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現象の分節

北原   数学は客観的に存在するのですか。それとも数学は人間が自由に構成したものなのですか。

南海   人間は、言葉によって世界に働きかけることで世界の量的法則を発見し、それを数学という言葉で表しました。言葉は表現の道具であるとともに、考えることそのものです。これと同様に、数学は世界の量的法則を書きあらわす言葉であると同時に、数学それ自体で存在すると思います。

数学的現象というものは確かにあります。一方、多くに数学者が数学は自由だと主張してきました。数学は自由だということと数学的実在の客観性と、一見異なる見解があります。私はこれに対しては次のように考えています。

数学的現象は実在する。人間がそれをどのように分節してつかむかは、人間の自由である。

北原   19世紀から20世紀の前半、数学の基礎についての論争がなされました。その過程で、直観主義、形式主義、論理主義など数学基礎論のいくつかの立場も現れました。それについてはどうですか。

南海   それもまた数学大系をどのように分節するかの問題であって、数学大系そのものは人間がつかみきれないものとして実在していると考えています。そしてこの分節の方法は段階を追って発展するものであり、固定していません。

北原   集合論もまた、分節の方法なのですね。

私は、「構造日本語」という概念を導入しました。言語を一つの構造としてとらえ、その構造の大枠を作る言葉を「構造日本語」を呼んだのです。構造という把握は、数学の Bourbaki から得ました。構造の前提にあるのは「集合」です。「集合」の本質は述語論理です。「述語に対応してその主格に来ることができるものすべて」、これが集合です。

南海   x は5の倍数である。 x のところに来ることができるもの全体、これが5の倍数を要素とする集合 A です。集合 A の本質は「5の倍数である」という述語です。

集合はそれだけでは構造をもちません。しかし集合を考えることは、直ちにその内部構造を考えることにつながります。 A の要素の和も差も積も、再び A に含まれる、といった構造です。

しかし、数学思想であり方法論でもある「集合論と構造」は19世紀末から20世紀中期にかけて、大きく変わりました。

  1. カントールによる集合論の開始。無限に段階があることの発見。近代数学の基本言語としての集合論の発展。
  2. 集合論の逆理の発見。数学の危機。数学基礎論論争。
  3. ヒルベルトの計画。公理論と有限の立場に基づく形式主義数学。無矛盾と完全性をもつことと数学的存在の同一視。
  4. ゲーデルの不完全性定理の発見。ヒルベルトの計画の挫折。連続体仮説の独立性の証明。
  5. ブルバキの構造主義。集合を準同型の組。公理を満たす集合の圏論。

ヒルベルトの計画は、ルネサンス以来の西洋近代化の流れのなかで、その流れに忠実に提起されたものです。カントールの集合論も、19世紀西洋数学の展開のなかで必然的に出てきたものです。近代化の流れのなかで必然的に発見された逆理を、その流れのなかで解決しようとするのがヒルベルトの計画です。そしてそれらの計画はゲーデルによって、それ自体としては破産したのです。数学における近代化の終焉でした。

「構造」は、ゲーデルの不完全性定理によって「数学基礎論」が終結した後に、数学の思想方法論として定式化されたものです。ゲーデルの定理以降に数学の新たな枠組みを作ったフランスを中心とする数学者集団ブルバキは、このとを端的に次のように述べています。

もし、未来にそれ(現在の数学の枠組みとなっている公理的集合論)が破綻しても数学は必ずや新しい基礎を見つけるだろう。

集合論の背理の発見からヒルベルトの計画、そしてゲーデルの仕事などの一連の歴史の結果、数学は、数学現象そのものとそれを今日の段階の力で記述する方法としての体系の分離と統一を見いだしたのです。体系とは完結したものではなく、それ自体が開かれた発展する方法なのです。

数学の構造主義とは開かれた方法です。北原さんはこの構造という思想方法論を、日本語の探求に用いられました。

北原   私は事実として、数学の「構造」という考え方に依拠して日本語のことを考えたのです。かつては、数学に根があるのかと考えたのです。数学は結局ギリシア精神ではないかと考えたのです。しかし、いざ自分で日本語を考えていこうとしたとき、言葉の構造のなかで主要な役割をしている言葉、構造を決定しているような言葉、その言葉の来歴を調べ、その言葉をその構造のなかで洗いなおし、再定義しなければならないと考えたのです。

南海   「構造」は近代化後の西洋思想が、共通の枠組みをもつために、必然的に生み出した考え方であると思います。それが日本語を考えるときのてことなった。近代化段階の日本語への違和感に端を発する私の探求が、近代化後の西洋思想を方法に用いようとしたというところに、何か、文化の根ということと、それを越えた人間としての、あるいは人類史的な普遍性があるように思われます。

第一、
数学は本当に不思議なものです。頭の中だけにあるという側面があります。代数的整数論などにはとくにそのような感じがします。しかし、一方で、数的現実、数的存在は確かにあります。リーマン幾何と相対性理論、微分幾何、楕円曲線と暗号論、といった大きなことだけではなく、力学計算なしに建築物の強度は計算できないし、あらゆるものの設計に数学は不可欠です。朝家を出てよる帰るまで手に取った生産物で数学ぬきに設計できるものなど何もない。抽象性と具体性のこの両面が一体であることは、本当に不思議です。
第二、
今日の原子力技術と高度情報社会の基盤が数学なしにはあり得なかった。数学が文化の根をもつか否か、といった議論を吹き飛ばす現実です。18世紀から20世紀にかけて、高度な数学文化が西欧に花開きました。それはやはりすばらしいものです。しかし、人間の歴史を見れば、数学はもっと現実生活に密着したものであったし、それが数学だった。もう一度、文明の根幹、土台としての数学を考え直さなければならない。近代文明の意義と構造の解明はとりもなおさず数学の意味の解明でもある。
第三、
一方、体系化された数学は、それ自身の力によって、体系化からはみ出す領域があることを示した。無矛盾な体系は、逆に可算個の論証の列では証明できない命題がその体系内に存在する。この意味を文明論的に解釈することは意味がありませんが、人間が考えるということの本質を識る、という立場からもっと掘りさげて考えなければなりません。

北原   なるほど。数学の普遍性と、現実に数学が存在する文化の固有性との関係は、簡単なことではない、ということですね。

文明は普遍であり、数学そのものはその文明の基本的な方法として普遍的である。しかし人間が文明のうちで生きる型、つまりは文化の型は固有であり、数学が実際に存在するあり方にも固有性がある。現実の数学は、文明に対する文化としての数学には違いない。しかし、文明に向きあう数学としての視点を欠いては意味がない、ということですね。

南海   はい。そういうものとしての数学の教育に携わってきました。数学と教育、近代日本の教育における数学などに関する私の考えは『私の考え、私の願い』に書きました。数学の教育は言葉の教育とともに、教育の根幹です。日本近代の教育はその根幹についての考え方が明確ではありません。ここをあいまいにして、近代の次はあり得ない、これが私の考えです。


AozoraGakuen
2017-02-10