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■ 根なし草近代は越えられるか 20/08/25

 先日「根なし草近代を越えて」を書いた。だが、この日本において、根なし草近代を越えることは本当にできるのか。日本固有の問題としての人民闘争の経験のなさがいわれる。その通りであり、そこにもまた根なし草近代の実相がある。

 数学もまた、日本においては外からのものであり、近代日本に根はない。そのことは『日本の数学 西洋の数学』(村田全著)に詳しい。技術の基礎的方法としてのみ、必要不可欠であり、その意味をもってきた。このことをふまえ、私は夏の日に、どれが自分の一番の仕事かを考え、青空学園数学科こそがそれであることに納得した。そして数学科の制作に時間をかけた。これが数学科の日常活動である。青空学園数学科は、数学を文明の基礎として根づかせるための日常活動である。
 では、日本語科の日常活動とは何であるのか。こうして言葉を綴ること自体が日常活動なのか。根なし草言葉で根なし草近代を越えることはできないとして、ではこの近代を越えてゆくために何をしなければならないのか。
 定義集はこれを越えるための基礎作業と位置付けてきた。しかしそこからはじまる途の遠いことを思わずにはいられれない。

 この固有の問題は、しかし今日の普遍的問題の場にある。いまわれわれは、資本主義の終焉期に起こる新たなファシズム、これを許すのか否かの岐路にある。かつてのファシズムは、経済に発展の余地がありどの方向でこれを発展させるのかという段階における、社会主義かファシズムかの対立であった。今日のファシズムは資本主義の終焉期におけるファシズムであり、かつてのファシズムとは条件が異なっている。
 この段階におけるファシズムとの闘い、これがいまの歴史の課題である。そしてそれは、固有性に依拠した具体的なものであらねばならない。

 こうして推敲しながら綴ることを、日本語科の日常の活動としてゆく。