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■ 青空学園二十年 19/08/12

 青空学園をはじめて二十年目の夏となった。今後のために少しふりかえっておく。これは個人史であるが、また大きな日本近代の中の歴史のなかの小さな歴史でもある。

 昔、高校のとき数学同好会を友人と二人で作って、問題を立てて考えたり、数学教師 二人と四人で群論の入門書の輪読したりしていた。しかし、具体的な数学的現象を掘り下げ探究するということはできなかった。高校生のときの自分が今の自分に出会ったいたら、もっといろいろ学べただろうという思いがある。今の自分が時空を越えて高校生の自分にいろいろ語りたい気持ちだ。『数学対話』は今の自分と昔の高校時代の自分との対話である。青空学園数学科の原点は高校時代の数学同好会にある。
 受験生に数学を教えるにあたって、学校であれ塾のようなところであれ、また青空学園の場であれ、出会った高校生には数学ということを伝えようとしてきた。数学をほんとうに教えるためには、それぞれの問題の背景や一般化をつかんでいなければならなかった。そのように考え、勉強した。そして高校数学といえば受験数学でしかない現実に対して、少しでも学問としての高校数学を事実として展開してゆきたいと考えた。同時に、高校生の現実としての受験数学から離れないように、実際の問題を掘り下げることを出発とした。
 かつて私は「大学解体」が言われた六八年の時代に学生生活を送った。もっともそれで大学院をやめたということではない。院をやめ高校教員になったのはもっと内的な理由からであったが、当時の大学の現実にこれではだめだと思ったことも間違いはない。そして、高校生に数学を教えることをいろいろな立場から続けることで、改めて確認したのは、やはり二十歳前後の人を対象とする教育機関は必要だということであった。しかし、それに応えうるものは現実には存在しないし、今はまだ存在しえない。そこで電脳空間に仮想の学園を作り置こう、それが青空学園をはじめたもう一つの動機であった。
 現場の教員が置かれている状況から、これらを自分で勉強するには時間がないだろうと思い、こちらは古典にも当たって勉強し、それを今の言葉で書いて公にしてきたのだ。青空学園数学科では、現在 A4版のPDFで3200枚になるものを、HTMLで公開し、PDFも自由にとれるようにしている。数学が少しでも根づくようにと願って無償で公開してきた。これは私の信条にもとづくものである。これができるようになったのは情報技術の発展の結果であり、その意味で青空学園の出現は必然でもあった。
 教科書風の受験対策の数学参考書は多くある。その一方で、おもしろく書いた読み物もある。しかし、高校から大学範囲の数学を、学問としての立場からそれなりに探究し書き表したものはほとんどない。そのような文化は日本ではまだ育っていない。そこで、そのような試みの跡を残しておこうと、これをやってきたとも言える。

 青空学園では同時に、日本語科も開設してきた。日本語科でやってきたことは、根のある思想を構築するための土台作りとして、基本的な日本語を掘り下げることであった。それを『日本語定義集』として残してきた.それがようやく一定の蓄積ができ、人に語ることができる段階になり、一連の文章を雑誌に寄稿し、それらをまとめて加筆し『神道新論』として公にした。
 これもまた、近代の翻訳日本語に大きな違和感をもった高校時代の自分が出発点である。ラッセルの『西洋哲学史要』、確かみすず書房だったと思うが、これを図書館で借りてくりかえし読んだ。しかしあのとき「思考」とはどのように頭を働かせることなのか分からなかった。今はこれを「根なし草近代の翻訳言葉」としてとらえているが、当時は違和感だけが残った。
 また、自分が高校生に教えて、今の高校生の考える力の衰えを実感し、その根源が根なし草の近代日本語にあることに思い至ったことも日本語科をはじめた動機の一つであった。このような近代の行きつく果てに直面して、考えてきたことはやはり必要なことであったと思う。闇夜のなかの破壊の瓦礫の中から、新たにたちあがってゆくとき、生きた言葉とそれにもとづいて根拠を問う学問が、不可欠である。非力かつささやかではあるが、できるところからその準備をしてゆこう、それが、これをはじめたときに考えたことである。そしてまた私の考えは、まだ全くの少数である。日本語科の一日の訪問者は数人である。しかし、いずれ、多くの人がそうだと考える時がくると信じている。

 この日本は非西洋にあって最初に西洋化し、そして百五十年、いままさに没落の瀬戸際にある。近代の果てとしてのアベ政治は、同時に資本主義の閉塞の中でいっそう悲惨なものとして現れている。没落し、かつてこのような非西洋の国があったと後世の世界史の中の一幕となるのも致し方なしと考えて来た。日本というところは、いったんはそこまでいかねばならないのかも知れない。
 そしてそこで、それでもそこに生き残る人らがそこから立ちあがるときに、よるべき言葉がいる。根のある変革思想の礎として、それを言い残し置かんと『日本語定義集』に残し,そして『神道新論』を書いたのだ。力およばずであるが問題の提起にはなっていると確信する。

 私は、理系人間でも文系人間でもなかった。理系、文系という高校から大学での分け方は、近代日本の教育が手っ取り早く官僚と技術者を作るために作り出したものである。官僚は、数学に時間を使う必要はない、技術者は歴史や古典は知らなくてもよい、というわけである。
 私は高校時代、数学も哲学もおもしろかった。また大学生になったころは道元の『正法眼蔵』を、分からないままに、いつも持ち歩いて読んでいた。それで結局大学院を中退し、高校教員からはじめていろいろなことをやり、青空学園で考えて、そして『神道新論』などを表した。これは、理系文系という近代日本の底の浅い枠組を自力で乗りこえるということでもあった。そうしなければ、近代日本の閉塞を越える道は拓かれない。もとより途上であるが、それは確かだ。