私は『構造日本語定義集』のまえがきにあたる『定義集へ』のなかで次のように書きました。
わたしたちは、人間は言葉の違いをこえてわかりあえると信じている。しかしそれは、固有の言葉を深く耕すときはじめて可能であると考える。そのときはじめて人は、協同して働き輝きながら向上する生命としての本質において同じであるという普遍性のうえに立てると考えている。
人間は、それぞれの人間の生きた深さにおいてしか、互いにわかりあうことはできない。言葉の問題ではない。人間がわかりあえるためには、生きて固有の言葉を拓き耕し、人間の土台に至らなければならない。それができなければ、転換期を超える新しい段階の人間は生まれない。
固有の言葉に根をもつ普遍性が開示される場で、はじめてともにわかりあえ、ともに生きることができる。近代資本主義が力をもって押しつける「普遍性」は普遍でない。真の普遍は、固有性が共存するところ(場)としてのみ実現される。それは、西洋近代を構成する部分をもひとつの固有性とする、新しい段階の普遍性である。しかし、それは、土台としての言葉が深く耕されなければ不可能である。
これは甘い考え方です。固有性を徹底して耕せば新しい普遍性を獲得でき人と人はわかりあえる、ということは、それだけでは正しくありません。階級が同じであるという根拠のもと、同じ階級の場において、言葉が耕されるならば、わかりあうことは可能です。言葉を耕すのは現実の闘いであり、困難な道なのです。
階級という問題を前にして、はじめて固有と普遍という問題もまた現実の問題となります。新自由主義という資本主義を前にしてはじめて現実の問題としてこの問題に出会っています。「固有性が共存するところ(場)」は資本主義のもとにおける被支配階級そのものである。
これだけではまったく抽象的な一般論に過ぎないのですが、しかしこの方向性はまちがいない。人類は一歩一歩この方向に歩んでいきます。
南海 確かにそれはよくわかります。言われたように、現実にはこの問題の解決は机上ではまったく不可能で、実際の人民の闘いと連帯のなかなでしかありえません。
北原 その通りです。同時にまた、知の段階の問題としてこれを取りあげないかぎり二十世紀と同じ過ちをくりかえすと思うのです。現実の社会主義は人間や民族の固有性と対立した。もちろんそれは誤りというよりは人類がはじめて出会った社会主義革命という現実の歴史課題のなかでの試行錯誤の問題なのですが。
われわれは二十世紀に大きな試行錯誤をしました。血の教訓でした。時代は再び社会主義を求めています。
レーニンは「革命は普遍的なことだが、その方法と形式は固有なものである」ということ言っています。これは20世紀の革命のなかでは、実現しなかったことです。まったく未知な開かれた問題として、われわれの前に横たわっています。
南海 このようなさまざまの問題を解決していくわれわれの方法の一つとして、今日の情報技術をわれわれが生かすということがあるのではないでしょうか。
北原 確かに、情報技術の進展はまったく驚くばかりです。これについては私はかつて次のように書きました。
人類は、社会を構成するすべての人間がすべての情報を共有しつつ、自ら主体的に判断し社会の主人公として生きることができる可能性を、獲得している。これはまた、世界の各民族が、その民族性を最大限に発揮しつつ、人類として、国家の枠組みをこえて協同しうる可能性を意味している。有節音の技術(つまり言葉の獲得)が人間の思想を可能にしたように、高度情報化技術は人間の新しい知恵、すなわち個の尊重と協同して生きることの完全な両立の知恵を可能にしている。これはまさに階級の廃絶された共産主義である。生産力の発展は不可避な客観的過程であった。その不可避の過程が現在到達している段階の、本質的な意義は共産主義が可能性として存在しているというところにある。
今日、この可能性は、現実性に転化していない。人間はまだ、今日の技術のもつ可能性の実現、つまり人類の人間としての解放の実現を果していない。(一)相対性理論と量子力学という根本的に新しい世界認識によって獲得された現代技術は、人間の真の解放の可能性の技術的土台を準備した。(二)この技術的発展によって生まれた可能性というものは、本質的なものであるがゆえに必ず現実性に転化するし、またしなければならない。(三)しかしにもかかわらず、現実にはこの可能性はまだ可能性のままであり、現実のものとはなっていない。ということはいまも変わりません。可能性を現実性に転化するためには、人間の目的意識的な闘いが必要です。これは長い時間を要することでしょう。
このような技術がわれわれの前に開けるとは思いもよらなかったことです。しかし事実として人間はこのような情報技術を手に入れました。ロシア革命の時代にも情報技術の革命的進展がありました。それが鉄道網の広がりです。いままた新たな革命の土台としての情報技術があります。しかし、鉄道の場合もそうであったように、生かすも殺すもそれを担う人間の問題です。
人間はこのようにしていくつもいくつもの歴史的転換点を闘ってきました。その時々に多くの命が失われ、そして歴史が進みました。人間とはそのようなものなのかも知れません。いったい人間がこの世に現れた意味がどこにあるのかと考えますがそれはよくわかりません。ただ人間が、歴史的にしなければならないことに命を費やし、そして歴史を進めてきたこと、人間とはそのようにして生を営むものであることは確かです。
このような見通しの根拠として『準備的思索』において私は次のように書きました。
資本主義は「市場主義」や「大域主義」という普遍性の名の下に、働いた人からさちを奪い資本を増殖させる。さちを奪い資本を増殖させる場所、それが市場である。市場のやりとりを善とする世界に対して、さちを奪われる側の世界は、今日もさちを受けとるいとなみ自体に価値を見いだす。理学もまたさちを受けとるいとなみこそが人間のいとなみであり、人生の意味であると考える。その営みそのものが世の前に出なければならないし、今日の世界のあり方は必ずそのように転換されると考える。
その根拠は何か。
南海 上田等さんへの追悼文で次のように書かれました。
人間は、有限のときを精一杯に生きて、そのことにおいて、こころざしを次代に伝えていかねばならないものです。上田さんはそれを全うされました。まったくそのように思います。われわれもまた「有限のときを精一杯に生きて、そのことにおいて、こころざしを次代に伝え」たいものです。
北原 言葉としての共産主義が、その思想を必要とする人々に受けいれられるまでには、まだまだ多くの困難があります。派遣先によって解雇され行き場を失う人こそ、まさに無産階級であり、無産階級としての共通性をもっています。この共通性に基づいて団結する、団結し交渉する、団結を拡げる、このような芽が出てきつつあります。
言葉は後からでいいのです。一つ一つの取り組みが実は共産主義の内実を準備するものであるのです。その実践が先行することが重要です。実践が事実として広くおこなわれるとき、その現実を共産主義への運動としてつかまれるのです。