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生死を包む

南海   実際に、その後北原さんは数学を離れ社会的な運動の方に時間を割かれました。それはやはりこの経験が契機ですか。

北原   確かに。これについても、数年前に『個人史』をまとめたときに次のように書きました。

秋の転換を経て、大晦日に宇治に帰った。晦日の夜半、一人宇治の街を歩いた。県神社から平等院の裏門前を通り、宇治川に出る。川の中之島を通って対岸にわたる。宇治神社の下に、御輿を清めるところだろうか、川べりに朱の門が立っている。そこに立って空を見る。月は雲にかかり、天下を照していた。さらに宇治上神社の方から小さい頃に住んでいた辺りまで足をのばした。家々は、年越しのたつきの音がしていた。月に照らされひとり歩いた。このとき何か決意した。私は自分自身の内部に普遍的な人間の真実をめざす立場がうち立ったように思われた。
自分には自分で考えていたような数学の才はなかった。このことをおさえて、そのうえで自分が直面した問題を正面にすえて生き、そして考えていこう。数学には途が見いだせなかったが、壁に当たってはじめて転換を経験し、新しい道へ踏み出していくことができた。
そういうことでした。

南海   何かここには、個人的に懐かしいことに触れることが、人間を新しい世の中での活動に向かわせる契機があることを示しています。これは大切なことで、よく考えてみたいところです。

北原   人間は本来、なんらかの形で世の変転の中で人のために生きたいという心を持っていると思います。人間は協働のなかで形成されてきたものだからです。私は人間のこのような心を信じます。本来の自分に触れることで、その心が解放されるのではないでしょうか。

最近はもっぱら自己実現であり自分を見つけよう、です。しかし人間は本来は、無私のうちに歴史のなかでなんらかの役割を果たしたいと考えるものです。懐かしい自己に出会い、本来の人間性が顕れるということかも知れません。

ただ私は、その後の自分の人生に欺瞞のあったことも知っています。それは、数学ではできなかったことを他の分野でしようという野心です。今はそれがわかります。あの経験が深くなかったという理由に、自分のこの欺瞞を今は指摘できるからです。ですから、私はその後携わった労働運動や党派活動も甘さがあった。本当に命を切り刻むように闘いぬいたか。考えぬいたか。一歩引いて先を見通して向きを変えること、あまりに多かったのではないのか。このようにも思います。この総体を人生の教訓として提示したい。そこから何かの教訓をくみ出せればと思う。

南海   追いつめられ、自分が保てなくなり、そのときはじめて立ち現れる風光に触れてきた、それは事実であり、そのかぎりでは切実に生きてきた。何か懐かしいものに触れ自分を取りもどし、世の中へ向かう。その構造は今ふたたび大変に重要です。

それとともに、もう一つ聴きたいことがあります。それは人間の生死についてです。日本は自殺大国で、年間三万人も自殺する国は他にありません。

北原   死とは何か、あのときたち顕れたあの輝く世界に還ることだ。それは間違いありません。それはおそらく厳然とした事実であり、喜怒哀楽を超えた真実です。自己が壁にあたってゆきづまったとき、そのまま坐っていればそこにその世界が顕れる。

南海   唐突ですが、人間は自死すべきではありません。それはなぜか。

北原   人間は死ぬものです。このことが実は人間が人間よりも大きい世界に立脚していることを示しています。死ぬものであるが故にこそ、自己より大きい世界に自己もまたあるということです。

生あり死あり、それがこの世界です。それがこの世界の輝きです。人間は大きく輝くこともあれば、小さく輝くこともあれば、ひっそりと輝くこともある。それぞれ世界の輝きを担っている。それぞれが十全に生き、そのことで世界の輝きを担っている。それが人間であり、さらに言えば命なのです。命をそれぞれの分において担うことが人間であり、生きることそのものです。

南海   死ぬものであるからこそ、自死すべきではないのですね。

北原   日本に自死が多いのは、新自由主義の階級格差のもとで人間としての尊厳が奪われ、かつ、それを自分で背負い込むからです。問題を自分で背負い、死に追いやられているからです。私は死ぬきでがんばれば何とかなる、などというつもりはありません。何とかなるというのは嘘です。

ただ、追い詰められたときに、方策を考えることもしばし措いて、じっと世界を見てほしい、とはいいたい。追い詰められていることはそんなに大きなことではない。そう思える世界が開けるかも知れません。生きていること自体がいとおしくなるかも知れません。

生が有限であり死するものであるがゆえに、生死の起こる場、その原理は生死より大きく、生死を包んでいると思います。だからこそ、死んではならないのです。また殺してはならないのです。

もちろんさまざまの要因が重なって心がそれにたえきれず、脳が楽としての死を求めるようになることはあり得ることであり、自死はそのゆえに起こるのですが、それが心の疲れであればあるだけ、治癒もまた可能です。病を治す根本は内因です。

南海   今はほんとうに難しい時代です。この時代に人間はどのように生きるのか。生の意味と生きる根拠を与えていた大きな物語がすべて解体しつくした後に、なおかつ生きる根拠は何であるのか。対話が進むほどに、さらに考えていかなければならない課題が増えていくように思われます。これからも対話を続けることが大切だと思います。


AozoraGakuen
2017-02-10