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■ 九条の会にて 17/06/05

地元の九条の会が呼びかけた討論会があった。これに参加してきた。 私自身は、憲法第九条を絶対に守れという立場ではない。しかし、いま改憲の議論をすることには反対である。日本は一見独立国のようであるが、事実は違う。日本の制空権は日本政府にあるか。アメリカ軍にあるのではないのか。日本で犯罪を犯した米兵を日本法律で裁けるか。出来ないのではないか。そして何より、日本の政治は、一部の官僚とアメリが軍人で構成される日米合同委員会(「首相の知らない「日米合同委員会」」参照)に仕切られている。

安倍政府は先に「主権回復70年」の行事をやったが、「『主権回復』は奴隷の言葉」にも書いたように、彼らのいう主権回復は、アメリカに隷属する現実を塗り隠すためでしかない。それと同じく、現政府やその背後にあるもの達がいう「自主憲法制定」とは、あたかも「自主」の主権が回復しているこのように言うことで、現実を隠す働きをする。本当の民族派なら、何よりアメリカからの独立をまず闘わなければならない。

矢部さんも言うように、アメリカからの独立をはたした後に、初めて憲法をどうするのか議論するのである。私の意見はそのときに言おう。だから、いま憲法を変えようという動きに対して反対し、現政府がすすめるファシズム的諸政策に反対するということで、私と九条の会は同じ側に立っている。

前置きが長くなったが、そういうことで、こちらも参加してきた。二〇人ほどの集まりだった。地元の自治会活動などもやってきた人で敗戦のとき16歳だった人が戦争体験を語り、その後話しあいをするというチラシを見て、こちらも何か言わねばと思い、あらかじめ主催者に連絡し、その人の次に話す時間をもらった。そして三つのことを話をしてきた。第一は母の手記の紹介。第二は山宣のこと。第三は地元の墓地をめぐっての話し、である。

戦争のころの思い出

母はこれを書いたその前年に大腸癌がわかり手術した。これを書いた平成元年一、二月の頃は自宅で療養していた。これをさらに清書しようとしていた。最初の数行がノートに残っているが、結局四月になってあちこちへの転移が出てきて四月末に亡くなった。これを書いておいてくれたことに心から感謝している。これを印刷して読んだ。

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◯ちゃんとお約束をしていた戦争の思い出、その時の兵隊さんや日本人の暮らしぶりについて私の記憶を少し書いてみます。 昭和十二年七月七日、蘆溝橋(ろこうきょう)事件が起こり、日中戦争が始まり、昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃で昭和天皇の宣戦布告があって太平洋戦争に入りました。

この時の私は女学生で京都の街まで通っていましたが、路面電車(市電)はガラスが割れていたりして冬は寒いでした。平安神宮や京都御所へ武運長久をお祈りによく行きました。卒業して昭和十七年四月から十九年三月まで宇治菟道(とどう)校の女子組を担任する先生でしたが、学校は男の先生はだんだん出征していかれて、五十人の中、男の先生は十人もいませんでした。町の中は若い男の人の姿がへっていって「もんぺ」をはいた女の人の働いている姿が今も目の前にちらつきます。

召集令状といって「赤い紙」がきて何月何日集合と親が病気でも子供が小さくてもいやおうなしです。しかし戦場は中国とかフィリピンですから身近なこわさはありませんでした。私の組の子のお父さんも召集令状がきて、朝早く日の丸の小旗をもって駅まで送っていったのです。その時そのお父さんは涙を流して「子供をよろしくたのみます」と言って淋しく汽車の窓から手を振ってられた姿が、今でも目の底にやきついています。

しばらくすると役場(今の市役所)からお使いの人がこられて、「名誉の戦死です」と通知を持ってこられたのです。そこのおうちは三年生の女の子と一年生の男の子でしたが、お母さんが頑張ってこられて今はお米屋さんとして立派に暮らしておられます。 私の実家でも二番目の兄が三才と一才の女の子をおいて出征したのです。フィリピンへいく船が太平洋で撃沈されて戦死です。遺骨と言って白い布で包んだ箱が帰ってきましたが、中身は砂でした。

そのころの人々の暮らしぶりは、お米は配給、野菜は家で作れる人はよいほうで、お魚もお肉も忘れたころに配給でみんなひもじい思いでした。山で木の葉や木ぎれを拾ってきてお風呂をわかしている家もありました。それもできない家は何日もお風呂に入れず、石けんもだんだんなくなり、洗濯も遠のき、頭や体に「しらみ」という小さな虫がわいてかゆくて勉強もできないので、放課後頭の「しらみ」を取ってあげるのです。勉強のほうも兵隊さんの見送り、防空訓練、ストーブ用のまき運びと、みな戦地の「兵隊さんありがとう」という気持と、神国日本はかならず戦争に勝てると思って頑張りました。お昼のお弁当も「むぎこはん」「大根めし」はよいほうで「さつまいも」のふかしたのを持ってきている子もいました。どうしてもその日は持ってこられなかった子はお弁当の時間は外で遊んでいるのです。私はお弁当を持っていてもだれに食べさせてあげることもできず、食べない日もありました。上履き(ズック靴)は一カ月五足くらいクラスに割り当てがあるのですが、足と靴が合わない子は順番がなかなかこないのです。わらぞうりの子はよいほうで、はだしが多く、先生もはだしで頑張りました。放課後の掃除は校長先生が「心をみがく」と言われて、冬でも水でぞうきんをしぼり、光がでるまでふきました。

そのころの新聞やラジオでは、「どこどこ爆撃、敵機何機撃墜、敵艦撃沈」という喜ぶようなことばかりでしたが、ほんとうは日本に不利の形勢だったようです。

私は校長先生や◯◯家のことをよく知った先生のすすめで三月でやめて昭和十九年五月十八日に結婚しました。おじいちゃんは京都の洋書の会社から舞鶴というところの軍需工場に行っていたので、宇治に三日いて、二十日に戻り、舞鶴で生活しました。ちょうど一カ月ぶりに宇治に里帰りしているところへ召集令状がきて、私はそれをもって舞鶴に戻りました。そしておじいちゃんは二カ月後に応召しました。舞鶴の家をかたづけてそれから宇治で生活です。おじいちゃんは中支へ送られたようでした。この時はおじいちゃんのおかあさんと生活しました。弟さんは中支へ出征中、もう一人の弟さん(大学生)は学徒動員で愛知県の知多半島の軍需工場へ行っていました。おじいちゃんのおかあさんは何でもよくできた人で、私は何でも教えてもらって失敗しては「すみません」言っていました。そのころ人にたのまれて家で若い娘さんにお裁縫を教えました。宇治の工場へ二回ほど焼夷弾が落とされましたが、京都は古い都ですから爆撃だけはまぬがれました。

中支へ出征しているおじいちゃんや弟さんからはたまに葉書がきましたが、書いたときは元気でも、着くころはどうなっているのかと思うと不安の多いことでした。そして銃後の国民も兵隊さんに負けないようにと勤労奉仕、出征兵士の見送りと忙しい日々でした。もしも空襲があったらと、家の土間に防空壕をほってもらい、肩かけかばんを作って大切なものを入れ、綿の入った防空頭布を枕もとにおいてふだん着のままでねるのです。

戦局はだんだん日本に不利になり、敵が上陸してきたら竹やりでさしてやると言って家のかど口に立てかけてありました。軍部や政治家には分っていても、国民は勝てることを信じて不平不満を言わすに働いていました。そうこうしているうちに敵が上陸してくるとか、沖縄へ上陸とか色々なことが言われて出征兵士の家は二重の心配で大変でした。そうしていよいよ日本に敗戦の色がこくなってきたとき、ついに昭和二十年八月十五日、昭和天皇のお言葉で終戦となったのです。ラジオで天皇のお声を聞いて涙がとどめなく流れました。何の涙だったのか、くやしさ、やれやれ、おいじいちゃんや弟さんのことを思っていたのでしょう。

戦争には負けたが、その日の晩から電気がつけられたのが嬉しくて今でもよく覚えています。下の弟がみずぼらしい姿で帰って来ましたが、元気であることが何よりで、三人で白いご飯をたいて食べました(お米は裁縫を教えていたのでもらった分です)。それからの毎日はガラス戸の爆風よけの紙をめくり、家を開け放して掃除をしたりして忙しいことでした。日本の国の軍部や政治家の人はこれ

からが大変な日々が始まります。うちではおじいちゃんと弟さんがまだ帰ってきませんので、二人分の陰膳を供えて待ちました。 世間の人が食べ物に困ってられるので三人で大根めしも、さつまいも入りごはん、メリケン粉入りみそ汁も食べて、みんなの苦労を少しでもと味わっていました。

役場の人がおじいちゃんの部隊名を色々としらべて知らせてくれましたが、顔を見るまでは安心できませんでした。そうこうしているうちに、弟さんが昭和二十一年二月、おじいちゃんが二十一年六月五日にあかでよごれた軍服で帰ってきました。

昭和天皇が一月七日に亡くなられました。昭和の前半は戦争でした。私は◯ちゃんや◯ちゃんにそんな思いをさせたくないので、戦争といういまわしいことが二度と起こらないように、戦争反対の署名はどこでもしています。

今の日本は表面は豊かでありがたい国です。でもあまりもったいないことをしないでください。何時か食糧難の時が来ることがあるかもしれないことを心にきざんでおいてください。

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山宣のこと

父母や親戚一統が眠る故郷宇治の墓地には、山本宣治の墓もある。一九二九年春、治安維持法改悪反対の演説をおこなう予定で草稿を準備していたが、一九二九年三月五日与党政友会の動議により強行採決され、討論できないまま可決された。そしてその夜、軍国主義者の手先となった右翼団体である七生義団の黒田保久二に刺殺された。

このとき治安維持法改悪に反対したのは、山本宣治ただ一人であった。それに先立つ日、彼は全国農民組合大会で

  実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り孤塁を守る!
  だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから

という有名な演説をした。この言葉は、山本宣治の墓碑に刻まれているが、戦争中は石こうで塗り固められていた。 私の小学校の裏山にこの墓地はある。私は山宣を、あの暗い時代を原則を曲げずに闘いぬいた先輩として尊敬し、あこがれてきた。それでも私は山宣のことを「あの暗い時代に闘った人」とつい最近まで考えてきた。 歴史は二度くりかえすというが、いま共謀罪である。われわれの前にあるのは、極右ファシズム政府である。われわれは山宣のあの時代と同じ時代にいるのではないだろうか。最近つくづくそう思うようになった。いまは戦争前夜であるかもしれないのだ。前の戦争のときも、直前まで多くの人はまさか戦争にはなるまいと思ってきた。戦争を経験してきた人たちの話を受けとめ、できることをしてゆかねばとつくづく思っている。

西宮の墓地

満池谷墓地」にも書いたことを話した。自宅から5分ほど歩いて阪急甲陽線の踏切をわたると、西宮市の大きな墓地、満池谷墓地の北側の入り口である。この墓地は車もとおり抜けることができる。郵便配達のバイクも通り、また自転車も通る。ここを犬を連れてよく歩く。墓地から北をながめると、甲山が墓地と一体に一つの情景を作っている。

墓地にはその街の歴史が刻まれている。古い墓碑には明治十年とかもあるから、ここは少なくとも明治の初めからあった。この墓地は、火葬場一つと葬儀場二つ、納骨堂などもある。一つ一つの墓の文字を読みながら歩く。さきの戦争での戦死者の墓が実に多い。二〇〇はある。「何々島で戦死。行年二十歳」などというのがいくつもあった。手をあわせる。ほとんどが二等兵とか伍長とか軍曹とか一般兵士ばかりである。「父建之」とある。墓碑を建てた親の気持ちを思う。「昭和二十年八月二五日戦死」と言うのもある。敗戦の後ではないか。これを建てた親の悔しさを思う。日本軍がもっと若者の命を大事にするならこの死はなかったのではないか。 「昭和十九年七月十八日、マリアナ島で戦死。行年二十五歳」という墓碑の裏には「昭和三十二年 妻◯◯建之」とありその横に女性の名が並んで記されている。戦後女手一つで子どもを育てられたのだろう。今も新しい花が供えられている。しばらくそこにたたずむ。

犬を連れて散歩し、これらの言葉を読み、そしていつも考えるのは、もう一度これを繰り返すのかということである。このまま今の政治を続けさせれば、その時代が来る。いま我々はそのような時代を生きている。これらのことを言って発言を終えた。

三日のこの九条の会に来て私の話を聞いてくれた人が二人、翌日の掃除にも来てくれて、いろいろ話しかけてくれた。地元で話しをして、私としてはいささか落ちついた気持ちである。