7月4日で73歳になった。団塊の世代である。小学生のころはアメリカ独立記念日と同じ日であるのが少し自慢であった。そのアメリカが崩壊と変革に向かうような歴史の段階に出会うとは 、思いもよらなかった。
実際、帝国アメリカは、何より国家の分裂という問題を内包し、経済的にも政治的にも没落をはじめているなかで、多人種が連帯し幅広い裾野をもつ一連のデモが続いている。これは没落と崩壊のなかから新しいアメリアに向う変革の第一歩となった。
アメリカがそのようになればなるほど、アベ政治のアメリカ隷属は酷くなる。そして、これに対する人民の動きも、新たな芽もいろんな所に出てきているとはいえ、日本においてはまだまったく弱いものである。それを痛感する。
このままでは後世の歴史に、資本主義の終焉期に、日本という国がアメリカと心中し、ともに没落したと書かれるかも知れない。昨日の東京都知事選挙の結果を見て、その思いを強くする、あのように自らの理念も何もないものを知事に再選する世である。今の日本の新聞やテレビは情報機関ではない。洗脳機関である。小池のかかえる問題は一切報道せず、持ち上げばかりする。この洗脳が効果を出した結果である。
この方法で、アベ政治のような人でなし政治が、人を替えて、これからも続くであろうと考えられる。行きつくところまで行かないと、これに気づく者が多数とはならない。宮崎学さんの言葉「このままでは国が滅ぶだろう。いっそ滅びればいい。鬼が出るか蛇が出るかは知らないが、その先に何かあるだろう。この国に希望があるとすれば、その先にしかない」は、知事選をふまえて一層その意味が重くなった。
また今回のコロナ問題で浮かび上がったのは、いかに日本の支配層が無策で、すなわち危機において政策に力がなく、その結果、この国を没落させつつあるというその現実である。
世界的にもこれまで支配的であった政治体制が没落してゆく。それぞれの国で、そのようになる根底にある歴史的要因は違うだろう。日本においては、近代百五十年が根なし草の近代であったことが根底にあり、それが資本主義の終焉という普遍的要因と結びついて、根なし草近代の成れの果てとしてアベ政治に至っているのである。
近代日本の世の変革の運動の多くは、この根なし草近代の枠組の中でなされてきた。それを近代主義的左派と言うことにすると、この近代主義的な左派による世の変革運動は、人民を深く動かすことができない力のないものであった。
ここに。東京都知事選挙でいわゆる野党がまったく無力であった根底の理由がある。しかしこれは私自身の問題でもあった。私自身が、かつての活動に破れたとき、そのことを考えた。『神道新論』では「序章」次のようにはじめている。
それから二十五年、ここで出会った課題にできる範囲でそれなりに向きあってきた。かつて、私は高校教員として地域の教育運動に取り組み、その一環として教員組合運動を担った。地域の底辺校であったその公立高校は、いわゆる行革の流れのなかで、その後廃校になった。教員を辞してからは政治組織の専従もしたが、それにもまた破れた。およそ四半世紀前のことである。
このような闘いは、いずれにせよ敗北の連続で、破れたこと自体は一般的なことであるが、そのとき私は、組合や党派の機関紙などに書いてきた自分の言葉が、人の心にまでは届いていなかったのではないかということを、深く考えざるを得なかった。
私なりに、根なし草近代を越えて、次の時代を根のあるところから拓き耕そうとしてきたのだ。これは孤独な作業だった。私は今も、高校生に数学を教えたり数学の問題を作ったりと仕事をし、地元自治会の役もし、若者と一緒に声をあげることもしている。だが、自分にとってもっとも肝心なこの仕事はまったくの一人仕事であった。
それでも、電脳空間においておくと、それぞれのサイトは、1日あたり日本語科で5〜6、数学科では150前後、カウンターが上がる。それだけの人が訪れてくれている。掲示板での対話もある。生身の人が実際に出会うのではない。電脳空間での匿名の出会いであるが、中味は共有される。情報技術が可能にしたことではあるが、ありがたいことである。
この間からは掲示板で入試問題の一般化の問題提起があり、これを考えている。これまでやってきたことをふまえての次の段階であるが、難しい。というか、かつてのようには頭が動かない。それでもこれからもできるところまで続けたい。