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階級の復権

北原   先ほども言われたように、いま『蟹工船』が多くの若者に共感をもって読まれています。『蟹工船』への共感こそまさに階級的共感です。その共感を起こさせる根拠、それが階級です。階級という概念はソ連や社会主義陣営が崩壊して以降、まじめに取りあげられることはありませんでした。しかし私は、いまこそ階級概念を復興させなければならないし、この時代の厳しさのなかでこの概念を鍛え育ていかなければならないと考えています。

南海   階級、階級闘争、これらの言葉が雑誌や書籍から消えて久しいような気がします。

北原   実際そうです。しかしそれは人びとが階級という言葉で考えることを恐れたものによって消されたのであり、社会主義や共産主義への攻撃と同じものです。そのものが誰でありどのような構造のもとで階級という言葉が消されてきたのか、それはまた別によく考えるべき問題ですが、そのような思想的攻撃に、まずおおやけに発言する多くの人がうち負けてしまい階級概念を放棄、人びともこれを失ったのです。

南海   それは逆にいえば今なお階級概念は有効であるということを意味しませんか。誰が恐れているのか。

北原   実際の問題ははるかに複雑ですが、まとめて言えば、新自由主義という資本制度によって人間を自由に搾取し莫大な利益を得てきたもの達です。彼らが階級概念の広がりをもっとも恐れています。使いたいときだけ使い、不況なれば真っ先にクビを切る。資本にとってこんなに使い勝手のよい労働力はありません。

南海   彼らは階級という概念をつかんで人びとが団結することを恐れているのですね。いま不安定な職にしか就けない若者が『蟹工船』に共感する。それはまさに同じ階級に属するという事実が生み出す共感なのですね。同じ存在、同じ立場が共感を生み出す。そのことを若者がつかんだとき、形態は違っても「同じ立場、同じ階級」に属するものとの連帯が生まれます。それを恐れたのですね。

北原   かつて小泉首相は「郵政改革」だけを掲げて選挙に勝ちました。当時小泉を支持したのは現状の変革を願う若者でした。このときもし階級という考え方が若者のなかに受け容れられていれば、このようなことは起こらなかったかも知れません。

当時、小泉改革で最も切り捨てられる層が小泉を支持したという批判が幾人かの識者によっなされました。しかしその多くの言論は若者の焦がれるような現状打破の気持ちをわかってはいなかったし、また、若者が階級意識をもつことを妨げてきたものこそ、偽善的な左派や市民派の識者だったのです。

新自由主義がこれほど露骨になる前、1970〜80年代、一部のいわゆる先進資本主義国は、広範なアジアアフリカへの新植民地主義支配を土台に、国内では修正資本主義、ケインズ主義をおこない、福祉国家などのような政策をもとに一国内階級融和政策を推し進めました。その結果、左派政党も改良主義に陥り、一国内の利益配分を少しでも自分たちに有利にしようとする方向に向かいました。

南海   70年代から80年代のそのような政策は六八年の青年学生の反乱に対する融和策でもあったのですか。

北原   その側面もあったと思います。基本的には社会主義陣営への対抗策でした。その方向を転換したのが、アメリカのレーガン大統領、イギリスのサッチャー首相でした。かれらは、自由主義経済を掲げ、ケインズ主義からの決別を宣言、今日の新自由主義につながる露骨な資本主義を進めたのです。

ソ連や中国の状況からもはや社会主義が脅威でないとの読みがあり、事実その後社会主義陣営は崩壊、その後なだれを打ったようにいずれの国々も新自由主義を取り入れます。

こうして、階級融和は放棄され、それとともに階級概念が現実の土台を再び獲得してきたのです。しかし社科学者や政治学者など既成の知識階層の人間にはもはやこの概念を再び生かす力はないように思われます。

南海   現実の方がはるかに先を行っているのですね。しかしでは一体「階級」とは何か。それを再定義しなければなりません。

北原   かつてどのように定義されていたのか。『岩波小辞典 哲学』(粟田賢三、古在由重編、1958年第1版)では次のようになっている。

階級[英class,独Klasse] <歴史的に規定された社会的生産の制度のなかで占める地位の点で、生陸手段に対する関係の点で、労働の社会的組織における役割の点で、従ってその自由にしうる社会的富の分け前をうけとる方法とその分け前の大きさの点で、他から区別される人々の大きな集団>、
<社会経済の一定の制度のなかで占める地位が相違するおかげで、その一方が他方の労働をわがものとすることがでさるような、そういう人々の集団>(レーニン)
をいう。経済的に支配的な階級は政治的にも支配階級となり、また精神的にもその影饗力をひろげる圧倒的な諸手段を支配している。階級性とは、階級社会のあらゆる人間の政治的行動や精神的活動がすべてその属する階級の刻印をおびていること、そしてこれが職業その他から生じるあらゆる相違よりも根本的意義をもっているということである。マルクスは、ある階級に属する諸個人が客観的に共通の利益をもちながらも、まだこの連帯にめざめず、階級的に団結しない段階にある階級を、へ一ゲル用語にならって、<即自的階級>(Klasse an sich)とよび、自覚をもって団結するにいたった階級を<対自的階級>(Klasse für sich)とよんでいる。

金持ちと貧乏人、人を使うものと人に使われるもの、ここに厳然とした本質的な違いがある、そういう思想です。もちろん、最終的に誰が支配者かといえば、国際的な金融資本やアメリカの産軍複合体などいろいろと具体的な分析しなければならない。また、そのなかで国民国家はどのような役割を果たしているのかという問題も重要な問題である。一方、いわゆる知識層はどうなのか、一般の管理者はどうなのか、農業、個人商業などはどのように考えるのか、などいろいろあります。

しかしそれが重要なのではありません。階級思想が広がることをおし止めたいものほどそのような質問を出すのです。しかしそれは本質的なことではありません。貧困にあえぐ労働者が「階級」という考え方をするのかどうかなのです。われわれ新自由主義の抑圧のもとにある階級は、まさに資産のない階級です。これは言葉の真の意味で無産階級です。

南海   無産階級ですか。プロレタリアということですね。でも無産階級の方がよくわかります。

先の小辞典の定義では自覚するものと自覚しないものを区別しています。確かに認識の最初の段階では次のようになることが多いです。自らの置かれた状況は自分の責任であると考えたり、運が悪いと考えたりし、上に取り入って解決しようとする。あるいは同じ立場のものを蹴落として自分がはい上がろうとする。これらはすべて<自己にこもって客観視できない>階級。

それに対して経験を経て理論を身につけることで、自己の境遇は自分の責任ではなく社会的に作られたものであると知り、同じ立場のものが力をあわせて乗り越えていこうとする、この段階になった階級を<自己を自覚し、こえる>階級。このようにいうのですね。雨宮処凛さんが「プレカリアートという言葉を知って自分は解放された」という意味のことをいっていますが、これもまた同じことをいっていると思います。

<自分をこえる>階級は国境を越えます。新自由主義は自由に国境を越えます。同じ新自由主義のもとで苦しむものも、国境を越えてつながらなければなりません。

北原   国境を越えるということについて一つ考えるべきことがあります。それは日本と中国や日本と韓国の間にある問題です。中国では小泉首相の靖国神社参拝など日本政治に何か軍国主義の復活に向けた動きがあると、すぐに反日デモなどが起こります。それ自体は当然なのですが、それに対して日本の側でも反中国の世論が広がります。江沢民が中国共産党総書記の時代におこなわれた歴史教育は「日本民族は中国民族に残虐なことをした」という民族主義にもとづくものでした。その教育で育った世代がいま社会の中心にいる。

一方、四川大地震での救援活動で日本人を見なおしたり、また日本漫画の深い浸透などがあり、中国では日本をどのように見るか、大きな分岐が存在します。それは日本側でも同様であり、資本主義中国が覇権をうち立てていこうとすることに対する恐怖心を背景にする中国脅威論やその裏返しの中国の貧困や環境破壊をことさら取りあげる論と、日中戦争の教訓から中国との友好を求める論がともに存在しています。しかしそれらは、中国民族と日本民族の問題として考えているという基本的な共通点があります。

ここで私は、日中間の問題は階級の問題であって民族の問題ではないといいたいのです。毛沢東の時代にはこの原則が打ち立っていた。日本軍国主義は日中人民の共通の敵という考え方で貫かれていました。問題なのは軍国主義の復活をめざす日本の保守層であって、人民は相互に信頼しうる。日中戦争での日本軍の残虐行為は、軍国主義の戦争が生みだしたものであり、戦争がいかに人間を変えるかという問題であって、民族固有の特質ではない。日中の人民は協同して日本軍国主義の復活と闘わなければならない。これがかつての中国共産党の立場であり、私はこの考え方を支持します。

南海   北原  さんの訪中記『十六年目の中国』にそのことを書かれています。ただそれは、現在の中国支配層への批判になりますね。

北原   そうです。中国共産党は完全に資本主義の利権集団になっています。中国人民の批判は本来この腐敗した政権に向かわなければ、現代中国の問題を解決することはできません。もちろんそれには一定の歴史的条件が必要で、いまはまだこの政権から利益を受けるものの力が強く、政権への反抗は散発しておさえこまれています。

さて、先ほどの「プレカリアート」です。人間はそのとき自分の手元にある言葉で闘います。「プレカリアート」は「プロレタリアート」を模して作られた言葉です。この言葉がどれだけの奥いきと裏付けをもつかは未知です。ただ、人はそれまで見えていなかった抑圧する相手が見えたとき、心がそれだけ解放され闘うのです。

日本の人民や中国の人民が、自分たちを抑圧する相手が世界的な新自由主義につながる現代資本主義とその権力であることを見出すとき、新たな連帯が生まれます。そのときは来ます。時間はかかります。現代は実に困難な時代です。しかしまた、希望も失われていない時代です。


AozoraGakuen
2017-02-10