玄関>転換期の論考

■ 新たないぶき 19/07/20

 二〇一九年七月十一日木曜日の夜、は梅田まで行って山本太郎の街頭演説を聴いてきた。山本太郎の活動は議会選挙を通した運動として新しい。参院選に彼を含めて十人の候補者を立てた。参院選公示後の街頭演説を沖縄からはじめて東に進み、この日大阪に来たのだった。ヨドバシカメラの向かい側にある大阪駅前の空間には多くの人が集まっていた。この場所にこれだけの人が集まるのは、戦争法に反対する集会の二〇一五年の秋以来である。そのときのことは「やつらを通すな」にある。あのとき、結局やつらは通り、そのアベ政治はいまもって続いている。
 山本太郎は自分の言葉で語る。新自由主義がいきわたり人を金儲けの資源と見ることがゆきわたった。そして、人の価値が生産性ではかられる。彼はこのあり方を変えよう、人のいのちを大切にする世に変えてゆこうと呼びかける。そして、消費税廃止と累進課税の強化を軸とし、例えば奨学金返済免除などを含む政策を語る。立候補した十人立候補した十人の言葉はいろいろなところで聞けるが、みな自分の言葉で語っている。それが聞くものの心を打つ。山本太郎は芸人だから話がうまいという人がいるが、それはちがう。
 今回の参院選ではもう一人、労働者の使い捨てを許さない! と全国を駆け回る大椿ゆうこの話も人の心をつかむ。これらの人たちが表に出てきたのは時代の要請、歴史の要求だ。それに応えた彼らの周りでは多くの人が動いている。

 資本主義が終焉を迎え、これまでのような拡大を旨とする経済にあり方は不可能になった。しかし、既成の資本主義は、いっそうの搾取と収奪の強化でこれを越えようとしている。その根底にあるのは、人を生産性で測る世のあり方である。しかしそれは購買力の低下から、経済の破綻に向かう。まさに資本主義の基本矛盾であり、それが露わになった。
 根底にある見方を転換してゆかねばならない。人は存在すること自体に価値がある。これを山本太郎が呼びかけると、多くの人が集まる。人の尊厳を認めあう世のあり方に共感が広がる。もう近代主義左翼はこの時代の要請にこたえることはできない。近代主義とは近代資本主義が作りだした世界観であり、日本においては明治以降の思想潮流、その枠組の中の左派、私はそれを根なし草左翼というが、もはやそれは歴史の遺物でしかない。人の原理に立脚し、資本主義の現在を打つ破ってゆく思想と運動、それが歴史をつくる。

 左派を自認する人々のなかでは、いわゆるポピュリズムへの違和感、「れいわ」という党名への反発などがあって、賛同よりも警戒感が表明されている。左派を自認する人らの源流は、ロシア革命の前から続く左翼にあり,それは資本主義にまだ拡大の余地があった時代に、どのような方向で経済を拡大するのかをめぐり,資本家階級とは異なる方向を追究するものであった。
 しかし、もはや資本主義そのものに拡大の余地がなくなったいま,もういちど立ちかえるべきは「人」なのである。人はいること自体に尊厳がある。このことをかつての同僚ともいっしょに活動した,解放教育運動のなかで学んだ。
 経済から人の時代への転換の歴史がはじまり,それを体現する政治勢力の出現は歴史の要求である。「左右ではなく上下」というのも,経済ではなく人,ということである。山本太郎となかまたちの活動は、人が人として存在することの意味を問うた。ここに共感が広がった土台がある。それは確認する。そのうえで,これがどのように動いてゆくかは,すべてこれからの問題である。

 資本主義の終焉の中で次の時代をどのようにひらいてゆくのかという普遍的問題と,非西洋で最初に近代化した日本のその近代のなれの果てとしてのアベ政治をどう乗りこえるのかという固有の問題と,それが合わさり重なり動いてゆく。
 もとより選挙で世が変わるわけではない。しかし、ここで生まれた人の動きは次につながる。このようなことを通して新しい人のつながりが生まれ、選挙も一つと方法として、世を動かす力を蓄えてゆく。量の蓄積が質を変える。その新しいいぶきが現れてきている。