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道元に聴く

南海   『個人史』によれは若い頃に座禅をし、また『正法眼蔵』を読んでこられました。『正法眼蔵』は北原さんにとってどのような書なのですか。

北原   道元は生涯読み続けた書になりました。

故郷の宇治には、桃山時代に再興された道元開祖の興聖寺があり、小さい頃から慣れ親しんだ遊びの場であったことは、道元に引かれるきっかけの一つだと思います。また、道元の「而今の山水は、古佛の道現成なり。ともに法位に住して、究盡の功徳を成ぜり。(正法眼蔵山水經)」という言葉を、宇治川とその周辺の風光そのものとして受けとめ、『正法眼蔵』に入っていったのです。もちろん「山水經」の「而今」はそのような感覚的なことではないのですが。さらにまた学生時代に臨済宗の相国僧堂で少しは禅の修行をしたおり、梶谷宗認老師が提唱に使っておられたのが『正法眼蔵』でした。

そんなこともあって道元を読みはじめたのです。最初に強く引かれたのは「非情の求道」という道元の姿勢です。あれだけ原則的な生涯を送った人はいません。平安時代が崩れ鎌倉となるまさに激動の時代が生み出した人物です。

最近、もう一度『正法眼蔵』を読みなおしました。三冊の書物を手引きにしました。そのうえでいくつかの疑問に改めて出会いました。

第一の本は『意識と本質』(井筒 俊彦著、岩波文庫)

です。そのなかで仏教、とくに禅について書かれたところから一つの疑問に出会いました。

『意識と本質』にはつぎのことがいわれています。

人間は世界を分節して掴む。分節することが掴むことである。掴むのは「本質」である。分節は言葉による。道元は日常の言葉による分節にとらわれるな、異なる分節の体系もある。分節作用は世界の真実をとらえない。分節から自由になれ。

大乗仏教は「本質」を認めない。そんなものは人間の経験界における虚妄である。本質にとらわれる自己を脱落し、本質に縛られた日常意識が突き破られて、直接に世界に触れよ。そしてそこから、本質から解き放たれよ。

ここから私の存在に不安を考えなおせば、それは本質にとらわれた日常意識の裂け目であったといえます。それはよくわかります。道元を読んで、あるとき、不安を不安がる心の働きを止めてみたのです。そのままそこに置いて止めみました。このとき、日常の意識の断裂したところから真実の何かが顕れてくることを知りました。

このような経験を重ねながら、私が感じてきた「存在の不安」が、じつは存在の側からの語りかけであることが少しずつわかってきました。

一方で、人間は必ず死にます。いっとき人間として存在して、再びものに戻ります。個別の自己が自己としてあるのは一時のことである。ものとして戻っていく場は、わかりません。人間の側からいえば、すべては空です。空とは、人間として存在しまた再びものに戻っていくその総体、命に現れまた滅して生成滅滅しているこのものの総体、そのありようのことだと思います。それは意識を止めたとき、片鱗を表す。

すべては空である。空の相は縁によって起こり起こることである。自己の身心もまた縁によってあり、縁は解かれ空にかえる。これのみが実相である。縁起そのものが、日常の生成消滅ではない。縁による生起は輝きである。生成滅滅、また輝きである。自己はこの実相に触れるとき、一時のことであることを知らされ、不安と感じる。それは実は真実に触れているときである。

このように道元と仏教に学ぶことができるようになったのは最近のことです。

南海   私がやっと類体論がわかってきたとき、北原さんは道元がわかってきた。

北原   わかってきたとはいえません。私はかつて相国寺の参禅で「無字」の公案から「隻手の音声」に進みましたが、それは決して身心脱落したからではありません。修行はありますが、証はありません。

そこで疑問です。『意識と本質』には次の一節があります。

事物の「本質」はどこから来るのか。答えて言う、人間の倒錯した意識の働きによって「本質」は現れてくるのだ、と。

経験世界を分節して掴み、ものを本質において理解することは、確かに虚妄なのだ。だがしかし、それは労働の必然的な帰結ではないのか。人間は協働して労働することによって世界の中で生きる。そのときその協働を可能にするために言葉が生まれ分節の体系としての文化が生まれる。これは避けがたい。人間が生きていくということはそういうことだ。

この事実をふまえないところで言われる大乗仏教は、やはり現実に人を救うことはできないのではないか。

南海   仏教の教えることは、世界は空だということです。人間は皆死にます。ものに本質はありません。すべては生成滅滅、縁起の世界です。言葉は心(kokoro)の括る(kukuru)働きが、本質としてとらえるところに生まれます。しかし、本質は幻です。心の働きが止まり、言葉が断たれたとき、懐かしい世界が顕れます。

その通りです。しかし人間にとって言葉は働くところに生まれたものであり、人間の人間としての所以です。言葉を否定するということは、人間としての自己を否定することか。われわれの立場と食い違うのか、ということですね。

北原   それに関して第二の疑問です。『道元禅師 上下』(立松和平、東京書籍)を読んでのものです。

これはなかなか大作です。だが、一点、私が考えさせられたのは、道元が鎌倉に出向いて北条時頼対面したとき、武家の頭領、将軍として苦悩する時頼に、将軍をやめればいいのだ、と言いきるところに関してである。時頼に対してはこれでいい。

しかし戦乱に苦しむ農民に対して「農民をやめればいい」といえるだろうか、ということです。「やめられるものならやめたい」といわれて仏教者はどう答えるのか、です。

南海   第一の問いと第二の問いは根が同じであるように思います。仏教は出家し世を捨てることをいうが、しかし捨てられるものなのか、と言うことですね。人間は生産に携わることで人間となった。言葉も生まれた。労働は必然的に世界を分節する。労働は対象を本質において捉えなければ不可能である。

北原   分節にとらわれるなということと、人間が働くということと、これをどのように考えればよいのか疑問なのです。

もう一冊は 『道元』(頼住光子、NHK出版、05年11月)

です。

仏教では「無自性」を主張し、あらゆるものに固定的な本質などないということを出発点としている。人は、日常生活において、漠然と「自己」という何か固定的なものがあるかのように考え、その固定的な自己を単位として、生活を営んでいる。しかし、仏教的な考え方からすれば、それはあくまで日常生活を送るために仮構されたものであって、実はそのような固定的な自我もないし、さらに存在するものはすべて、固定的な本質などないのである。
そのうえで、著者は、本質を乗り越えたところでおこなわれる、
言語化、意味化によって再び世界が立ち現れてくる、これを「現成」と言うのだという。言語化し意味化するとは、時として構造化することであるともいう。自覚点としての「有時」こそが、日常世界における自己完結性から解き放たれて、世界との一体性を回復する時(而今)なのである。
ということを言う。これはそれぞれよくわかるし、『正法眼蔵』を読む手引きとして大変よくわかるものでした。しかしそのうえで、大きな疑問があります。

自己が空ならば一体誰が時として構造化するのか、時に構造化する主体は何か、ということです。これは本書のなかでは答えられていません。著者は「哲学」の範囲で道元を読んでいます。その範囲で読むかぎり、この主体の問題は解決できないように思われます。

南海   第三の問いは、頼住光子氏の『道元』があくまで哲学の範疇での解説であるのに対して、宗教としての問いであるように思われます。この主体は哲学からは出てこない。

北原   この主体は、道元のいう「仏性」に関わります。仏と人との人間としての交流、そのような仏性を、既成の、現実に社会的に存在する宗派仏教の概念としての仏性ではなく、言葉によって色づけされることなく、しかし仏教が仏性という「主体」の問題を考えなければならない。そうしなければ「人間として」の土台にはならない。

南海   また、大乗仏教からいえば、悟りに至ったものが再びこの世界に入って人びとを救おうとするとき、どのようにするのか、と言う問題でもあります。

北原   いずれにせよ、若い頃から疑問のままであったことがここで再び現れたと思いました。ただそれでも私は長いあいだ道元を読んできて、はじめて道元を読んだという気持ちです。

南海   私がはじめて類体論を読んだということと平行なことかも知れません。いずれにせよ新たな探求のはじまりです。


AozoraGakuen
2017-02-10