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非・人間主義

北原   2008年の冬、時間を見て故郷の実家に戻り昔の写真などを集めてきました。戦後日本の典型的な核家族のなかで育ちましたが、そこにもそれなりの歴史があり、それが高度成長期の日本史のなかにまさに収まっていることもよくわかりました。

私がそのなかで、上昇志向の道から外れたのですが、やはりそれは故郷の土のにおいとそこで養われた人間と言葉に関する感性が、近代日本の上昇志向とはどうしても相容れなかったからであることも、今はよく理解できます。

このように歴史のなかで人間としての基本的な感性で現実と対抗して生きていくのが人というものです。基本は生活です。生活のために現実と対抗する。対抗するところに火花もちり思想が生まれるのですが、人間はそこで苦しみもがき、そして対抗する思想を目的意識的に自覚的に追い求める。対抗する人間の動く方向が一つになるとき、世が革まるのです。それには多くの人間のたゆまぬ努力が必要です。

私の仏教への疑問は、結局は、現代における仏教と言葉の問題です。もう少し問題を大きくとれば、二つの宗教の土台にある西洋思想と東洋思想の二つの傾向性の確認と、そののりこえの問題といえるのではないかと思います。

キリスト教は一神教です。イスラムもまた一神教です。今日、それらの世界のなかには神を信じるという人も信じないという人もいます。その違いはあります。しかし、それでもそこには一つの共通な考え方があります。それは「真理は言葉で表される」ということです。聖書のヨハネによる福音書の冒頭に有名は次の表現があります。

 はじめに言葉があった。  言葉は神と共にあった。  言葉は、神であった。

ここでいう言葉とは「ロゴス」であり日本語の「ことわり」がもっとも近い言葉です。言葉を貫くことわりを信頼するということ、ここに西欧の考え方の基本があります。ロゴスへの信頼は「本質」があるという信頼です。

もちろんキリスト教は終末思想であり、人類の進歩を根底では認めない。 一方、西洋近代の啓蒙思想は文明の進歩と人間世界の発展を認めるという違いはあります。しかし、キリスト教には汗を流して働くことの意味を考え、他者への働きかけを重視する思想がありました。カトリックに対するプロテスタントはこれが鮮明で、個々の人間が神のもとで勤勉に働くことを勧めるものでありいわば改良キリスト教なのですが、啓蒙思想からキリスト教まで、これらの思想の根底にはロゴス手の信頼という共通の基盤があります。

ヘラクレイトス以降、ロゴス(言葉、理性、論理)というものは、プラトン、アウグスティヌス、啓蒙主義と西洋の哲学者にとって極めて重要な意義を持つ概念であったのです。

ジャック・デリダのロゴス中心主義批判と脱構築は、西洋の哲学におけるロゴスの絶対性・優位性を問い直すことで、これまでの哲学者たちの論理的な構築というものを崩し、西洋思想の新しい可能性を模索するものです。私は西洋内部から出てきたこのような新しい思想の可能性については今は何ともいえません。ただそれはあくまで西洋内部からの問題であり、われわれの問題とつながるとしても、それは直接的なことではなく、われわれ自身の側の掘りさげなくしてはあり得ないことだと考えています。

それに対して、東洋にある考え方にはどのような共通の基盤があるのか。言葉が示すものの本質は存在しない、神が存在しないというだけではなく世界というこの容れものも存在しない。すべては「空」であるという思想です。人間中心主義でもありません。生きとし生けるものを同じように考える傾向性もまた共通のものです。徹底すれば個人の悟りもまた空であるという思想です。

このような空の思想は仏教だけではなく東洋思想の共通の基盤になっています。しかし、近代に向かう時代からこのような思想は支配的な思想とはなりませんでした。仏教的な自己を含めて現世を否定する考え方は、実際の世の中での政治や経済の指針を生み出すことができなかったのです。中国は儒教がインドはヒンズー教が日本では神道が近代を準備する上で重要でした。仏教は現世でいかに生きるかの指針を示しますが、それは決して世をいかに組織していくかに関する原理ではなかったのです。

しかしこれらの互いに相反する思想を含めて、そこには同じ基盤があります。西洋においても表面的な対立の奥に共通の基盤を持つのと同じです。それはないかと言えば、本質の否定であり、そこからの蘇りです。その結果としての多元思想であり、現世の宗教としての多神教です。

言葉を、本質を実際に否定する、その判断を止めたところで坐ることで、逆に現世の価値観を超えて生きる道を得ることができました。それ自身は底の浅いものでしかなかったのですが、この転換の形には考えるべき問題があると思います。

大乗仏教は本来、衆生救済のために現世に現れると言う思想があります。浄土教で説く往相、還相の回向である。極楽に往生した者が、再び現世に還ってきて、一切の衆生を教化して共に仏道に向かわせることを還相の回向という。この思想は仏教の眼目です。しかしこれは今日の思想としては力と輝きを失っているように思われます。西洋思想の中ではロゴス主義を批判しそれをのり超えようとする思想が生みだされていきました。東洋思想の基盤の上に、現世に出ていく一つの形はあります。これを深めなければなりません。

南海   ずいぶん難しいです。しかし、イラク戦争を含む今日の新自由主義が、西洋近代資本主義の結末であり、それをのりこえることが歴史の問題であることは、わかるものにはわかるというとき、すべてを一からではなく、東洋にあることを今日の課題の中で再生していこうということは、当然なことです。

北原   そうです。しかし、私の問いは、その体得は伝統的に仏教が行ってきたような寺での修行によらねばならないのか、この生活の場でこそなされねばならないのではないか、ということにも関わっています。そしてそれがまた私の疑問でもあり、自らこの場で求道すべきことなのです。いくつかの疑問をまとめておきたいと思います。

第一
、大乗仏教は自性(本質)を否定する。本質は言葉による分節の内容そのものである。言葉は協働の場で協働の必要において生まれる。言葉の体系が文化の構造である。ならば、大乗仏教は協働と言葉を否定するのか。人間にとって協働はやはり人間の本質ではないか。仏教の否定の水準と協働労働と言葉の肯定の水準とは異なるのか。それを貫く立場は可能なのか。
第二
、大乗仏教は本質から自由な存在のあり方を空とらえる。これは人間自身にもあてはまる。事実人間はかならず死ぬ。個別の人間は一時の形であり、空である。だがそのことは、人間にどんな生き方を提起するのか。働くことを否定せずかつ人間の本質を認めない人間の生き方は可能か。
第三
、大乗仏教は空の場ですべてのものが生々し縁起しているという。ものは「いき」ており縁起している。空の場で「こと」としてつかむことが縁起である。生々する「こと」の立ち現れる形が「とき」である。だが、自己が空ならば一体誰が「こと」としてつかむのか。その主体は何か。

北原   ここでは問題を大きくとらえただけですから、これだけでは何も言ったことにはならないのです。が、問題は大きくとらえそのなかで集中して具体的に実践的に考えることが大切でないでしょうか。

私は単純にはいえないことですが、二十一世紀初頭の新自由主義経済の崩壊の本質は、人間中心主義がもはや限界であるということだと考えています。人間が万物の霊長としてこの世界のものを自由にする、これが五百年の資本主義の時代でした。それを支えたのがキリスト教の人間中心主義でした。しかし地球環境は有限です。この有限性に規定されて、カネのためにはいくらでも地球を破壊する資本主義は行き詰まりました。

このとき、生きとし生けるものとの共生だけではなく、山川草木悉有仏性として、山川にも仏性をみる観点は重要であり、これをふたたび取りあげることはこれからいよいよ意味があると考えています。

人間が自らの決断として人間主義を脱却する。これが非人間主義です。これからの重要な問題です。


AozoraGakuen
2017-02-10