南海 そうです。世界を量的側面からつかむ言葉です。人間が力をあわせて働きはじめたとき、言葉が獲得され、考えることがはじまり、それを土台として労働の度合いに応じる何かとしての量が認識される。この量の構造を記述する言葉が数学です。
人間は成長の過程で一定の数学を身につけます。数をかぞえ、量をはかり、型や形のちがいを知るようになる。数の世界は広がり、関数やグラフを学ぶ。また、厳密に論述する術も学ぶ。結論の根拠を示したり、証明することをとおして、予測し、筋道を立て、論証する力をつける。これらはいずれも現代文明のもとで生きるのに必要な事々です。
人間は一人では生きていくことができません。力をあわせて働かなければこの世界から恵みを受けとることはできないのです。一人の力は皆の力であり、ひとりの命は皆の命です。力をあわせて働くところに言葉が生まれました。最初は力をあわせるためのかけ声だったかも知れません。あるいは危険を知らせる叫びだったかも知れません。長い長い時をかけて音を節に分けて発することができるようになり、言葉を獲得しました。こうして人間は言葉で互いにやりとりする生命体になったのです。言葉は発展し、物事を抽象して「これこれのもの」「これこれのこと」としてつかむ働きも、つかんだ内容を表す記号としての働きももつようになりました。この働きが言葉の分節作用です。こうして、言葉の発展と一体になって、複雑なことを考えられるようになりました。
世界を分節するとき、分節されたものの大きさや個数などの量的な把握がはじまる。「今日は昨日よりたくさん捕れた」のなかにすでに量的把握が現れている。こうしてものを量としての面からつかみ、さらにその変化や量の相互関係の把握へと進む。その内容が世界の構造を量的側面から切りとった法則です。
数学は言葉と同様に、社会生活を送るための道具であるとともに、学び身につけることで人間として考える力が形成されるという意味において、人間の土台でもあります。
つまり私は、言葉が人間形成にとって果たす役割と同等な役割を数学も果たしているのではないか、と考えています。人間が世界を言葉によって分節して把握するとき、つねにそこに把握されたものの量的側面が認識されます。そこで計量と計算が生まれます。数学は人間が世界と関わる上での一つの言葉なのです。いわゆる言葉が人間と人間のあいだのことであるとすれば、数学は人間と世界のあいだのことなのです。いずれも人間が開かれた世界に歩んでいくときに、必須の言葉なのです。
数学はいわゆる言葉と異なる側面をもっています。それをを私なりにまとめると次のようなことではないでしょうか。人間と世界のあいだのことであるがゆえに、個別の固有の言葉を超える普遍性をもつということです。つまり次のことです。
数学は言語協働体の枠を超える。言葉は通じなくても、幾らの稲と幾らの鶏を交換するのかは決まる。幾らという個数は言い方は違っても、同じかどうかは確定し比較できる。対象の普遍性。
数学は個人内部で考えられる。しかしその結果を外に出せば通用するかしないか、正しいか否か判断できる。方法と得られる結果の普遍性は検証される。
このように人間と世界の関係という普遍性を直接経験することができるのが数学です。子供は、はじめは個別の蜜柑が三個と認識していたものが、皿三枚の三と同じであることを知る。数の獲得です。ここからはじまって数学を一段一段普遍化してつかんでいきます。これはおそらく人間が数を獲得してきた過程の固体のなかでの反復であり、この過程を通して人間が形成される。
したがってこのような数学をそれぞれの段階で身につけることは、その人間の成長の段階のために大変重要なことだと考えています。