世界はいきいきと輝き運動を続けている。人間もまたこの世界のなかでいっとき輝きそして生を終えてものにかえる。そのいっときを「いのちある」ときという。いのちあるとき、それを生きるという。人が生きる内実は、「こと」の内に入って「こと」をつかみ、人生を動かしていくことである。この営みを「ことをわる」という。人生とは「ことをわる」営みそのものである。
「いのちある」というその「いのち」そのものはことばにならない。世界が、動き、生き、響きあい、輝き、生まれ死に、興り滅びしている。それはいのちの発現である。人間がいのちあるのもまたいのちの発現である。人間が生まれ、そして帰っていく大元であり、人間にさちを贈る大元でもある。
いのちは深い。いのちの発現は、つねに、ことをわるはたらきという形でおこなわれる。それが人間の存在の基本構造である。
「ことわる」はこれまでの日本語では漢字に「断る」をあててきた。これは何を意味しているのか。一つの家や村やなどの内で「こと」を荒立てることは、日常生活において当然のように流れている毎日の時間を断ちきることであった。それがつまり「ことを割る」ことであり、日常生活を「断る」ことであった。協働の場の慣習的な任務に異議を唱えることが「ことわり」であり、したがって日常生活を「断つ」ことを意味する漢字が当てられた。
しかしわれわれは人のいのちのいとなみそれ自身が「ことわり」であり、さらにそのうえでの「語らい」であると考える。人が生きるということは何かしら「こと」を荒立てることなのである。この現実を覆い隠すことはできない。
このような人間は近代になって見いだされたものである。
近代は「人」を「言葉をもって協同して労働する生命体」として再発見した。これは、近代資本主義が勃興する時代に始まり、近代ブルジョア革命と資本主義生産制度のもとの産業革命によって社会が根本から変化して、全面的に用いられるようになる。日本語でいえば、江戸期に今日に通じる「人間」の用法が始まり、「明治維新」と「殖産興業」による近代工業の成立以降になって一般化する。
明治維新は日本に資本主義を全面化させ、産業革命を準備した。産業革命の求める大規模な生産を可能にしたのは「自由」な(封建制度から自由になったが、しかし同時に搾取されることにおいても自由な)労働者である。明治資本主義の本源的な資本蓄積は農村の収奪によってなされた。その結果、農業で生活できず都市に多くの労働者が流出した。こうして労働のみが生きる術である労働者が生み出された。「自由な」労働者の出現である。
労働によって何が維持されるのか。それは生命と人間相互の関係である。労働は個人の労働ではない。すべて協同労働である。協同を可能にしているものは何か。それは言語である。これが「人というもの」である。このように再発見された「人というもの」が「人間」である。
もっとも早く「人間」を発見したのはもっとも早く資本主義段階に到達した西洋近代である。フランス革命に向かう時代にフランスの博物学者キュビエ( Cuvier,Georges 1769−1832 )によって〈生命〉の概念が確立する。資本主義の展開は西欧人をこれまでとは違う言語に直面させ、言語の比較分析は、言葉の内部構造の探求へと向かい、〈言語〉の概念が確立する。スミス、リカードによって〈生産〉の概念とそれ担う〈労働〉の概念が確立する。学としてそれらは、生物学、言語学、経済学を確立する。
このように、「人」を「労働し言語をもつ生命」として再発見するのが近代である。このようにして再発見された「人」を「人間」という。
つまり、「人間」を「人間」という言葉で考えるようなったのは、近代なのである。アルチュセールの弟子であり戦後フランス思想のもっとも徹底した遂行者であったミッシェル・フーコーが、この西欧近代の知の枠組みについて解明している。フーコーは『狂気の歴史』で〈狂気〉が〈病気〉になったのはいつかを解明する。狂気はルネサンス期には決して病気ではなかった。〈狂〉とは日常の生活意識とはまったく別の次元から日常を照し返す働きであった。フーコーはこ〈狂〉が〈病〉に移行したのがフランス古典主義時代であると考える。十七世紀後半から十九世紀初頭までのフランス革命に至る絶対主義の時代である。〈狂〉の解明、つまり心理学の起源からはじめて臨床医学の起源へと進む。これらは個別科学の起源である。そして各分野の「個別科学」が実は同じ時期に生まれたことは、さらに深い何か共通のものがその時代にあったことを示している。フーコーは『言葉と物』でこの問題を解明した。中山元が『フーコー入門』(筑摩書房1996)が適切にまとめたように、フーコーはこの書で次のことを解明した。
フランス革命は、産業革命を準備した。産業革命によってもたらされた大規模生産を可能にするのは、「自由」な労働者である。つまり自己の労働のみが生きる術である労働者である。労働によって何が維持されるのか。それは生命である。労働は個人の労働ではない。すべて協同労働である。協同を可能にしているものは何か。それは言葉である。比較解剖学の発展から、キュビネーによって〈生命〉の概念が確立する。言語の比較分析は、言葉の内部構造の探求へと向かいここの〈言語〉の概念が確立する。そして、スミス、リカードによって〈生産〉の概念とそれ担う〈労働〉の概念が確立するのである。学としてそれらは、生物学、言語学、経済学を確立するのである。
この〈生命〉〈言語〉〈労働〉は、近代資本主義の合理性によって伝統的な「神」が死んだ後に、「もの」「こと」「いき」の生命の三つの相を共通の合意として維持するために「発見」されたものである.新たな社会組織化のためのかぎとなる考えかたであった。
〈生命〉のうえに〈言語〉を媒介として協同の〈労働〉をおこなう生物として〈人間〉が概念として成立するのである。「われわれの近代性の端緒は、人々が人間の研究に客観的な方法を適用しようとした時ではなく、〈人間〉と呼ばれる経験的=超越的な二重体が作り出された日に位置付けられる」。
近代社会は、近代資本主義の合理性によって伝統的な「神」が死んだ後に、 労働・言語・生命 として人間をとらえた。ここにもまた「存在・構造・構成」が生きている。存在としての生命、構造としての言語、構成としての労働、これが人間世界である。近代資本主義の見方では、人間は〈言語〉を媒介として協同の〈労働〉をおこなう〈生命〉ある生物としてとらえられる。近代的な〈人間〉が概念として成立する。われわれはこれをふまえる。ここを土台にしてさらに向上する。
近代資本主義は、「神」の死後、労働・言語・生命の新たな三位一体を見いだすことで世界を統合した。近代とはつまり資本主義の統合原理としての「人間」という考え方が一般化したときである。しかしその「人間」は、資本主義のもとでは統合の建前にとどまり、真に「人間」が実現されることはない。
ちなみに、キリスト教では、この世界を神・キリスト・精霊の三位一体としてとらえてきた。世界の実在を「神」としてとらえ、その本質を「キリスト」に発見し、そして人間と「神」を媒介するものとして「精霊」を立てた。世界の神話的把握である。マルクス主義は、この「人間」を土台にしつつ、資本主義を批判した。資本主義近代批判の新たな「考え方の枠組み」として発見されたのが 経済土台・上部構造・社会変革である。実践的には、経済、闘争、革命である。
このような近代資本主義が生み出した人間のとらえ方に対して、二十世紀末になって「ポストモダン」つまり「近代以後」が思想としてふらんすではやった。それがまた例のごとく日本に紹介され、いくらかの人々がそれにかぶれた。ミッシェル・フーコーは「人間は近代になって誕生した概念であり、終焉の時期が近い」というが、近代人間の終焉は現実の過程の問題であって、それを観念だけで終焉させようとしたのが「ポストモダン」でっあた。それを紹介した日本での流行などは、まったく一時のものでしかなかった。
理学は現実過程を観念ですますことはできないと考えている。そして日本語は今やっと「人間」を発見しつつあると主張する。
日本語では、「もの」「こと」というこの世界のありようが言葉のなかに組み込まれている。「もの」「こと」「いのち」、これが日本語に組み込まれた三つの相としてとらえられた世界である。言葉の構造なかにこの三つを組み込んでいない西洋語世界では、この三つを外に立てた。それが「神・キリスト・精霊」の三位一体である。内部に組み持っている日本語世界ではこのような一神教は人間組織の統合に必要なく、汎神論的な見方が発展した。このように人間存在の基本構造を言葉でどのようにとらえるのかが、世間のあり方をも規定している。