明治維新にはじまる日本近代は、西洋帝国主義の外圧のもとになされたものであり、内因によるものではなかった。帝国主義の段階となっていた西洋に対して、独立を維持して近代資本主義に入ろうとしたものであり、そこに能動的な意志が働いていたとはいえ、それはあくまで脱亜入欧であり、それ以前の世を継承しその内的展開による近代をめざすものではなかった。そのゆえにそれは根なし草であった。
近代日本の世の変革の運動の多くもまた、この根なし草近代の枠組の中でなされてきた。この近代主義的な世の変革運動は、人民を深く動かすことができない力のないものであった。
近代日本語は、西洋語を移入するために作られた漢字造語である。それが根のある言葉から定義されるのではなく、意味は西洋語に根拠をもって、そのままに使われてきた。社会、革命、人間、みなそうである。世であり、世直しであり、人であるというところからの定義はなされなかった。そんな言葉で組み立てられた世は、やはり根なし草である。
近代の数学は、日本の文化とは切り離されたところで、個人が西洋に学んでなされてきたものであり、高校や大学での教育は、近代技術のための方法としての数学でしかなく、文化の根としての数学は教育のなかに位置づけられることはなかった。今日も高校数学と言えば受験のための、または技術のための道具としての数学でしかなく、根拠を問う学問としての高校数学は、日本の高校にはない。
この根なし草近代の成れの果てに、福島核惨事の悲惨があり、その悲惨をもたらしたアベ政治の非道がある。これらの近代日本の抱える問題は、非西洋にあって近代化した多くのところに共通する課題であり、その意味で普遍性をもつ。
私が青空学園という場をつくり、日本語科と数学科をおいて考え、拓き耕してきたことは、この根なし草近代をのり越えてゆくための、基礎的な営みであった。学問としての高校数学、その基礎にある根のある日本語の探究を実際におこなう場であった。そして昨年末、昨年末に書いた「核炉崩壊以降」で考えたことを、 『根のある変革への試論』としてまとめた。ここでいう変革とは世直しのことである。
この二十年をかけた営みである。基礎とすべき作業はできた。しかし、これが日本近代を越えてゆくために必要な作業であることが一般に知られるまでには、まだまだの時間が必要である。
日本という世は、いずれ行きつくところまで没落することは避けられない。既存の価値観、つまりは資本主義的価値観において徹底して没落する。そのところにおいて、異なる価値観のもとにしか再生はありえない。それは、資本主義の終焉から次の段階を拓くという課題の、日本におけるあり方そのものである。
それはつまるところ、生きるものの命とその環境を守ることを第一とする世のあり方に転換してゆかねばならないということである。医療いおいても、すべての分野においても、誰一人取り残さない制度を作り、生産者と消費者が直接につながり共生し、人として互いに敬い尊厳を認めあう、そのような世を生みだしてゆかねばならない。またそうしなければ、これからも続くウイルスの拡散そのものを抑えることはできない。
非西洋にあって最初に資本主義化した近代日本の没落は、資本主義とは異なる基準でこの世を作り直さなければならないという、歴史の求めなのである。経済を第一とすることから、人を第一とすることへの転換である。それは新自由主義の世とは真逆のものである。歴史が求めることは、実現可能なことなのである。しかしまた、そんな世は、思想的にも実践的にも、闘いなくしては生まれない。
明治維新は根なし草の変革であった。長州人の手で遂行され、それが安倍政治に至っている。資本主義の次の段階への変革においては、これを深い教訓として、根をおく場そのものをつくる、根のある変革でなければならない。『根のある変革への試論』はまさにそのための試論である。私は自らの力においてなしうることはした。青空学園がいつまで存在しうるのかは不確定であるが、次の世代で引きつぐものが現れることを願っている。