玄関>転換期の論考

■ 2018年を送る 18/12/31

 今年は月二回の土曜日、定例の梅田解放区に参加してきた。十二月は寒い日で、素手で竿を持っていると手が思うように動かない。幾人かがそれぞれに語る。そしてそれぞれに「アベやめろ」で締めくくる。私はここでは、横断幕をもつことに徹して、喋らないことにしている。道ゆく人を眺めながら、いろいろ考える。暮れの土曜の梅田である。ほんとうに多くの若者が通り過ぎる。この日は、共感の姿勢を示し一緒に声をあげるものもいた。それでも多くは見ぬふりをして通り過ぎる。

 フランスではあのように、地方から、そして下からのデモと闘争が続く。フランスのことは現地から田中龍作さんが伝えてくれる。フランス報告は「【パリ発】「孫にXmasプレゼントも贈れない」マクロン政治恨む年金生活者」が最後である。長い取材になった。現地の動きを実地に伝えてくれたことに、感謝である。

 フランスよりも、日本の方がずっとひどい状況なのに、なぜ日本の若者はまだ立ちあがらないのか。日本の働くものは立ちあがらないのか。なぜなのだ。それはこの日の梅田解放区に参加したみなの思いでもある。それでもこのままでは、いずれは米騒動のようなことが起こる。そう、日本の人民には米騒動の経験がある。
 そして、沖縄の闘いが今日の希望である。現地の闘いを伝える語りもあった。そして、来年も毎月第二と第四土曜に、ここで続けてゆくことを確認して今年の行動は終えた。この行動は一年半以上続いている。私は、昨年の暮れから参加している。私も、もう一年が経過した、はやいものだという気持ちであった。
 その前の数年間は毎週金曜日に関電前集会に参加してきた。そのときから思うことだが、街頭に立ち考えるということは、自分にとってたいへん大切なことだ。そういえば実はもっと昔、1972〜3年の頃、ベ平連京都で毎月定例のデモをしていたが、河原町や四条通を歩きながら、同じことを考えていたのを思い出す。

 「フランスよりも、日本の方がずっとひどい状況なのに、なぜ日本の若者はまだ立ちあがらないのか。日本の働くものは立ちあがらないのか。なぜなのだ。」と書いたが、そのわけをひと言でいえば、竹内好が「一木一草に天皇制がある」(「権力と芸術」、講座『現代芸術』第二巻、所収)という天皇制である。田中龍作さんが「同様の惨状にありながら、フランス人は立ち上がり、日本人は黙って耐える」と言われるのも、その根は同じである。
 しかしこの天皇制の克服ということは、近代主義的な反天皇論とその運動では不可能である。天皇制という根深い大きな木を倒そうとして、地表に出ているところをたたいているだけだ。それは自己満足に過ぎない。ここがなかなか闘うもののなかでも理解されていない。深い根まで掘り下げねばならない。そこから天皇制が虚構のうえにあるものであることをつかみ、日本語のいう神と天皇制は両立しないことを、明らかにしなければならない。
 私の『神道新論』は、根なし草の近代主義ではなく、日本語のことわりに根ざして、竹内好の言う天皇制をのりこえてゆく途をも提示するものだ。今年はこの本を出すことができた。これに集中していた二年が過ぎた。

 そして来年は、世界的には資本主義の矛盾がこれまで以上にあからさまになる。大きな激しい時代になる。それは避けがたい。東京新聞が「ETF 6.5兆円過去最高 日銀の株式買い、歯止めなく」と報じているが、これは戦後蓄えられた国民の年金資産や金融資産を投げ込んだということである。中央銀行がこのようなことをするのは、法的にも経済原則からいっても、必ず行き詰まる。そして数年のうちに株価が暴落したとき、つまりこの資産が投げ売りした金融資本家にわたったとき、国家財政が破産する。あの敗戦で、超インフレになったのと同じことが起こる。来年か再来年かもう少し後かはわからない。しかしそのときは確実にくる。
 アベ政治の最大のそして最悪の結果である。まさにこのとき、日本では、天皇の代替わりの行事が、これに併行する。アベ政治はこれを最大限に利用しようとする。経済的そして政治的矛盾が激しくなる中で、天皇制はどのように機能するか。敗戦時の天皇制の再編とその機能を思い起こす。そしてわれわれはいま、このアベ政治を結局は支えるように機能することを許すのか。これが問われる。

 資本主義は地球の有限性に規定されて、もはやこれまでのような拡大が不可能である。資本主義はその本性として拡大しなければ存続し得ないゆえに、それは終焉する。どのようにして? かつてのように計画経済がそれに代わるのか。いや違う。それは最早ありえない。
 では資本主義の終焉はどのように歴史の現実となるのか。普遍の問題は、資本主義がもはや拡大の余地がなく終焉をむかえているが、次の時代が見えない、その途が見えない、ということである。新自由主義に反対し抵抗する運動が、次の時代への見通しをもっているかと言えば、まだそうではない。大域資本主義が終焉するのはいかなる形においてであるのか。人々のどのような闘いによってであるのか。それが見えていない。
 この問題に関して、私は、資本主義生産関係そのものを変えるかどうかは問題ではなく、資本に人が使われるのか、人が資本を使いこなすのかの問題である、と考える。使いこなす政治を実現する。かつて、社会主義陣営が存在して時代には、その圧力の下、資本主義陣営においても資本の放縦な動きを規制する様々の仕組みがあった。社会主義が崩壊して以降、その規制はほとんど取り除かれた。日本では小泉政府の規制緩和、そしてアベ政治の規制の岩盤を壊す政策であった。いわゆる新自由主義の経済政策そのものである。
 これに対して、それを許さないものが団結し、もういちど資本の放縦を許さない政治をうち立てる。そしてそれらが国際的に連帯する。これが当面する課題である。来年、フランスのような具体的な動きがこの日本でも出はじめ、それらが繋がることがはじまるか。いや、はじめねばならない。