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転換の時代

近代の始原と終焉

宗教のもとの収奪

この八百年は経済を第一とする西洋文明の時代であった。その始まりは、一一八一年、一二〇九年、一二二六年に行われたアルビジョワ十字軍にある。これは西洋内部において、北方のフランク王国が、南フランスのラングドックやプロバンス地方に栄えていたグノーシス、そしてカタリ派を柱とする地中海文明を滅ぼした西洋内部の大きな転換点であった。

北方フランスの領土拡大欲をもつ封建領主と、カタリ派の拡大に危機感を抱いたカトリックは利害が一致し、「アルビジョワ十字軍」を派兵する。トゥールーズ伯、カルカッソンヌ伯など南フランス・ラングドック地方の領主たちは、自身はカタリ派ではなかったが、北方領主の領土拡大に抵抗、領民と力をあわせて徹底的に抗戦した。結果はラングドック側の惨敗に終わった。百万人が殺され、カタリ派を擁護する領主は領土を没収、追放された。

アルビジョワ十字軍は、強固な城壁を持つカルカッソンヌにおいて大きな抵抗にあう。カルカッソンヌ城はベジエ・カルカッソンヌ伯、トランカヴェル家の居城で、同家が君臨していた一〇八四年から一二〇九年までがカルカッソンヌ地方の全盛期であった。アルビジョワ十字軍側は「和平交渉をしたい」と称して、ときのカルカッソンヌ伯レイモン・ロジェを城外に呼び出し、そして捕らえた。指導者を失ったカルカッソンヌは、以後十五日で陥落する。レイモン・ロジェは自分の城の石牢に幽閉され、三ヶ月後に二十四歳で死んだ。

ローマ法王の指示でドミニコ会による宗教裁判が行われ、異端とされものは容赦なく火刑にされた。その後カタリ派の勢力は衰え、一三二一年に最後の信者が火刑となりカタリ派は絶滅した。異端審問、政治・経済・教会が一体となって領土と経済圏を拡大する。この方法がこの後、世界大に拡大されてゆく。それらの方法が、すべてこのアルビジョワ十字軍に現れている。西洋資本主義拡大の方法と形式が基本的にこのアルビジョワ十字軍で見出されたのだ。

『一叙事詩をとおして見たある文明の苦悶』[30]や『オク語文明の霊感はどこにあるか』[31]などの著作で、シモーヌ・ヴェイユは失った文明への愛惜を書く。ナチスによるフランス北方の占領を避けマルセイユに避難していた時期に、地中海のその風土の中で書かれたものである。地中海文明を滅ぼしてはじまった西洋文明が、ヴェイユの時代、ついにファシズムに至ったのだ。

それでもこの地で用いられてきたオック語は滅びなかった。フランス革命が勃発するとラングドックの人たちもこれに参加、オック語を公用語とする自治区の形成が試みられた。しかしジャコバン派の反発で頓挫してしまう。革命が潰えてもオック語復権の機運は消えなかった。高まる運動が分離主義に繋がる事を危惧したフランス政府は、一八八一年にオック語の学校教育を法律で禁止した。

革命を経て成立した近代フランスは、フランス語で国民国家を形成しようとする指向性を強くもつ。だから、オック語はフランス語の方言とされている。しかし事実はフランス語とは異なる系統の言葉であり、近代のフランス語への同化政策に抗して今も六百万人の話者をもつ。

資本主義の起源

一〇九六年から一〇九九年にかけて、セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス一世コムネノスの依頼により、一〇九五年にローマ教皇ウルバヌス二世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけた。虐殺と略奪の時代のはじまりであった。

アルビジョア十字軍は、これが西洋世界内部でおこなわれ、宗教に名を借りた領土拡張であった。そしてこの方法が再びイスラム世界、そして非西洋世界の侵略と収奪に用いられる。奴隷貿易と植民地支配である。当時、ペルシアやイスラム帝国・アッバース朝は繁栄を極めていた。十字軍はその地に侵略し、さまざまの文物を略奪して持ち帰る。それが水揚げされたのがヴェネチアなどの都市であった。その典型が一二〇二年にはじまった第四回の十字軍であった。

その収奪を基盤に商業が拡大する。その経済の力とさらなる拡大を求めて、一四九二年頃のコロンブスらの航海とスペイン・ポルトガルによる「世界分割」が始まる。一四五三年に東ローマ帝国がオスマントルコに滅ぼされ、東方の知識人がイタリアに移動、これがその経済と結びついてルネサンスがはじまる。

つまり、略奪文物と地中海交易の基盤のうえに東方からの知的刺激、これらを基礎にルネサンスがはじまった。それと併行して、東方への侵略が世界大に広がっていった。奴隷貿易もまたこうしてはじまり、長い植民地支配による収奪とあわせて、アフリカの社会基盤は徹底して破壊され、現在においても大きく損なわれている。

この非西洋世界の収奪のうえに、資本主義経済を土台とする欧米中心の世界が成立した。これが近代である。

技術の爆発としての産業革命

人にとって火は根元的なエネルギーであり、言葉は本質的な方法である。人は、火を使い、協同して働き自然からめぐみを受け、言葉を獲得し、人となった。言葉を使い経験をまとめ、掘り下げ、伝え、智慧を磨いてきた。言葉を持つことによってはじめて人は考える生命となった。言葉によって協同して働き、道具を育てていった。道具を媒介にした協働の方法が技術である。

人は、自然界にあるものを受けとるという段階から、大地を耕し植物を育てまた動物を飼う段階へ転化した。それが新石器革命であった。その転化の一つの到達点が産業革命であった。産業革命を考え方として準備したものは何か。それが、ニュートン力学とデカルトの近代的世界観であった。つまり、自然を変革するために、自然の法則を対象化して認識し、具体的現実に適用する、これを最後まで進めたのが産業革命なのである。

十八世紀の自然科学の成立は、デカルトの二元論をその根拠とした。ヨーロッパ近代は世界を物質世界と精神世界に分離したうえで、その物質面の探究に専念した。十八世紀に成立した自然科学は、時間と空間を、物質が存在し運動する枠組みとして、あらかじめ前提した。これは、言葉によって人が自然を対象化して認識した時以来育ててきた世界認識のひとつの型であり、ニュートン力学はこの人の世界を認識する仕方の集大成であり、その極限であった。西洋近代資本主義文明はここに根拠をもっている。

しかし同時にそれは生命を物質に還元し、人を個別の人に切り離した。人をばらばらにすることは、近代資本主義が人の働くということそのものを冨の源泉として搾取するうえで、必要でありまた十分なものの見方であった。

近代の対立物としての原子力と情報の技術

だが、産業革命を土台とする自然認識技術の発展によって、ニュートン力学では説明できない現象がつぎつぎと発見された。産業革命がやがて製鉄などの重工業に広がりをみせるとキルヒホッフは溶鉱炉の研究から一八五九年に黒体放射を発見した。黒体放射のスペクトルの理論的研究は、統計力学と結びつくことによって量子力学の基礎となる理論を与え、最終的にプランクによってプランク分布が発見された(エネルギー量子仮説、一九〇〇年発表)。また一八八七年前後のいわゆるマイケルソン・モーリーの実験は産業革命以降の技術なくして不可能だった。その結果、光速度一定やローレンツ収束が発見された。

その思想的掘り下げのなかから相対性理論と量子力学が生まれた。それは、現象の時間・空間的かつ因果的記述に対する制約を暴露し、時空概念の絶対性を奪い取った。ニュートン力学が生みだした近代の生産技術は、逆にニュートン力学を乘りこえる事実の存在を人に示した。

それまでの「問いの枠組み(problématique)」が事実によって転換を求められたのだ。ニュートンの時間と空間を前提にする世界観の超越的枠組みは、相対性理論と量子力学においてとりはらわれ、その世界観は「発展する物質」としてのこの世界自体の認識を一歩一歩深めることを可能にした。相対性理論と量子力学は、時間・空間が物質存在と運動の前提ではなく、逆に物質が「運動しつつ=存在する」ことが、そこに時間・空間の「ある」ことである。このことを明らかにした。

核炉は、重い物質の核分裂によって質量欠損が起こり、その欠損した質量に対し、光速を$C$とすると、エネルギーと質量の等価性($E=mC^2$)にもとずくエネルギーが放出されることを根拠としている。ここに光速$C$が定数として入ることは、そのエネルギーが膨大であることを意味している。これが原子力である。また今日のいわゆる情報技術、その土台としての半導体技術や超伝導技術の前進、コピューターと通信の劇的な普遍化の土台には、量子力学が基本思想と理論として存在している。これぬきにいかなる先端技術も不可能であった。いわゆる「ナノ技術」も含め、情報技術の土台もまたすべて量子力学が基礎理論となっている。

相対性理論と量子力学によって人は原子核から力を取り出す現代の火を手にし、情報技術を獲得した。これは本質的には、かつて人をして人とした、火の使用と言葉を生みだした有節音の獲得に匹敵する、根本的意義を有している。

大切なことは、それは近代の合理主義が生みだしたそれ自身の対立物だということである。西洋近代合理主義は科学を生みだした技術を発展させたが、その結果、近代思想の枠を超える事実とその理論が発見された。相対性理論と量子力学である。

近代思想にもとずく諸体制では、それを越える理論によって得られた力を制御することが本質的にできない。質量欠損そのものは人の制御の下にはないにもかかわらず、放出されるエネルギーは膨大であり、また核分裂の放射性生成物の処理も出来ない。地中奥深く埋めようとしているのが関の山なのである。近代思想の枠のなかでこれを御することはできない。ここに、現代社会は核力という「火」と情報技術という「言葉」をまだ使いこなせる段階になっていないと断定する根拠がある。

資本主義の最終段階

社会主義陣営が崩壊することによって、資本主義は自己規制から解放され、資本の論理にのみしたがって動く。それが、サッチャーやレーガンの時代に顕在化した新自由主義である。

『資本主義の終焉と歴史の危機』[69]にあるように、資本主義とは中心部が周辺部を収奪しながら拡大するシステムそのものであり、拡大・成長は資本主義の存在条件である。ところが地球は有限である。もはや現実に拡大する余地はない。したがって、拡大のシステムとしての資本主義は終焉する。日本はその先端を行っている。ゼロ金利になって二十年。ゼロ金利とは投資に対して利益を付加することができないということであり、最初に日本がその段階に達した。

実体経済活動への投資では利益が出ないので、資本主義延命策として周辺部を国内に作り、そこから収奪するしかなくなっている。しかし、この方法は、結局国内の購買力を衰退させ、行きづまる。あるいは、アメリカのように金融空間を作り出し、金融空間で周辺部から金を集める。しかしこれは必ずバブルの崩壊を招く。さらにまた、EUのように欧州帝国を作り出すことで生き延びようとするところもあるが、帝国の中の周辺部からの収奪を強めれば結局は収奪されたところにおいて危機が起こる。いずれも擬似的に拡大する場を作ろうとしてきたが、それらの方法はもはや限界に近づいている。

アメリカ、日本、EU、中国の現政府がやっているような延命策は、早晩、大きなバブルの崩壊を招く。そのとき多くの人がその犠牲になる。何とか、いわゆるソフトランディングはないのか。その道筋はないのか。それが『資本主義の終焉と歴史の危機』の問いかけである。

世界は多極化するといわれる。これ自体は不可避である。だが多極化すれば問題が解決するのではない。多極化とは、政治的には中国やインドや南アメリカ、アフリカ諸国の経済成長と政治的な力の増大であるが、それはやはり近代の範疇に属すること、資本主義の枠の内のことであり、経済の拡大を旨とする方法はそのままである。

結論ははっきりしている。地球という有限の場で永遠に経済拡大を続けることなどできない。それを無理して国家が介入して拡大を維持しようとすれば、今度は国家財政が破綻する。日本もまた稼ぐよりも多い借金をくりかえしている。このままでは総破産である。

人類の課題としてのアメリカ問題

客観的な事実として、またどれだけの時間がかかるかは別にして、帝国アメリカは終焉に近づきつつある。帝国は戦争によって解体する。ベトナム戦争、イラク戦争、アフガン戦争、この戦争が帝国アメリカの崩壊のはじまりであった。さらに経済戦争である。経済は不均等に展開する。政治力、軍事力を背景に基軸通貨としての優位性を最大限に用いて、新自由主義の弱肉強食・拝金主義経済を進めてきたアメリカの方法は、実はそれしかなかったのである。

しかし土台において国内産業は衰退の一途をたどり、大きな矛盾が蓄積されてきた。二〇〇八年の経済危機は矛盾の爆発の序章に過ぎない。二〇〇八年危機以降の経済危機を取り繕うため、今日までドルは無制限に刷られ続けている。これは資本の暴走である。暴走するアメリカ資本主義は再び経済破綻に陥る。遠からずドルは暴落する。

帝国アメリカは現代のローマ帝国、崩壊過程に入ったローマ帝国である。アメリカとの関係は、崩壊しつつある帝国との関係をどのようにするのかという問題である。帝国アメリカを率いてきた産軍複合体の力は今しばらく強大である。東アジアにも緊張を生みだし、日本の防衛大綱も改定させた。尖閣問題もこの産軍複合体の手の上でのことである。すべてはアメリカ産軍複合体の政治工作である。日本の政権は、民主党であれ自民党であれ米国産軍複合体の東洋における先兵となっている。思いやり予算を五年間保証し、米軍存在の矛盾を沖縄に押しつけてきた。そしてオスプレイである。

三年間の野党時代を経て再度政権を取った自民党は、かつての自民党ではない。アメリカのもとで軍を世界に展開しようとするファシズムの党である。もとよりマスコミもこの本質を伝えない。かつて自民党に投票してきた層が同じ考えのまま変質した自民党に投票する。金融資本と帝国はその本質として、常に最大の利益、収益、拝金主義的活動を展開してきた。搾取・収奪のためのあらゆる合法的方法がなくなったとき、資本主義はその維持のためファシズムを登場させる。

それは中国や朝鮮半島での戦争、それによる国家の再統合をめざしている。しかしこれはすでにかつてやりそして大敗北した日本軍国主義の幻影でしかない。ファシズムでは活路はない。日本においては「アメリカ産軍複合体−政・官・財癒着」の構造とその支配を打ち破り、アメリカに対して自立する、ここにしか日本列島に生きるものの活路はない。

そのうえで、広島・長崎・福島を経た我々にとっては、アメリカから独立するかどうかの問題に終わってはならない。アメリカ問題は人類全体の問題である。原発の問題もまた、原発に依存しないエネルギーを開発して原発を止めると言うだけの問題はない。アメリカの核戦略に対して核兵器の本当の廃絶という問題である。つまり、日本において顕在化した諸問題の根拠を遡ると、アメリカの存在や核兵器の存在をそのままにして、日本だけが脱原発しアメリカから独立するという問題ではないことがわかる。

西洋近代、とりわけその土台である産業革命は、根本的にギリシア後期のプラトン以来の考え方を最後まで進めることで達成され、その世界への拡大が近代であった。しかし今やそれは地球という有限な世界のなかで限界に至っている。資本の増大を第一にする拡大の運動は、地球の破滅要因となり、これを制御するとことはできていない。

八〇〇年の経済を第一とする西洋の時代のその行きついた果てが、帝国アメリカである。これにかわる、人原理にもとづく新しい世が、崩壊する帝国のもたらす混乱と混迷からの活路である。これ以外にない。新しい世をどのように生みだすのか.ここに人類がかかえる最大の問題としてのアメリカ問題がある。ここにまたアメリカからの独立という問題の真の意味がある。原爆と核惨事を経験したわれわれは、アメリカ問題の当事者である。この立場と観点をしっかりもって、深く掘り下げることが必要だ。それなくして対米自立もまたありえない。

経済は手段である

ともに問う普遍の場

人と世界が存在する意味は何か。この問いは大きい。しかし少なくとも、その意味が資本に根拠をもつことはあり得ない。その根拠は,さちを受けとる喜びこそが、意味の有無を超えた輝きであるというところにある。西洋の「学」はギリシア時代に労働を奴隷に任せた貴族の「知」として成立した。生きる現実からのからの遊離は、キリストの神の前の真理として「真理」それ自身を自己目的化することによって正当化された。この「労働」と「知」の分裂は形を変えて生き続けている。

資本主義は偽りの普遍性をおしつけ、そのもとに市場を拡大してきた。しかし今日、資本主義はもはや拡大する余地がなく、拡大を旨とする資本主義は、終焉する段階に至っている。拡大そのものがもはや不可能になっている。

であるから、今日の根本問題は資本主義にかわる別の生産関係を生みだすということ自体ではない。生産関係はそのままにしても、経済は手段であり方法であるという立場から、これをのり越えるのである。言いかえれば、資本主義的生産関係を使いこなす人とその組織、そのもとの世を生み出すこと、これが問題である。

そして、これを創造してゆくこと自体が、資本主語の終焉である。経済は目的ではない。大切なことは、これを使いこなしうる、人を第一とする政治を生みだすことである。人としての尊厳ある生活、これこそ共通の目的である。

そのとき、資本主義が押し付ける偽りの普遍性に対抗して、固有性を保守しようとすることが前提である。固有性を掘り下げ、自覚してつかむ。これなしに、固有性の保守はありえない。

その固有性を言葉においてつかむこと、これ側が基本の立場である。人とは、言葉をもって力をあわせて働き、さちを受け取るいのちである。このゆえに、固有性は何より言葉の段階で自覚して取り出さねばならない。

その上で、固有性が共生するところとしての普遍の場を生み出す。この営みへの目的意識性が必要である。

働きの場でさちを受けとる喜びにその分裂はない.その場こそが,固有の言葉の生まれるところであり、ことわりの世界そのものであり、働くものが固有性に立脚して、たがいに分かりあえる土台であると考える。非西洋の固有性を深く耕して徹底し、固有性を突き抜けた生きた新しい段階の普遍性をめざす。言葉のなかに蓄えられてきた智慧は、それが直接の生産を土台にする生きた人の智慧であるかぎり、十分に掘り起こされたならば必ず通じあえる。人はわかりあえる。

マルクスによって獲得された、世界に対する目的意識性と能動性を、西洋自体にも向ける。西欧文明が押しつけた疑似の普遍性ではなく、固有性が解放された人の生き生きとした普遍性は可能である。固有性が互いを認めあって共存し、ともに問いかける普遍の場は可能である。

歴史が求める可能性は必ず現実に転化することができる。しかし、その途はまだ明かでない。可能性を現実性に転化するための実践的方途は、開かれた問題のままである。現在を転換するこの途を見いだしていくには、膨大な努力の蓄積と、現実のちからが不可欠である。

ロシア革命の教訓

はじめて人が資本主義を越えようとして、「真に平等で万人が人としての本質を実現していくことのできる新しい社会」に向かって一歩前へ進んだのが、一九一七年のロシア十月社会主義革命であった。全世界の搾取され貧困にあえぐ人びと、抑圧されている民族の未来を確実にきりひらいた。

マルクスとエンゲルスは、資本主義生産関係が内包する基本的な矛盾を立証した。しかし彼らの時代、資本主義はまだ拡大の余地をもっていた。そのゆえに、これを倒しそれに代わる搾取なき世を生みだそうとするとき、その基礎となるのは計画経済であった。

しかし、計画経済が経済の拡大を基軸としていたことは、資本主義と同じであった。労働者への搾取をなくし資本主義の基本矛盾から解放されて、それをなそうとするもであった。

だが二十世紀後半に至り、ロシア革命や中国革命によって生みだされた社会主義陣営は崩壊した。これは大きな教訓、まさに血の教訓を残した。なぜロシア十月社会主義革命がかけた新しい段階への橋は崩壊したのか。資本主義はしぶとかった。資本主義の思想と闘うのに、レーニンの残した資産だけでは、不十分であった。

それは当然である。レーニンの時代にすべてを準備することなどできない。社会主義の内部から解体と闘うことは、レーニンの時代の課題ではなかった。歴史の課題という観点からみれば、たとえレーニンの方法が、社会主義の修正主義と闘うに不十分であったとしても、原則を失わずにレーニンを継承し、新たな課題を受けとめ歩を進めることは可能であったし、またなさねばならぬことであった。だがそれはなされず、結果として、いわゆる社会主義陣営は崩壊した。

資本主義は終焉する。しかしそれが、ロシア革命がめざしたような別の経済関係を創り出すことなのか。あるいは他の形式なのか.それは開かれたままの問題である。

経済拡大をのりこえて

経済拡大によらない地球生活の維持と再生産の仕組みは可能なのか。核惨事の起こる前年に浜矩子は『死に至る地球経済』[65]において「悲惨な結末を回避したければ、思い切って耐え難きを耐え、不可能を可能にする」と述べた。これはそのまま原発を維持するのか、廃棄してゆくのかの問題にあてはまる。産業廃棄物としての使用済み燃料の処理方法さえないのにもかかわらず、歴代自民党政権は50基以上の原発をこの地震列島弧に作ってきた。戦後日本は、後追い資本主義として、資本主義的拡大を短い時間のうちに実現しようとし、同時に核兵器製造力とを保持しながら、無理して無理してやってきた。その果ての「悲惨な結末」、東電核惨事であった。

資本主義とは絶えず拡大しなければ持続し得ないものであるなら、地球という有限の船の上で、それは永遠ではありえない。浜矩子の言うように、リーマン・ショックの本質をこの500年来の近代世界の行き詰まりそのものである。そしてそれをのり越える叡智が求められていることを説く。それは説得力がある。だがしかしいずれも開かれたままの問題であることはかわらない。使用済み燃料の処理方法未解決という問題ひとつとっても、これをおおやけにし、その上でこれをどうするか、智慧を集めて方法を見つけねばならない。しかし未だにここに大きな問題があること自体が隠されている。

近代資本主義をのり越えるという課題。事実として、ここに人類が直面している課題があることが明らかになる。その一方で、アメリカも、日本も、EUも中国も、時の政府や既得権層はこの基本問題を隠そう隠そうとする。問題指摘とその隠蔽のせめぎあい、それが現代である。

手段としての経済

人にとって経済は手段であって目的ではない。この五百年、近代資本主義において経済は目的であった。金儲けは至上の目的であった。しかし、昔からそうであったのではない。人はながく、協働して自然からの恵みを得て、助けあって生きてきた。経済はそのための手段であった。一万年を超える新石器時代以降の人歴史のなかで、経済が目的であったのはこの五百年にすぎない。

もとより奴隷制社会や封建社会が成立すると、実際に働くものは経済以前のところで収奪されてきた。だから、フランス革命や明治維新とそれにつづく近代資本主義そのものは必然であった。しかし今日それはもはやのりこえねばならないところにまできている。経済は手段にすぎないという人の原点に立ちかえることを歴史は求めている。

かつて社会主義は資本主義経済に代わる計画経済をやろうとして失敗した。そこにはやはり経済を第一の目的とする資本主義の思想から抜けだせないという面があった。物の生産を第一とする唯物論、単純唯物論による経済第一の社会主義は失敗した。こうしてまたその時代にはじまる政治組織、いわゆる左派政党も歴史的役割を終えた。情報技術的には輪転機と鉄道時代にはじまる「共産党」や「労働党」などを名のる政党が現代の人々の願いの受け皿となり得ず、党派の利害を優先することで人々に見放されつつあるのも、必然である。

今日の根本問題は、資本主義にかわる別の生産関係を生みだすということ自体ではない。生産関係はそのままにしても、経済は手段であり方法であるという立場から、これをのり越えるのである。言いかえれば、資本主義的生産関係を使いこなす人とその組織、世のあり方、これを創造してゆくこと自体が、資本主語の終焉である。

経済は目的ではない。人としての尊厳ある生活、これこそ共通の目的である。人々がやむにやまれず立ちあがるのは、人としての尊厳が冒されるときであり、日本における原発に反対する金曜行動もまた持続してきた。

資本主義をのりこえる

資本主義がゆきづまるのに応じて、一方で民族主義、排外主義が一定の勢力となる。それはつまるところ、ファシズムに至るのであるが、反ファシズム、反排外主義の運動もまた、世界大に広がっている。このような運動のなかに、資本主義をのりこえる契機が生まれている。

資本主義をのりこえることは、別の生産関係を創り出すことによってはなされない。経済が主で人が従である関係を逆転し、人が生産関係を手段として使いこなす。このことが資本主義をのりこえることであり、こののりこえにこそ、資本主義の終焉がある。

もはや資本主義は、歴史の主導力として存在することはできない。資本主義の時代とは経済が第一の時代であり、それを人が第一の時代に転換すること、それが資本主義の終焉の意味である。その段階において経済は人のための方法であり、手段である。人が経済を使いこなすのである。これをうち立てる。

資本主義そのものは、使いこなす対象としての経済の制度であり、かつての社会主義思想のように資本主義的な生産関係を終わらせること自体を目的にする必要はない。大切なことは、これを使いこなしうる、人を第一とする政治を生みだすことである。

人は資源ではない

力はみなのもの

この一文の著者は一九七三年秋に教員になった.それから十数年間の職場や地域での仕事を通して,次のような教育観をもつことができた.

教育とは人そのものを育てることである。一人一人を人として育てる。一人一人の人を開花させる。そうして現れた人のさまざまな力は、けっして個人の私物ではない。どんな力も多くの人々に囲まれ育まれてはじめて開花する。であるから、育まれた自らの力を、育ててくれたこの世間に返さなければならない。少しでも世に循環させてゆかなければならない。こうして人を育て、人に支えられる世でなければならない。

西洋にはじまる近代文明は、個人の力をその人の私有物と見なす。だが、私の才能は私の私有物か。ちがう。人のいろんな力とは、人と人の関係の中でこそ、生まれ育まれる。そうであるなら、それは決して個人の私物ではない。

人的資源とは何か

しかしその頃、つまり一九七〇年代、日本国家の教育思想は大きく転換した。この頃、中央教育審議会は「人的資源の開発」ということを言いはじめ、それは今日に続いている。「人的資源」とは生産活動に必要な資源ということである。日本の教育が、人を人として育てる教育から、人を資源として使えるようにする教育への転換をはじめていた。人的資源を開発するのが教育だというわけである。教育を生産活動の一部とする考え方が表面化する。

もとより近代の学校制度は、産業技術の習得を教育目的の柱にしている。もとより、その時代の文明とそれを支える技術を習得する場が教育機関であることは必然である。また、人が何らかの生産につながることは、人としての存在条件そのものである。だから仕事を求める人すべてに仕事を保障する。労働権を保障する。それが人の尊厳を重んじるということだ。しかしそのことは、人が生産の資源であるということを意味するのではない。

人的資源という観点が導入されることで、根拠を問い、方法そのものを考えるよりも、定められた方法によって正確に計算できるようにする、という方向に数学教育思想も変わった。根拠を問う批判精神より、感性的理解による現状肯定を重視する教育への転換である。それが一定の時間を経て教育現場に伝わり、そして教科書が変わってきた。この方向性は、脱ゆとりと言われる二〇一二年以降も変わっていない。

大学において、一般教養課程がなくなり、早くから専門課程に入るようになったのも、同じ人的資源という観点が背景にある。そして学生の多くが、自らを資源として高く売ることが就職活動であると考える。まっとうな学生ほど、それを受け入れることができず、取り残されてゆく。

資本主義の自己矛盾

しかしそれでは、本当に何ごとかを深く考え、新たな枠組を生みだすような人は育たない。近年、日本の産業から創造が失われ、いくつかの分野では現実の衰退が起こっている。それは、人を資源とみなす考え方が生みだしたものである。ここに、現代日本の産業が創造性を失った根本原因がある。

人は資源ではない。人そのものとして、まじめに働き、ものを大切にし、隣人同僚、生きとし生けるもの、たがいに助けあって生きてゆく。ひとりひとりの力は個人のものではなく、互いのものである。それが人というものだ。そのとき経済は人にとって目的ではない。あくまで方法であり手段である。そういう人を育てなければならない。

経済から人へ

人が存在する意味をどのように考えるのか。実はそれを考えることそれ自体が一人一人の思いによるのであり、ここでは互いの人格を敬い尊重することこそ、人であるということだけを確認したい。

では人は何において人であるのか。その根拠をどこに求めるのか。言葉による協働労働、これが人の人であるゆえんである。ここに人の根拠をおく。これがわれわれの立場である。そしてそこで生みだされるものこそがさちであった。さちの交換過程が経済である。

資本主義は、人を資源と見なす。そしてその資源からいかにさちを奪い取るのかということをその基本的な動機としてきた。交換過程は複雑化し、そこに貨幣が生まれ、貨幣が自己目的化する。これは結局のところ、さちをいかに効率よく集め奪うのかということである。そのことが経済活動とされた。

この資本主義は、経済活動を通しさちを集めることがあたかも人生の目的のように、主張する。その意味で経済を目的とし、人そのものを手段としてきた。しかし経済はは目的ではない。協働労働を通した人としての尊厳ある生活の実現、これこそがめざさなければならないことである。

この数年来、人々のやむにやまれぬ直接行動がくりかえされてきた。十年前の南米アルゼンチンやブラジルでの、新自由主義と軍事政権が一体となった政治に対する抵抗、これがさきがけであった。パレスチナや沖縄の闘いは一貫している。せざるを得ない。そして、二〇一一年のアラブの春である。それがさらにスペインやギリシアの闘いに拡大し、アメリカ本国でのウオールストリート占拠運動。それぞれが今日まで継続している。

日本においても、厚生省前広場を占拠して始まった反貧困運動=年越し派遣村や、いわゆる小沢氏への政治弾圧に反対する街頭行動がはじまり、それらが、3.11以降の反原発運動と合流。そして安倍政府がファシズムに向かうことをくいとめようとする運動が燎原の火のように広がる。

これまでデモに参加することなど思いもよらなかった人々がそれぞれに継続して抗議行動を展開している。そこにあるのは、人としてこれを認めることは出来ないという人々のやむにやまれぬ思いである。生活に根ざした運動である。核惨事の現実、それを放置する政治への怒り、廃棄物すら処理できない原発を動かし続けようとするものへの怒り、そして衰退するアメリカの肩代わりをして、若者を戦場に送ろうとする安倍売国ファシスト政権への怒りである。

ここには、人の尊厳を奪うことへの激しい怒りがある。人は言葉をなかだちに協同して働くいのちである。働くいのちの輝き、ここに人の意義がある。新しい運動は決していわゆる物質的な豊かさを求めるものではない。このような人の輝きを奪い尊厳を踏みにじる、そのことへの怒り、これが人々を突き動かす。

階級矛盾の新たな形

ここには、奪うものとそれに対して闘うものの矛盾がある。これは階級矛盾の今日における存在形式である。

かつて階級間の矛盾は一つの企業や生産現場での労使の関係としてとらえられていた。しかし、資本主義が帝国主義となり、植民地支配の収奪利益を労働者にも分配することが可能になって以降、大企業での労使関係はもはや階級対立ではない。関電労組を典型に大企業労組はおしなべて労使協調である。利益配分にあずかる組織でしかない。

一方では、一%の富めるものと九九%のもたないものとしてつかまれるように、金融資本の新自由主義経済で富を蓄積する少数のものがいる一方で、直接の労使関係はもとより極端な低賃金と不安定雇用などさまざまの関係の中で、確実に収奪され、生存権さえ脅かされる多数がいる。派遣労働など職場で労使関係さえ結べないままに収奪される雇用形態もまた、新自由主義、日本では中曽根行革と小泉改革以降、一般的になってしまった。今日の日本では生存権、労働権は保証されていない。

これに対する闘いはこの数年新しい段階になった。新自由主義の非人性と闘い、人として当たり前のこと、それが人原理であるが、そこから見て許せないことに対して行動する。これが今世界の各地で行われている行動の基調である。ここには内容として、行きづまる資本主義を越えようとする意志がある。


Aozora
2017-09-24