next up previous 次: 根のある言葉 上: 固有の問題 前: 固有の問題

列島弧の歴史

古代以前

日本列島弧の形成

今から四万年の昔、地球はまだ氷河期であり、海面は今よりも百メートル以上低く、日本列島弧もユーラシア大陸と地続きであった。この頃に、比較的まだ暖かであった日本列島の地に、シベリヤはブリヤートから人が移住してきた。

その後、二万年の昔、地球は温暖化の時代を迎える。日本列島が大陸と切り離され、島として形成されてゆく。そして今度は、南方の酷暑の地方、いまのインドネシア西部、いわゆるスンダランド地方からから、人が住みうる気温であった琉球弧、そして日本列島弧への移住がすすんだ。これは島伝いの移動であった。北方からと南方からの移住者、その混成を基礎に、長い時間を経て縄文の時代がはじまったのである。

縄文時代

こうして一万七千年の昔、日本列島弧は、現代日本語の基層となる言葉を母語とする文明のもとにあった。縄文土器は,世界でも最古の土器である。日本列島は火山列島であり、溶岩というものが、土は焼けば性質を変えることや,焼き固めるうることを教えたにちがいない。大きくその文明を縄文文明、その言葉を縄文語と言おう。

この時代、東北地方は温暖であった。青森県三内丸山遺跡は今から約五千五百年前〜四千年前の縄文時代の集落跡である。八重山諸島や沖縄本島でも六千年前の土器が発掘され,長期間にわたって定住生活が営まれていたことが知られている。この縄文時代の人々の交流は『物流理論が縄文の常識を覆す』[69]に詳しい。インドから東アジア一帯の交流はこの頃まことに盛んであった。

三内丸山遺跡の近年の発掘調査で、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子供の墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかった。膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土している。ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになった。

縄文時代は、多様な人の集まりが各地域に独自の生活を刻み、また交易もなされていた。生活は記憶され、そこに一定の歴史が刻まれてもいた。日本列島弧に多様な、しかしまたモンゴロイドとしての共通性をもった、さまざまの言語と文化が存在し、多くの交流があった。

そしてこれは、大きくは東アジアの文明の交流のうちにあった。長江文明の遺跡の発見とその調査から、稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、日本の稲作もここが源流と見られる。縄文時代後期には、少なくとも陸稲が栽培されていた。

弥生時代のはじまり

このようなときに、弥生の文明が起こった。民族学博物館の研究によれば、弥生時代は紀元前九百年代に始まる。それは以下の事実によって結論された。九州北部の弥生時代早期から弥生時代前期にかけての土器(夜臼II式土器・板付I式土器)に付着していた炭化物などの年代を、AMS法による炭素14年代測定法によって計測したところ、紀元前約九百〜八百年ごろに集中する年代となった。考古学的に同時期と考えられている遺跡の、水田跡に付属する水路に打ち込まれていた木杭二点も、ほぼ同じ年代を示した。そして、この時代に併行するとされる韓国の突帯文土器期と松菊里期の年代について整合する年代が得られた。

日本語学者・大野晋の言語学的、人類学的研究によれば、この水田による稲作は、鉄器と灌漑の技術をもったタミル人によってもたらされた。紀元前一千五百〜一千年、アーリア人がカイバー峠を越えてインド大陸に進出した。インダス文明を築いたタミル人を含むドラビダ語族の人々は、南方デカン高原へおされ、そのうちのあるものは海にのがれ、東南アジア地域に拡散した。あるものは日本列島と朝鮮半島南部にまで至った。

タミル人は鉄器と灌漑と水田耕作の技術をもっていた。稲そのものは縄文時代から栽培されていた。そこに新たにタミル人が新たな稲まで持ちこんだのか、あるいは縄文時代から在来する稲を水田技術で耕作し始めたのか、それは今後の研究課題である。残された資料からは、協働して水田耕作をおこなう技術とそれを支えるさまざまの言葉が持ちこまれてのではないかと考えられる。

いわば、縄文文明を母とし水田耕作と鉄器を父として、弥生文明は生まれた。現代の日本人女性のミトコンドリアDNAの解析から、起源場所が世界の九箇所で確認されており、九箇所の多くは中央アジア周辺に分布している。その内の一ヶ所だけ南インドにある。従って、やってきたタミル人は比較的少数であった。技術とそれに伴う言葉と世界観が、それまでの縄文の世界観と出会い、そして熟成し、在来の稲と人の間に広がった。

タミル人が日本列島弧に入ってきたということは、韓半島南部にも入ったということであり、韓半島南部と九州北部、西日本は同一の文化圏が形成されたのである。われわれは現代日本語の起源に関して大野晋の学説とその論理的帰結を支持する。これは発見された客観的な事実である。

大野晋によれば,日本語もまたこのような大転換期を経て混成語として熟成してきた。今日につづく日本語は、縄文語のうえに、紀元前九百年頃タミル語が重なって形成された。こうして、縄文語に起源をもつ言葉とタミル語に起源をもつ言葉との混成が、熟成を遂げていった。

中国大陸からも南西諸島へ、そして壱岐や隠岐、対馬を経て,朝鮮半島南部や日本列島へ、幾重にも移住がおこなわれた。朝鮮半島南部は日本列島と同じくモンゴロイドの文明のうえにドラビダ系が入って長い時間を経ており、日本列島西部とは深い関係にあった。このように、日本列島弧、琉球列島弧、そして朝鮮半島南部の文明は、それぞれに東アジアの海の民の文明であった。

国の成立

弥生時代がはじまり数百年の熟成を経た紀元前五世紀の頃、中国大陸は春秋戦国の動乱期であった。紀元前四七三年、長江流域にあった呉が滅んだ。その末裔やそれに率いられた人々のなかに、日本列島に移り住んだ集団があった。そして九州の地に国を開いていった。それが「倭の国」である。

その後、紀元前三三四年、越もまた滅んだ。彼らは丹後半島や出雲、越(現在の福井県や石川県)地方に入ったといわれている。揚子江下流域の海の民の呉や越の末裔がやってきて新たな支配層を形成し、まつりごとをおこなう体制が生みだされていった。

弥生後半期のクニの形成はこうしてなされていったのではないか。このように、日本列島弧,琉球列島弧は数千年の昔から多くの民族や文明が行き交い興亡をくりかえした来た。

黄河文明からの支配者

このうえにさらに二〜六世紀にかけて、漢が滅んだ後の五胡十六国の動乱の時代に、中国大陸、朝鮮半島から新たな支配者、天皇家の祖先に連なる人々、あるいは邪馬台国といわれる系統の人々がこの列島にいたり、大陸との深いつながりをもって小国家を形成した。中国大陸や朝鮮半島から亡命するようにやってきたものもあった。

一九九〇年代の中国との共同研究で、三燕の故地・遼寧省朝陽市の遺跡で発見された四〜五世紀の馬の甲冑や装飾馬具ととおなじものが、和歌山・大谷古墳や奈良・藤ノ木古墳で発見されている。

遊牧騎馬民族の鮮卑・募容一族のあるもの、あるいは遼東半島に起源をもつ公孫氏一族のあるものが日本列島に来ていたことはまちがいない。これが天皇家の祖先を形成する。そして複雑で困難な時を経て、日本列島を武力統一し、列島中央部を支配したのが今日に続く天皇家の祖先である。

民と天皇

万世一系神話の成立

このように、縄文文明のなかにタミル起源の文明が入り、長い時をへて混成し弥生時代を形成し、農耕がひろがった。そこに、揚子江の下流に広がる中国大陸南方からの新たな支配者が日本列島、とりわけ九州や出雲にくる。その支配がゆきわたったころ、さらにそのうえに黄河文明のもとにあった天皇家の祖先が、朝鮮半島を経てやってきたのである。

南方と北方の二つの系統の支配が、いきかい交替し、唐の時代になって、日本列島もまた北方系の支配が確立した。それが、奈良盆地に成立した王権である。黄河文明に起源をもつ遊牧系の民族が日本列島の支配権を確立することで成立した。強大な武力をもったものが、支配を広げていくにあたって用いた方法は一方における徹底した殺戮と平定であり、同時に「土着の習俗を取り込む」ということであった。

その過程で,天皇家の祖先にまつろわなかったもの、それがまつろわぬ民である。この王権は統一の過程で、まつろわぬ民に対し、同化か滅亡かの非情な態度を一貫させた。今日、台湾島では政権が公認する少数民族だけでも十四存在している。それに対し、日本政府が国際人権規約に基づく国際連合への報告書に同規約第二七条に該当する少数民族として記載しているのはアイヌ民族のみである。彼らの同化政策は厳しかった。

こうして成立した王権は、その支配権が確立した頃、日本列島に内発した王権であるとの虚構の下に、古代日本の様々の王権の歴史を簒奪し「日本書紀」を書き出した。そしてそれと矛盾する多くの文書を焚書にした。万世一系の天皇家という虚構もまた、この過程で生みだされた。

大嘗祭の成立

そして、彼らは農業協働体がその維持発展のためにおこなってきたさまざまの習俗を取り込み、あたかも天皇家がそれを代表するかのように振舞うことで支配の権威を打ち立てた。

新嘗祭のもととなる祭そのものは、収穫の感謝の祭としてそれぞれの協働体でおこなわれてきた。当時の基幹の産業は農業である。天皇家は、農業の発展を願う人民の心を取り込むため、農業協働体のなかでおこなわれてきた習俗としての祭りを新嘗祭、大嘗祭として取り込んだ。こうして天皇家の正統性と権威づけを演じ出してきた。このような支配における虚構は天武天皇から天平時代にかけて完成する。日本書紀編纂の過程がこの支配のあり方が仕上がっていく過程でもあった。

平安時代が終わり、天皇家を中心とする貴族社会が支配権を失って以降も、その時々の支配者は「日本文化を体現するものとしての天皇」という虚構を支配のてこに深くかつ本質的に活用してきた。そしてそれは江戸時代末期に国学として復活し、明治国家から軍国主義日本を経て現在まで続いている。

みこともち

さらにその基礎となることが、「すめらみこともち」として天皇を位置づけることであった。固有の言葉を神から受け取るものとしての天皇、である。

日本列島に内発した王権という虚構が天皇制を支える土台である。天皇は古くは「すめらみこともち」ともいわれ。この言葉の意味を戦後、折口信夫は『女帝考』[27]で次のように述べる(太字部分、原典は傍線)。

みことみこと執(も)ち。即すめらみことは、『最高最貴の御言執ち』の義であって、其處に、すめらみことの尊い用語例も生じて来たのだが、同時に、天皇に限って言ふばかりの語とは限らなかった。中つすめらみこととは、すめらみことであって、而も中に居られるすめらみことと言ふことであった。…中つすめらみことが神意を承け、其の告げによって、人なるすめらみことが、其れを実現するのが、宮廷政治の原則だった。

折口はここで、神の言葉を聴きとる「中つすめらみこと」こそシャーマン的な女帝であり、その女帝が人たる「すめらみこと」に伝え、「すめらみこと」はそれを受け取り、まつりごとをおこなう、と述べている。「すめらみこと」は受け取る人である。人は神の言葉を聞くのであるが、しかし人そのものが神であるという考えは、近代の国家神道を除いて、一切なかった。

折口信夫は天皇の「人宣言」を受け、実は古代から天皇は人であったということを語っている。現人神の否定である。折口は戦前戦後を通じて天皇が神であるという考え方はとらなかった。それは民俗学の良心である。

昭和二十二年、神社本庁創立一周年記念の講演「民族教から人類教へ」において、「これからの神道は天皇・宮廷から解放され、民族宗教からより普遍的な宗教へと成熟していく『希望』のなかにある」ということを言っている。この講演を聞いた神社関係者の多くは本庁の評議員に抗議したが、神社本庁当局は「この折口学説は、一参考に過ぎず、神社本庁がこの説を公認するものではない」と釈明を行い、以降、神社本庁の主流は、折口学説とはまったく異なる方向に進む。

しかしその上で言えば、折口が書き残した天皇観には、大きい虚構が隠されている。日本列島弧の民俗はどこから来たのか。折口はそれは天皇から来たと言いつづけた。神の言葉を受けとるものとしての人天皇と、そして天皇家の習俗が先にあり、それが民間に広がったという考え方は変えなかった。昭和四年の『古代人の思考の基礎』[59]で次のようにう。

尊貴族には、おほきみと仮名を振りたい。実は、おほきみとすると、少し問題になるので、尊貴族の文字を用ゐた。こゝでは、日本で一番高い位置の方、及び、其御一族即、皇族全体を、おほきみと言うたのである。この話では、その尊貴族の生活が、神道の基礎になつてゐる、といふ事になると思ふ。私は、民間で神道と称してゐるものも、実は尊貴族の信仰の、一般に及んだものだと考へる。

折口信夫は、神道は天皇家の信仰が広がったものであり、人民の生活や習俗も天皇家に由来し、それが下に広がったという。これが虚構である。

これを読む前提として『古語復活論』[58]で「我々の国語は、漢字の伝来の為に、どれだけ言語の怠惰性能を逞しうしてゐたか知れない程で、決して順当の発達を遂げて来たものではないのである。」と言ってきた折口信夫が、「思考」を定義することなく「古代人の思考」と用いていることを指摘しておきたい。『古語復活論』の立場からは『古代人の考え方の基礎』と言うべきであり、ここには折口信夫のある種の妥協が存在する。

そのうえで、この折口信夫の「(天皇の)生活が、神道の基礎になつてゐる」という考え方は、事実ではない。虚構である。

折口信夫は民俗の実地調査を重ねた人であるから、このことを十分承知していた。しかし、天皇家の習俗は、この地での支配を確立する過程で、日本列島弧でそれまでに形づくられてきた民俗を取り込んだものだということは、生涯口には出さなかった。

陸軍中尉として硫黄島で戦死した養嗣子・藤井春洋はじめ、虚構のもとに死んでいった多くの若者のことを思うと、とても言えなかったというべきかも知れない。

無責任の体系

虚構で作られた支配制度、ここに天皇制の特質がある。虚構のゆえにまたこれは巨大な無責任の制度でもある。外来の天皇家とそれに連なることで利益を得るものが、内に住む他のものに対してはもっとも厳しく対する。ここに、同化指向が非人的なまでに強く、また近代において近隣への侵略を非道に行った根源がある。このような支配と社会編成の方法は今日に続いている。

さらにまた、総括することのないままに水に流す傾向は、結局はこの天皇制が作り出してきたものである。誰も責任をとらず、すべてを天皇に預け、そして天皇はまた責任を問われない。無責任の体系、これが天皇制の特質である。そしてそれは、ついに東電核惨事にいたり、そして、再び誰も責任をとらない。

昭和天皇

敗戦処理における責任

先の十五年戦争は日本の歴史において未曾有のことであった。南太平洋から東南アジア、東北アジア、中国大陸と朝鮮半島、いわば日本列島弧に住んでいる人の祖先の地のすべてに兵を進めた。この戦争を進める結節点に昭和天皇があった。

そして大敗北をした。敗戦処理の過程で、天皇は自ら責任をとるのではなく、臣下を戦犯として差し出し、アメリカに命を乞うて皇統を守ろうとした。作家の故小田実はその小説『玉砕』[69]の前書きでいう。

この事実(敗戦処理過程)で私が強い怒りをもつのは、ここには期せずして日本とアメリカ、二つの国家の国家権力の結託があるからだ。その結託の中心に天皇があり、天皇の「生命乞い」がまぎれもなくあった。

この結託の事態で怒ったのは私だけではなかった。フィリピンのミンドロ島の戦闘で辛うじて生きのびたあと捕虜になってレイテ島の捕虜収容所にいた大岡昇平も怒っていた。彼は八月十一目に日本のポツダム宣言受諾を知ったのだが、そのあとの日本政府の正式受諾までの数日間のことを『俘虜記』のなかで次のように書いていた。

まず「私は『星条旗』により日本の条件が国体護持であることを知って失笑を禁じ得なかった。名目をどう整えようと、結局何等かの形で敗者が勝者の意のままにならねばならぬのは同じことである。彼は収容所で親しくなった米兵ウェンディに言った。

「私はこの条件が日本軍部の最後の愚劣であることを認めるが、幸いに貴国の寛大がそれを容れられんことを望む。」そうウェンディに言ったと書いたあと、大岡はつづける。「十二目、天皇の権限が聯合国最高司令官の制限の下におかれるという条件付きで、国体が護持されたことが伝えられた。今度は日本政府の寛大を待つ番になったが、私は結局軍人共がこれを容れることを信じていた。」

しかし、大岡のこの期待は裏切られた。日本政府はなおも正式受諾をしぶった。ウェンディが「我々は日本政府が一目も早く回答することを望むね」と彼に言った。「十三日の『星条旗』は日本の回答の未着を同じ焦燥をもって報じていた。ウェンディの質問に対し、私は日本の戦争犯罪人が自己の生命と面子のためにで天皇を口実に抵抗しているのだろうと答えておいた。」「十四目の報道はさらに悪かった。『星条旗』の調子には威嚇が籠もって来た。満洲で依然ソヴィエット軍が日本車を砲撃していること、ニミッツの艦載機が「日本の決意を促がす」ために、各都市の爆撃を続けていることを報じていた。」そう書いた上で、さらに彼は書き記していた。「私は憤慨してしまった。名目上の国体のために、満洲で無意味に死なねばならぬ兵士と、本国で無意味に家を焼かれる同胞のために焦立ったのは、再び私の生物学的感情であった。」「天皇制の経済的基礎とか、人天皇の笑顔とかいう高遠な問題は私にはわからないが、俘虜の生物学的感情から推せば、八月十一目から十四目まで四日間に、無意味に死んだ人達の霊にかけても、天皇の存在は有害である。」

私も大岡同様に、八月十四目午後の大阪空襲で「無意味に死んだ人達の霊にかけても、天皇の存在は有害である」と、彼同様私も「天皇制の経済的基礎とか、人天皇の笑顔とかいう」、あるいは、これは大岡でなく私小田が言うことだが、日本文化の伝承者として天皇や天皇制という存在がいかに垂要なものであったかというような高遠な問題は私にはわからないが」、八月十四目の大阪空襲のなかで「無意味に死んだ人達」のひとりになり得た人の「生物学的感情から推」して考える。

実際、もし八月五日までにポツダム宣言を受諾していれば、ソ連の参戦も、広島、長崎の原爆もなかった。負け戦と決まれば一刻も早く白旗をあげるのが、民の苦しみを少しでも減らす上での基本である。天皇とその取り巻きは、それよりも皇統の護持を優先した。

昭和二十一年八月十四日、昭和天皇は敗戦時の首相鈴木貫太郎やその時の吉田茂首相、石橋湛山蔵相らを招いた。『昭和天皇実録』の同日の項に次の記述がある。

午後七時十五分より、花蔭亭にお召しになり、終戦一周年を迎えての座談会を催される。最初に天皇より日本の敗戦に関し、かつて白村江の戦いでの敗戦を機に改革が行われ、日本文化発展の転機となった例を挙げ、今後の日本の進むべき道について述べられる。

これはなんという無責任であろうか。あれだけ「鬼畜米英を撃て」と国民を動員しておきながらその責任についてふれることはない。そしてその「今後の日本の進むべき道」とは、対米従属そのものであった。そして、アメリカの核戦略の一環として地震列島に原発をいくつも作り、ついに福島の核惨事に到ったのである。

もう一冊、『魂鎮への道−BC級戦犯が問い続ける戦争』[69]がある。最初は一九九七年に発刊され、今回文庫に収録されたのである。これは歴史を主体的に記述したという意味で本当の歴史書である。

彼は日本の戦後に違和感をもって生きてきた。今年も八月十五日の追悼集会では「兵士たちの尊い犠牲の上に今日の経済的繁栄がある」といわれた。私の故郷の地方新聞『洛南タイムス』でも「平和の礎を築いてきた英霊」といわれている。飯田さんは言う。「飢えと病気の苦しみの中で死んでいった兵士を悼む気持ちはわかる。私だって特攻隊員の手紙を読めば号泣する。しかし、理性的に考えれば戦後の繁栄と兵士の死はまったく関係ない。」彼らの死によって戦後の「平和」があるというのは、事実ではない。現代日本のありようからいえば、その死がまったく教訓化されていないという意味で、日本軍の戦死者はまったく無駄死にだった。

本当に死者を追悼しその死を無駄にしない道はただ一つ。あの戦争に向きあい、あの戦争を遂行したものの責任を暴き、責任をとらせ、人としての道理をうち立てることでしかない。これが飯田さんの経験に裏づけられた主張である。飯田さんは、無謀な作戦計画を作った大本営参謀の責任だけではなく、昭和天皇の責任も問う。昭和天皇が終生その責任を明らかにしなかった結果、「戦争を指導した連中は、昭和天皇が責任を追及されないなら、おれたちだって免責だと考えてしまった。日本の倫理的な腐敗がそこから始まったと思う」という。

責任を問う

このような敗戦処理の過程を在野の歴史家である鬼塚英昭が『日本のいちばん醜い日』[63]としてまとめている。すべてに裏付けがなされているわけではないが、天皇とそれを取りまく日本の支配体制の現実を確かに切りとってる。

なぜ昭和天皇の戦争責任、そして敗戦処理過程での責任は追及されなかったのか。『魂鎮への道−BC級戦犯が問い続ける戦争』も言うように、戦後の社会主義との対立を見越したアメリカは、天皇を免罪して日本統治に活用する方を選んだ。ポツダム宣言から八月十五日の受諾までの間、天皇はいくつかの道を通して皇統の存続の保障を求めた。その保障が得られたので、ポツダム宣言を受諾したのである。

敗戦直後にも天皇が責任をとって退位すべきであるという意見が出されていた。一九四八年六月頃、東大総長南原繁の「天皇は退位すべきであると思う」との談話が朝日新聞に載っている。熱心な天皇制支持者だった南原は、天皇制を「祖国再建の精神的な礎」とするため、天皇は道義的責任をとって退位すべきだと考えていた(奥平康弘『「万世一系」の研究』)。天皇制を支持するがゆえに退位すべきと考える。これは筋の通った考え方であった。

南原は天皇が責任をとることなく居座ることが、結局天皇制を衰退させると考えていたし、これは正しかった。同じ年の八月二十六日付読売新聞は東大教授(のちに最高裁長官)横田喜三郎の「天皇退位論」を掲載した。「過去の最高の責任者がその責任をとろうとせず、国民もまた責任をとらせようとせず、たがいにあいまいのうちに葬り去るならば、どうして真の民主国家が建設されようか」。まことに正論である。

三島由紀夫の絶望

昭和天皇の生き様はまことに無責任かつ無様なものであった。もっと凛とした筋を通した生き方があったはずである。三島由紀夫はこのような昭和天皇に、まことに情けないと絶望し、そして自死した。

小説『英霊の聲』では、二・二六事件で処刑された青年将校たちや、神風特攻隊で戦死した兵士たちの霊に、「などてすめろぎは人(ひと)となりたまひし」、「もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか」、「あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人であらせられた。清らかに、小さく光る人であらせられた。それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた」と語らせている。

これは昭和天皇への絶望である。三島由紀夫は文学者としてのすべてをかけて諫言した。が、しかし天皇には届かなかった。そのうえの絶望であり、憤死であった。

三島由紀夫は、虚構のうえに自らの天皇観を築いていた。この虚構を現実にしようという三島由紀夫の立場は、それが虚構であるがゆえに、ついには不可能であった。三島由紀夫の生涯は、逆に、上に述べた天皇にまつわる虚構が、事実として虚構であることを傍証している。

虚構を根拠とする象徴

天皇は近世徳川時代、禁中並公家諸法度で徳川の法のもとにおかれていた。江戸時代の法はあくまで徳川の法であり、したがってまた幕末それは無視され、天皇は反徳川の旗印となった。

今日の法は国家法である。天皇は戦後憲法によって「象徴」とされている。しかし、「象徴」であることの根拠は、人民の生活の形や習俗は天皇家に由来し、それが広がったという虚構そのものである。

かの十五年戦争は日本歴史上空前のことであった。古代以来の事々を総動員して闘った。そして敗れた。戦争の遂行を支えた官僚制度は、結局は無責任の体制であり、そのもとでまことに多くの命が空しく失われた。天皇は責任をとらねばならなかった。

しかしそれはなされなかった。天皇は退位できなかった。なぜか。官僚と昭和天皇、つまりは原子力村に繋がる体制が、戦後革命を恐れたからである。その恐れのゆえに、天皇が責任をとることによって権威を保つという選択は、不可能であった。

戦後体制とは、この昭和天皇が「象徴」であることによって生まれた体制である。この体制が原子力村そのものであった。それは二重三重の虚構の上に立つ体制であり、それがついに東電福島発電所の核惨事に到るのである。

原子力村

原子力村とは何か

すでに述べたように、敗戦処理の過程で、天皇とそれを担ぐ官僚は自ら責任を負うのではなく、臣下の軍人を戦犯として差し出し、沖縄を差し出し、国民の犠牲のうえに、自らはアメリカに命を乞うて皇統とそして官僚支配を守った。アメリカに隷属することを基本政策とする支配集団である。これがアメリカの核戦略に従属し、核兵器と一体のものとして核力による発電所を作っていった。

アメリカとそして国際的な金融資本に隷属しつつ原子力政策を軸に繋がる支配体制、その組織を原子力村という。それは安保村というべき日米安保条約を軸に繋がる支配体制と重なり、日本の支配機構そのものである。原子力村については東電核惨事のはじまった直後に書かれた『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』[64]にも詳しい。

それはいわば、x軸に日米安保体制があり、y軸に近代日本官僚制があって、z軸に天皇制がある立体的な支配機構である。近代日本官僚制は、科挙のような普遍性をもたず、血縁と個別の人関係をもとに形成され、それはまさに村なのである。この支配機構を旧体制と総称する。

二〇一五年二月十日に発行された『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』[69]において著者の雁屋哲は次のようにいう。 zw「鼻血問題」を通して見えたことは、電力会社、大企業、学者、マスコミ、政治家という、原子力産業の利権に群がる人の、本性でした。

世間ではこの人たちを「原子力村」と呼んでいます。「村」という、日本人にとっては懐かしい言葉を、自分たちに属さない人は排除し、そうではない人を攻撃する集団を表すものとして使うことは「村」を汚す行為です。

「村」という良い言葉を彼らのために使うのはいやなので、仕方がないから私は彼らを「ゲ集団」と呼ぶことにしました。「ゲ集団」の「ゲ」は「原子力産業利権集団」の「ゲ」です。

今回鼻血問題で思い知らされたのは、「ゲ集団」の網は日本の社会全体を覆っているということです。恐ろしいのは、日本の知を支えるべき学者たちが、すでに「ゲ集団」の一員になっているのか、「ゲ集団」の圧力に怯えているのか、放射線の人体に対する被害をきちんと研究しないことです。

「村」という大切な言葉を彼らに使うな。これはまことにもっともなことである。そこで以下においてはゲ集団を用いる。

ゲ集団の言葉

それがいわゆる「東大話法(とうだいわほう)」である。東大教授の安冨歩が著書『原発危機と「東大話法」』[69]で提唱した。東大の学生・教員そして東大を卒業した官僚らが使う「欺瞞的で傍観者的」な話法のことである。

では東大話法の起源はどこにあるのか。それは明治初期に造られた、日本語の構造に根をもたない漢字熟語にある。これが官僚言葉として公の言葉となり、近代日本語を支配してきた。

明治期につくられた漢字熟語は、長く日本語そのものであったいわゆる「やまと言葉」を、そのうえから塗り隠すように作られた。例えば、「思う」と「考える」に意味の重なりはない。「思う」と「考える」の二つがそろってはじめて「真(ま)」となる。この二つの間には「間」がなければならない。

ところが近代日本語では、これをそのまま繋いだ「思考する」という言葉を作った。西洋では真は「一」であり、これに関する英語「think」一つである。この翻訳語として「思考する」を作った。しかしこれは、日本語の構造に根ざした言葉ではない。「思考する」では、「思」と「考」に間がなく、その結果ここには真がない。

思うと考えるは別個な言葉であり、その不即不離の関係の中にこそ、日本語で考えることの奥行きがある。ところが近代日本語は「思考する」という詞を作った。

かつてドイツに留学した日本の哲学徒の思い出である。部屋の掃除に来たメードが、窓をあけるときに「aufheben」と言った。「aufheben」はヘーゲル哲学の基礎概念で「止揚する」と訳している。それで「ドイツではメードまでこんな哲学語を使うのか」と感心したという話がある。しかしこれは逆で「aufheben」は誰もが使う日常語なのだ。それを抽象して基幹の言葉に育てたのがヘーゲルなのだ。

ドイツに学ぶのなら、何よりこのような日常語と哲学語の関係をこそ学ぶべきであった。だが、近代日本は、西洋の知の肝心なところは学ばず、結果のみを漢字語に翻訳して移入した。ここに近代日本語の基本問題がある。「思考する」もまた「denken」等の翻訳語として作られた。ここには近代日本の根本問題があり、それはまた、非西洋世界の近代化という普遍的な問題でもある。

日本語は長い歴史のなかで育まれた豊かな言葉である。「思考」に関して述べたように、日本語の基礎には対になる二つがそろってはじめて真(まこと)となるという構造がある。それはまた、ユーラシア大陸の東に広がる海の民の言葉を基礎としていた。

ところが、明治の近代化において、「思考」のような漢字造語をつくり出すことで、対の構造を塗りつぶし一つにしてしまうことが行われた。それは基本的に大陸北方の黄河文明の造語法であった。だからこそこの時期に作られた造語は近代中国語や朝鮮語にそのまま取り入れられてきた。上海外国語大学教授の陳生保(Chen Sheng Bao)氏の論文「中国語の中の日本語」などに詳しい。

このような明治初頭の近代漢字造語は、海の民の言葉を北方の黄河文明の造語法で覆うものであった。日本製の近代造語がそのまま中国近代に取り入れられたのは、黄河文明としての共通の土台があったからである。そして、この漢字語が近代天皇制と官僚制、そして戦後の原子力村の言葉となり、東大話法を生みだした。

原発立地

日本の原発立地は、調べられたかぎり、次のようにかつての天皇家にまつろわなかった人々や、また滅ばされた人々の故地である。

川内原発は薩摩隼人の故地にあり、玄海原発は倭の国にある。島根原発は出雲である。スサノオによる八岐大蛇の退治として今に伝わる故事は、蛇をトーテムとする鉄器を使う海の民のクニを、スサノオが殲滅したということである。草薙剣を奪ったこともそれを象徴している。その出雲の民の故地に島根原発はある。

そして、若狭の原発、志賀原発、柏崎原発は、越前、越中、越後にある。そこは揚子江にあった越が滅んだ後、日本列島に流れ着いた人々の末が住むところであり、この地もまた二世紀にやってきた天皇家の祖先に滅ばされた人々の故地である。そして、青森県の東通原発や大間原発、そして六カ所村、ここはすべて縄文の文明がかつて栄えた一帯にある。

原発立地の現実は、意図的になされたのかどうかはわからないが、支配するものたちの遠い記憶が働いたことはまちがいない。これはたいへんに恐ろしいことであり、このようにみるならば、原発問題というのは、日本列島弧の五〇〇〇年にわたる歴史の基本構造に関わる問題であるのだ。

ゲ集団の存在は人と地球に対する冒涜

東電核惨事は、その日本列島弧の歴史の結末なのである。ゲ集団とその政府は、まつろわなかったものたちの故地に原発を作り、事故後も情報を操作して真実を隠し、核汚染を世界にまき散らしながら誰一人責任を取らず、その地を見捨てる。

このゲ集団を存続させることは、人と地球に対する冒涜である。日本列島弧に住むのものの責任においてこれを解体し、人類の叡智を集め、核惨事の事実を隠さず明らかにし、これに対する体制をつくることが、歴史の課題である。


next up previous 次: 根のある言葉 上: 固有の問題 前: 固有の問題
Aozora
2017-09-24