4月27日、板門店で南北首脳会談が行われた。実はこの方向はもう相当前から裏では進んでいた。共産党の志位和夫委員長が
南北首脳会談での「板門店宣言」をもたらした力の一つは、韓国で起こった「キャンドル革命」だと思う。昨年9月、文大統領は国連総会演説で、「韓国の新政府はキャンドル革命が作った政府」とのべ、北朝鮮に対話と平和をよびかけた。称賛すべき外交的イニシアチブの根本には民主革命の力があったのだ。と言っている。その通りである。南北の対話への動きは、昨年秋の韓国は文在寅政権発足からはじまっていたのである。文在寅とこの政権を実現した韓国民衆は、確かに時代を動かしている。
アベ政権は、昨年12月19日に、地上配備型の新たな迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の導入を決定している。導入には2基合計で最低2000億円かかり、運用開始は今から5年以上先になる。2017年度補正予算案に、調達先である米国に支払う技術支援費を盛り込んでいる。その一方で、アベ政権は社会保障費を1000億円削減している。社会保障を削り、教育費の公的負担を削り、労働者をただ働きさせ、その金をすべてアメリカの軍需産業に貢ぐ。これがアベ政府の実態である。
南北の分断は、日本による植民地支配と戦後の冷戦期の戦争の結果である。南北朝鮮はそれを自力で乗りこえようとしている。植民地支配下での抵抗闘争、戦後は例えば光州蜂起、そしてその上に「キャンドル革命」と文政権の成立、これを経ての南北対話。これは実に大きなことであり、歴史を一歩も二歩も前に進める。トランプアメリカ大統領も、客観的には、世界の警察国としての覇権帝国主義国から、アメリカのアメリカに立ち戻そうとしている。それで、文大統領の指導性に乗った。そして独りアベ政権のみがまったくの蚊帳の外であった。
アメリカは南北対話の進展をふまえ、韓国駐留軍を削減してゆくだろう。沖縄駐留の海兵隊も引き上げる方向である。それを必死に引き留めようとして、辺野古に巨大な基地を建設しているのが、外務省や自衛隊に主導されたアメリカの悪代官達であり、それに操られたアベ政府である。
アベ政治は日本の隅々までむしばんでいる。今年から小学校で、来年から中学校で、教科としての道徳の授業がはじまる。再来年からは高校の「現代社会」が廃止され、代わって「公共」が必修になる。「基本的人権の保障」や「平和主義」が高校の授業からなくなる。改定のときに文科省は「いじめの防止」も理由の一つにあげた。しかし、道徳を教科とすることで、いじめや不登校など学校のかかえる問題は、よけいにひどくなる。ますます不登校は増え、陰湿ないじめがはびこる。
歴史上いちばん反・道徳のアベ政権が道徳を教科にした。学校は社会の縮図なのだ。道徳の時間にハイハイと答え、成績もいい生徒が、休み時間に誰かをいじっている。まわりもそれをはやす。まさにアベがやってきたことだ。こういうことがより日常化する。
近代日本の教育は、なぜそんなことが言えるのかと根拠を問うことを教えず、言われたことをそのまま受け入れる人を作ってきた。原発が安全だといわれればそのまま受け入れる。その根拠を問い自分で考えれば、それが虚偽だとわかるのに、である。道徳の教科化はこの方向をいっそうおしすすめる。嘘と欺瞞と私利私欲のアベ政治を終わらせなければ、小学校も中学校もますます荒廃する。
どうして日本政治はここまで劣化したのか。最低限の道理さえ失われた。これを、われわれ自身の問題として考える。今年は明治維新から150年である。この150年、日本は西洋国家の制度を見よう見まねで取り入れてきた。憲法、立憲主義、三権分立、基本的人権、…。しかしどれ一つとして、韓国の人々のように自らの闘いで勝ち取ったということはなく、上から外から与えられたままであった。足が地につかず、諸制度は根なし草のままであった。この近代のあり方に根本の問題がある。
この根なし草近代を逆手にとって、そしてまた、かの戦争から教訓を引き出すことなく、福島の核惨事から教訓を引き出すことなく、逆にそれらを逆手にとって、メディアを支配し、福島の核惨事をショックドクトリンとして民主党から政権を奪い、今日に続くのがアベ政治である。行きつくところまで行かなければならないのか。それはしかし余りに犠牲が大きい。最悪に備えつつ、最善を尽くさねばならない。
現代の普遍の問題は、資本主義がもはや拡大の余地がなく、終焉をむかえているということである。そして朝鮮半島の南北対話は、それをふまえて次の時代を開くものである。中国もロシアも、帝国アメリカの衰退を見通して動いている。ドイツもそうである。その一方で、非西洋で最初に近代資本主義の世となったこの日本は、底の浅い根なし草の近代のままに、この終焉期を最初にむかえている。そしてこの先、帝国アメリカの没落期にすべての資産を吸い取られ、没落してゆく。歴史をたどればよくあることだが、それがこの日本においてこれからの十年のうちに起こってゆく。ここで人はどうするのかである。ある意味ではほんとうに問われるのは、これからである。
私は拙著『神道新論』の中頃の節で
東京電力福島第一発電所の引きおこした核惨事は、かつての十五年戦争の敗北につぐ近代日本の第二の敗北である。二つの敗北は、明治維新に始まる日本近代の帰結であり、ここに帰趨する道程には、近代日本に内在する基本的な問題が通底している。と書いた。その内容をもっと深めなければならないと考えてきたが、その基本的な問題の一つが日本の政治と官僚制の関係のあり方である。その負の側面がアベ政治で一気に現れた。そして終わりの節で
人を金儲けの資源としか見ず格差を拡大し、政治はうわべの官僚言葉を駆使して責任をとらず、福島の現実を覆いかくして原発を再稼働し、アメリカに従属して言われるままに貢ぎ続け、再び兵器産業で利潤を得ようとする。これがいまの世の姿である。とも書いた。これもまたアベ政治として具体的にわれわれの前に現れている。このような形で現れるとは、まったくなんということか。そして、このアベ政治は、このような地平にまで至った日本近代を実際に動かしてきた官僚体制を、その内実において崩壊させた。アベ政治は単に安倍の特異性のゆえに現れたのではない。このことをおさえなければ、人を変えても同じことが続く。官僚機構の再生はまったくたいへんな問題でなる。
また私は最終節で、
根のある地についた変革の思想を育てよ。東電核惨事は、やはり、もういちど人が日本語で生きることができる場を耕すことを求めている。この道を行くしかない。 協働の営みのなかで、ものと言葉を大切にし、温かなつながりを生みだそう。隣人同僚、山河草木、助けあって生きよう。そのところにこそ固有の言葉は育つ。日本語のことわりに根ざした思想を鍛え、新しい生き様を育てよう。と書いた。これは、このように一度は没落し、国破れて山河もなしというところから、長い歴史をふまえて再生してゆこうとするわれわれの生き様を見越したものであった。新しい時代は、それを担う者が育たないかぎり、現実にはならない。その人の内実を作ることに、少しではあるが寄与することを願ってこの本を書いた。
私は、拙著の最後を、
いまなお、世は夜明け前である。しかしまた、近代日本を痛恨をもってふりかえるわれわれは、新しい世の扉を開けうる位置に立っている。実にいまは、帝国アメリカが崩壊し、経済の時代から人の時代へ向かう一大転換期にある。この扉を開くための基礎作業、それが近代日本語をその根底から定義し直す再定義の試みである。と締めた。
かつて人々は、神道のもとに、循環する共生の世を生きてきた。これを現代において見直し取りもどそう。こうして、閉塞した現代日本の旧体制をうち破ろう。うち破る力は、旧来の左右の分岐を乗りこえた新しい人の台頭、これである。そして、国家を超えてたがいの固有性を尊重しあう普遍の場を生み出そう。
島崎藤村の『夜明け前』はいま、これらのことをひとりひとりに問いかけている。この問いかけに応えてゆこうではないか。
われわれはまだ歴史を動かしていない。歴史は待たない。この問いかけが世の中に根を下ろすことができるか。われわれが歴史を動かすまで、もういちどの大きな破局が必要なのか。