イラク戦争とシリア内戦を通して欧米が作り出し、大きくした組織である。アメリカは、ヨルダンやトルコに秘密の軍事訓練基地を作り、イスラム国の兵士となる人員を訓練してきた。特にシリアの内戦では、軍事訓練を施して反体制勢力を強化し、イスラーム原理主義組織を操ってきた。何のために。軍需産業しかもはや利潤を生みだす産業はないのである。

欧州に押し寄せるシリア難民も、元はと言えばアメリカが作りだしたものである。シリアの内政に干渉し、反体制派を育て支えているのがアメリカを中心とする西欧である。アメリカはアサド政権の残虐さを言う。では、イラク・ファルージャでのアメリカ軍による住民虐殺はどうなのか? ガザをあのように支配続けるイスラエルはどうなのか? アメリカの言うことは二重基準であり、戦争を維持するための口実に過ぎない。

オバマの時代になって、軍事予算がどれだけ拡大したか。ブッシュの時代よりも大きい規模の拡大である。安倍のすすめた戦争法は、アメリカが日本に軍事行動を肩代わりさせようとしたという意味があるが、同時に日本の兵器産業もまた、ここで利益を出そうとしている。これを実現するために、政治的にはファシズムである。社会にある共通の確認事項としての憲法を踏みにじり、社会の土台を崩してでも、戦争から利益を生みだそうとする。資本主義はもう戦争以外に利益を生みだすところがないのだ。そのときに登場するのがファシズムである。

とすれば、ファシズムに反対し、「やつらを通すな!」というからには、経済成長や市場の拡大という考え方を克服し、ものを増やすのではなく循環させる世のあり方を生みだしてゆくことがなければならない。利子率はゼロでよい。ゼロ成長でよい。資本の蓄積と増殖は不要である。経済はもともと手段であって目的ではない。人間は経済のための資源ではない。固有の尊厳をもつものだ。

また、この間運動で言われた「立憲主義を守れ」という主張は、それ自体主張すべきことであるが、しかし、かつての経済成長といわゆる中産階級が多数を占めるという基礎のうえに国民の合意としていわれた立憲主義は、拡大のシステムとしての資本主義を前提としていた。しかしその客観的土台は、今はもうない。

昨日、共産党の呼びかけた連合政府構想に、社民党と生活の党は賛成するということが報じられた。生活の党が掲げてきた「国民生活が第一」という基本政策も、このように考えれば、意味深い。ファシズムに反対して「俺たちは資源ではない、兵器ではない。人間だ!」と立ちあがった若者の叫びに呼応する政策に深めなければならない。そのとき、この反ファシズムの運動は、脱原発の運動と、その深部で出会うだろう。そこまでいかなければならない.

かつての時代に得られた思想を、新しい今日の条件のと現実の土台のうえにどのように引きついでゆくのか。それが問題である。立憲主義、憲法九条の意味も、経済と人間の関係が根本から変わらねばならない時代に、より深く本質的にならねばならない。それぞれの党内で、また若者たち自身が、問題を問題としてとらえ、共同の場で議論し、共通の理念と政策を生みだしていってほしい。