ところがこのときは、本当にゆきづまっていて、自己が現れる余裕もないままに、一人坐っていたように思います。
南海 なるほど。ゆきづまりいろんな計らいをする余裕もなく、ただ坐っていた。そうすると、「父母未生以前の本来の面目」が現れた、ということですか。
北原 いや、そこまでは言えません。私の経験は風土に関わっています。本当に普遍的な経験とはいえません。
南海 どんな経験も具体的なことを通してしかありえません。そのときに感じた懐かしさを風土への懐かしさとして、その当時はとらえられました。が、それは風土と共に生きるのが人間の普遍的なあり方だからそうなるのであって、やはりそれは普遍的な経験であるように思います。
北原 しかしさらに言えば、私は、仏法を求めていたのではなかった。あのときから数年前に京都相国寺で禅の修行をしていたのは確かですが、天神宮での経験は仏道修行のなかでのことではなかった。
南海 それはわかります。しかし、仏法を求める心の働きも煎じ詰めれば仏道修行の妨げです。求めることなく座っていたというほうが、本来のあり方ではありませんか。このとき経験されたことは人間にとって共通で普遍的であり、それをどのようなこととしてとらえるか、その違いが文化の違いではないでしょうか。
北原 そうかも知れませんが、そんなに深い経験ではなかった。それにやはりそれは宗教的経験とまでいえることではなかった。そこに帰依すべき人格を感じることはなかった。ただ、たしかに言葉による分節はそのとき断たれていた。そのような心の働き、心がくくる働きは止まっていた。ですから大乗仏教の言葉で言えば、空のなかで木々が輝いていたということはいえるかも知れません。
ただそれでも、存在の不安はその後も現れました。なくなったのではありません。ですからその点からいっても、すっかり解決したというようなことではなかったのです。
今ふり返って次のようにはいえると思います。
風土は客観的な存在です。風光はその風土を懐かしむそれぞれの人間にたちあらわれるものです。この場にまで立ちかえったとき、人間はもういちど生きることができるのではないか、そんなふうにも考えています。
南海 北原さんが転換を経験した京都北白川のような場が、日本列島では古くから生活のなかに位置づけれれていました。鎮守の森や社叢と言われる森の中に空いた木が生えていない空間、ここに人が来て坐り、心を放ってしまい、自然とそれを超えた「もの」を感じ、心のうちの荒ぶる魂を鎮める。そこから新たに再生していく。
そういう神の寄りしろを拝む祭壇とでもいうべき場があり、人の心のより所となった。沖縄の御嶽(うたき)、日本列島本島に見られる社叢(鎮守の森)や磐座(いわくら)など、どれも人が人間として生きるうえでえの土台となる場であった。
この地に生きてきたものにとって、一人の人間として自分の本源ともいうべきところに帰るために、これらの場は大切な役割を果たしてきた。それは一人のことではなく、このような経験は人々の深い無意識の記憶として蓄えられ、口承のもの語りが記憶のよみがえりをたすけた。この日本列島弧の人間はこうして困難を越えてきたのではないか。そうでなければ、現在の私たちは存在していないはずである。
ですから北原さんの経験は、まさに北白川の鎮守の森のなかの、石段を登ったところに開けた空間でのことであり、その意味で、伝統的で深い人間の底に通じることであったのだと思います。