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京都北白川

南海   『個人史』によれば、北原さんは1972年の秋に京都の北白川でそれまで考えてきた人生の方向を転換するというを経験されました。引用された当時の日記を読みかえさせてもらいました。今この対話のなかでその意味を考えなければならないことがあるように思われます。

北原   私は1972年秋の経験について『個人史』の「京都という場」の「転換」に書きました。先に述べたように、大学闘争のなかでいろいろ考えました。しかし、そこから実際に行動し大学を離れ地域に入って教員なるには、この秋の転換が必要でした。ただ、その経験は個人の歴史にとっては大きなことであっても、ゆきづまった青年が風土のなかでいろいろ考えているうちに、もう少し広いところから考え生きていけばいいとわかったということで、それ自体はありふれたことです。

南海   都会での生活に疲れて故郷に帰り鎮守の森の木漏れ日のなかに坐っていると、忘れていたことに出会ったように思い、もう一度やり直そうとする気持ちが起こってくる。そしてはじめて自分が苦しんでいることを解きほぐすために行動する。

このような経験は、多かれ少なかれ誰にもあることです。しかし、誰にでもあるということは、いいかえればそれだけ普遍性があるということであり、しかも経験それ自体は大変個別で具体的なものであるだけに、実際の経験をふり返り、その構造と意味を考えることは大切です。

道元は、悟りは悟れば当たり前のことである、といっています。北原さんの経験がそのような悟りにつながることであるのかどうかはわかりません。ある心的な転換であり、それがその後の人生の方向を決めたのであるなら、そしてそれが、下宿していた土地と切り離せないのなら、その構造を詳しく検証することは、根のある思想を追求する立場からも意味あることではないでしょうか。

北原   わかりました。すこし思い起こすことにしましょう。あれは大学院修士課程二年の時でした。『個人史』に書きましたが、当時私は数学にゆきづまっていました。

数年前に『個人史』をまとめたときに

一九七一年の夏が終わり、秋の気配がして、感覚が鋭くなったころ、転換を経験する。それは京都北白川の風土の中で起こった。
九月二十八日の夕方小一時間、北白川の天神宮を歩いた。そのころは、考えごとに疲れるといつも北白川の下宿の辺りを歩いていた。如意ケ岳、俗にいう大文字山、つまり八月十六日の送り火で左大文字が浮かぶ山の麓に下宿はあった。古い地元の農家の二階だった。とにかく当時誰とも一日ものをいわないような日が続いていた。
まったく数学にゆきづまっていた。夏中、自分で考えた方向でいろいろやってみたが何の結果も得られなかった。心だけは集中していたが、壁にぶつかっていた。すべてが袋小路であった。
一方、大学を去るものは去って新しい人生を追求し始めていた。私の高校時代からの友人が当時大学を離れて空港反対運動のために淡路島に移り住んでいた。自分が遅れてしまったという意識もまた切実であった。それは今から思えば小知識人の焦りにすぎないものであったが、若い私には十分深刻であった。
と書きました。社会的な意味づけをする前の段階というか、ゆきづまりそのものというか、そんな状態でした。そしてそれは単に数学にゆきづまったということではなく、大学というものに価値をおいて上昇してきたそれまでの人生の方向にゆきづまった、というべきことでした。

下宿をしていた京都北白川は、白川女の里として知られているように、昔は京都市中からは離れた集落でした。そこに北白川天神宮があります。

台風一過の秋の日にここに散歩に出かけ、岡の上の石に腰をかけじっとしていました。不思議な時間でした。ほっとすると、すべてがそこにあるままに、輝いていました。風のそよぎ、木漏れ日のたわむれ。日だまりに座っていました。

自分というものがなく、ただ風光だけがあるような感じでした。これは不思議な経験でした。しかし神秘的ということではなく、なにか、知っているが忘れていた懐かしい場に戻ったようでありました。

我にかえって下宿に戻り書いたのが当時の日記です。

この風光の中には、深い、透き通った、人間的な、何かがあるのだ。その何かに、限りない懐かしさを感じるのだ。これは一体何なのだろうか。道元の世界は、或いはその何かに答えているのかも知れない。けれど、今はそれはわからない。確かに識ることのできる時まで、わからぬ事は、わからぬ事として、保持してゆかねばならない。
一切の神秘主義的傾向を、退けねばならない。自分の内の何が、そもそも懐かしさを感じているのだろうか。何が懐かしいのであろうか。何が何に感じているのか。こう書いている、私は誰だ。
その感動は下宿でいっそう深まったように思いました。夕刻もう一度日記を書きました。
今、やっと自分が出発点にまで、戻ってきたのだという事を、しみじみ感じる。そしてこの出発点というのは、自分が幼い日に、無意識に、無邪気に、とり入れた、何かあるものと直接に継っているのだという気がする。
その何かあるもの。それを言葉にすることは難しい。何処からとりいれたのか、と言われれば、幼い日の回りにいた人々、そして自然の環境によって作り出されるある精神の状態としか言えない。その精神の状態を何処に定着させていったのか、と言われれば、心と答えるより他はない。
とにかくそれは懐かしいのだ。日のあたる古い建物の作る静かな空間に、心を動かすのも、ずっとたどってゆけば、まだ六才の頃にまでたどりつける。あのころ西の方を裏とする、宇治川に面したところに住んでいた。けれども六才以前に具体的な思い出は出てこない。あの以前のところこそ、けれど、より本質的であるように思える。
今はただ、この出発点にまで戻ってきた自分を注意深く、静かに、確固としたものとし、そして、ゆっくり、出てゆかなければならない。世俗のあらゆる事にも、或いは学問でさえ、その深い歩みとは、直接の関係はないのだ。自己を、そのように鍛えねばならない。その直接の関係ないものを、けれども一つ一つ試練として、またその深い歩みをより確かなものとするための機会として、誠実に受入れてゆこう。
自分を縛っていたそれまでの価値観から解き放たれたようでした。すべてをはじめから考えていこうとする土台にぶちあたったような気持ちでした。自分の計らいではなかったようです。

今はこの経験さえがかぎりなく懐かしい。この世に生を受けて、このようなときを経験し、そして今まで生きてきました。そのことにどれだけの意味があるのかわかりません。しかし、とにかくそれは確かにこの時代の人生であったのです。


AozoraGakuen
2017-02-10