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搾取の現実

北原   この数年、日本の貧困問題はもう小手先の政策ではいかようにもならない段階に至っています。

NPO自立生活サポートセンター「もやい」事務局長で反貧困ネットワーク事務局長をつとめる湯浅誠さんが著書『反貧困』(岩波書店、2008年)や2008年5月20日の講演『“溜め”のない若者と貧困』(主催:全国進路指導研究会)などで、現在の貧困について語るのを読みました。 彼のいうことは次のようなことです。

貧困は構造的なものである。若い人たちは、三つのセーフティネット(労働のセーフティネット、社会保険のセーフティネット、公的扶助のセーフティネット)から落ちて行く構造になっている。そこで貧困が生産される。
自己責任論は本質を見誤る。テレビで貧困の問題が報じられていると、頑張って働いているのに生活ができない人を見て、可哀相だと同情しながら、隣で一緒にテレビを見ているフリーターの息子に対しては、「お前は自己責任」と切り捨てる父親がいるが、そのようなとらえ方は本質を見誤る。
五重の排除。「五重の排除」というのは、「教育課程」「企業福祉」「家族福祉」「公的福祉」「自分自身」の排除であると述べ、この中でとくに問題なのは「自分自身」の排除である。
社会の留め。人間は“溜め”に包まれており、大きい人も小さい人もいるが、お金の“溜め”、親や親戚など人間関係の“溜め”、自分に自信がある精神的な“溜め”。昔は貧乏でも家族や地域があった。いまは経済的に頼れる人間関係や精神的な“溜め”のレベルが違う。全体としてそういうものが失われるのが貧困である。
“溜め”を増やしていく社会をつくる。“溜め”を増やす長いプロセスをどうやって増やすか。生活保護、信頼できる友人、空間、温かく見守っていくことが必要。一般論でただケツを叩くだけでは、自立から結果的に遠ざける。“溜め”のない人に“溜め”を増やしていく社会を作っていくことが大事。
このような事実にもとづきながらそれを冷静に分析する仕事が若い人のなかから出てきたことを喜びます。

これを読めばわかるように、また事実、かつてはあった隣近所の助け合いや職場での働き人の連帯などが急速に失われています。その結果、いちど貧困に陥った若者はなかなかはい上がれない。日本は今、欧米よりも厳しい冷え冷えとした階級社会にないっています。

南海   小林多喜二の小説『蟹工船』が再び読まれています。いま貧困に苦しむ若者がいちばん共感するのが『蟹工船』です。なかなかはい上がれない状況に置かれた多くの若者が、『蟹工船』に閉じこめられた労働者に我が身を引き写すからです。

北原   この共感こそまさに階級的共感です。その共感の根拠こそ階級です。であるから資本の側も危機感をもっています。

南海   2008年6月8日午後0時半ごろ、東京都千代田区外神田のJR秋葉原駅近くの秋葉原電気街の交差点で、歩行者天国に男が赤信号を無視してトラックで突っ込み17人を殺傷する事件が起こりました。

容疑者の25歳の男は直前まで派遣会社の日研総業からトヨタ傘下の関東自動車工業東富士工場に派遣されていた。そして5月26日に突然クビを通告されていたのです。突然の解雇は生活が不安な派遣労働者にとって絶望を強いるものです。関東自動車工業はこのようにいつでも解雇できる労働力を酷使することで莫大な利益を上げ、優良企業となっていました。

まさにこの事件は新自由主義の過酷な搾取体制が生み出したものです。

北原   その直後に幼女連続殺害事件の宮崎勤が処刑されました。秋葉原の大量無差別殺傷事件に対してこのような行動には厳罰で臨むという国家権力の意思表示でした。

南海   かつて日本社会には「罪を憎んで人を憎まず」という言葉が生きていました。犯罪は許さないがそれが起こってきた大元を見なければならない、事件の被害者とともに、事件を起こしたものも世のあり方の犠牲者だ、だから更正の機会を与えなければならない、という考え方です。

これは湯浅さんのいう「溜め」です。今の日本にはこの溜めが失われています。

北原   問題の根本が今日の酷い搾取体制にあることは資本の側も知っています。それが明らかになることを恐れるがゆえに、即刻宮崎勤を処刑した。このことは彼らの方にも余裕がなくなったということです。それだけ階級対立は実際厳しくなったということです。歴史的にこの段階を通ることは必要ですが、しかし厳しい時代となることはまちがいない。

南海   若者は、この厳しさのなかで、にもかかわらずいろいろと新しい生き方を呈示してやっています。若者自身がいろいろな回路で社会に抗議するということが続いています。あるいは、抗議をこえて自分たちの生き様を同じ立場のものが協働して生み出していこうというところまで来ています。これは素晴らしい。そのような新しい生き様が各地各所に生まれてきてほしい。

北原   先の湯浅誠さんも東大大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学し、大学院在学中の1995年よりホームレス支援などに関わった人で、父親の死をきっかけに大学院を辞め、貧困者支援活動に専念しています。このように「何々として」を離れたところで新しい知のあり方を実際に生み出していく若者の出現は、嬉しいことです。時代の厳しさが新しい生き方を生み出す。

同時にこのような運動は、歴史をどこかで引き受け継承し、新しい世を生み出していくことと結びつかなければ、何も解決はしないことになります。その意味で、さまざまの老壮青の結びつきが生まれることを願っています。

南海   いま老といわれましたが、老人の問題も同じことです。後期高齢者医療制度は老人差別の制度です。多田富雄さんが2008年6月10日から、朝日新聞に書いています。多田さんは74歳、もと東大の免疫学者であるが7年前に脳梗塞に倒れ、以来後遺症と闘いながら左手でパソコンを打ち、自身の経験にもとずく発言を続けておられます。その前半の方から関連する主張を抜き書きます。

第1回:
 昭和の日本には社会の中心となる健全な中流が育っていました。日本はこの健全な中流に支えられていたのです。それが過剰な競争と能率主義、成果主義、市場原理主義で「格差」が広がり、もはや中流はろくに発言ができなくなった。健康な社会ではなくなった。
 一昨年4月から施行されたリハビリの日数制限、そして今年始まった後期高齢者医療制度など、市場原理主義にもとづく残酷な「棄民法」としかいいようがありません。
第3回:
 私は朝日新聞に、「リハビリ中止は死の宣告」という一文を投書し、窮状を訴えました。、投書は白紙撤回の署名運動に発展し、2ヵ月間に何と48万人の署名が集まりました。
 私は車いすで厚生労働省に署名を・届けました。厚労省はそれを握りつぶし、07年の再改定では、かえって締め付けを強化しました。
 こうして障害者、高齢の患者の診療制限が露骨になりました。その延長上に今年4月からの後期高齢者医療制度があるのです。
 75歳以上の老人を従来の公的医療保険制度から切り離し、個別的に保険料を徴収する。負担は増え、払えない者からは保険証を取り上げる。しかも診療報酬の制限で、患者が新しい痛気を併発しても治療ができなくなるかもしれません。残酷な「うば捨て医療制度」です。
5回:
 それが小泉政権下で、さらに拍車がかかり、「自助努力」や「適正化」の名の下に、人間社会のきずなを断ち切ってきました。
 そこに「格差社会」のゆがみが重なり、収拾不可能な社会問題化したのが日本の現状だと思います。
 衝動的に人をあやめる若者のニュースが相次いでいます。命を大事にすることを知らないと、自暴自棄になって、破滅的行動に歯止めがかからなくなる。命を軽視して物質本位に走った大人の責任です。
 このあたりで病根に気づき、政策を転換しないと、この国は本当に危ない、と私は思っています。

これを読めばいかにいまの日本社会が老人を切り捨てる非人間的な社会であるかがわかります。

北原   後期高齢者医療制度はわれわれいわゆる団塊の世代をねらい撃ちするものです。団塊の世代が70歳前後になったとき医療費が大きくふくらむであろうことはまちがいありません。その問題を社会全体で乗り越えていこうとするのではなく、老人を差別し切り捨てることで経済的負担を軽減しようとしています。

若者の貧困問題、老人の問題にあわせて、さらに研修生という名の外国人労働者の使い捨て問題も過酷です。このように日本資本主義はアメリカ資本主義と並んでとりわけどう猛であり、金儲けのためにはいかなる非人間的なこともするのです。

このような問題に共通することは、それが資本主義そのものの現段階であるということです。私は、2007年8月31日に『天賦人権』の「自民党大敗の本質」の中で次のように書きました。

新自由主義とは何か。それは剥き出しの資本主義である。弱肉強食・拝金主義の市場主義、大域主義という名の地球規模での収奪体制、これである。

産業革命とともに近代資本主義は登場した。それはまさに過酷な収奪と搾取であった。社会主義運動は必然的に燃えあがり、紆余曲折を経て、ついにロシア革命にいたる。人類史上最初の社会主義権力が樹立された。これに対して資本の側は、ケインズ主義といわれる修正資本主義を導入、資本の行動を規制し、一定の富の配分を国家の手で行い、人民の反抗が社会主義に向かいロシア革命が広がることを、おさえようとした。第二次大戦の後のいわゆる戦後復興もまた、基本的にはケインズ主義の範囲であった。
ところがいわゆる社会主義が行きづまった80年代中期以降、資本主義はケインズ主義を投げ捨て、本来の資本の論理ですべてを推し進めようとした。サッチャー主義でありレーガン主義である。レーガンの時代アメリカはIMFなどを通して中南米の収奪を強化した。そして社会主義陣営が崩壊した90年以降、国際資本は何の遠慮もなく行動した。それが新自由主義である。
日本では中曽根首相の戦後体制の見直しが、転換の宣言であった。バブルの崩壊を機に資本の側は剥き出しの体制を要求、小泉改革はそれに応えるものであった。それが規制緩和という名の新自由主義である。規制とは資本の横暴を規制することであったが、これを投げ捨てた。
伝統的な農林漁業を破壊し収奪する。それは単に産業としての農林漁業の破壊ではなく、土地と風土に根ざした生活の破壊であり、人間が生きる意味の破壊である。
貧富の格差の絶望的なまでの広がりである。現代資本主義は、都市に下層貧民を産業予備軍として蓄えておかなければ、利潤を上げることはできない。富める少数者はますます富み、貧しい多数者はますます貧しくなる。
新自由主義は剥き出しの資本主義であるがゆえに、根本的な矛盾をかかえている。人民の貧困の拡大であり購買力の低下、過剰生産と恐慌、である。アメリカのサブプライム問題にはじまる景気後退はまさに新たな恐慌ではないか。

まさにこのような事態が進んでいます。帝国アメリカからの独立を果たし、このような腐敗し堕落したばくち経済体制から脱却し、足を地につけ長い時間をかけてアジアの一小国としての節度ある世のあり方を生み出していくのか、あるいは帝国アメリカとともに没落するのか、これが根本の問題です。

当面の政治課題の真の争点は帝国アメリカからの独立をめざすのか否か、そのための準備を目的意識的にはじめるのか否か、です。新自由主義的世界観、価値観、生活様式、すべてにわたる問題です。

南海   確かに問題はそのように深いです。不況で仕事がない、中小企業は苦しい。確かにそうです。しかしその仕事が自動車産業や資源浪費産業につながるものであれば、仕事が再度増えることはありえない。日本の産業を支えてきた中小の町工場にとってこれは難しい問題です。

国家が産業構造の転換の青写真をえがき、それにそって企業の再編、労働者の再編成を、中小企業や労働者への打撃を回避しつつ、指導すればいいのです。しかし今の日本政府にその力も気概もありません。

北原   問題を少しまとめてみます。

第一、
労働者は、労働力を資本に売ることで生産過程に入る。生産過程で受けとる賃金は、労働者が生産した価値よりもはるかに低い。こうして資本は増大し、労働者は貧困化する。
第二、
資本主義は技術を制御することができない。このゆえに周期的な恐慌に襲われる。そのときの調整弁として、必要なら解雇し生産過程からも排除できる労働力を必要とする。
第三、
その自由を保障してのが新自由主義であった。そのゆえに新自由主義は貧富の差を極限まで押し進めたが、その故にこそ購買力を失い、まさに資本の運動法則として崩落した。
第四、
このとき資本はさらなる労働者の犠牲のうえに、ここから脱出しようとする。帝国アメリカの没落過程でおこる労働者への収奪は、資本主義的搾取そのものである。
第五、
このような過程のくりかえしを終わらせるのは資本主義の止揚しかない。歴史はこの問題を現実過程の問題として提起している。反貧困の運動は、内実として資本主義的な生産関係を乗りこえるものをもつとき、新しい歴史をきり拓く。


AozoraGakuen
2017-02-10