今回のサミットを取りまく状況は、これまでのものとは根本的に異なっていました。もともとサミットは70年代のオイル危機を受けはじまったものです。資本主義諸国側が市場主義を共通原理として掲げつつ、石油などの資源を消費する側としていかに安く得るかということが実際上の目的でした。また通貨安定のためにプラザ合意がなされたものサミットの場でした。
ところが今回、石油価格を引き上げているのは市場そのものです。荒れ狂う市場に直面して、どのような協調の施策がとれるのかが問われていました。だが、過剰な警備に守られて形だけの議論に終始し、結局何も取り決めることもできず、現実の諸問題の活路を見出すことはできませんでした。
その後、アメリカのバブルが崩壊することで、石油価格が今度は暴落しました。すべて、バクチ経済に狂奔する金融資本が原因であり、これを統制することがもはや資本主義にはできないのではないか、これが問題でした。
この20年間、国際金融資本はデリバティブ取引などの金融操作によって、一見繁栄しているかのように見えましたが、結局それはまさに砂上の楼閣であったことが、アメリカのサブプライムローンの破綻によって明らかになりました。結果、行き場を失った投資資金が石油や穀物市場に流れ込み、原料、食糧の高騰を招いたのです。そして今度は資金の引き上げです。2008年年末には石油価格も暴落しました。半年の内に価格が暴騰し暴落すること自体が、市場制度の破綻を示しています。
帝国アメリカは過剰な消費を行うことで見かけの繁栄を演出してきましたが、それは人為的な地球の温暖化をもたらし、圧倒的多数の世界の貧困層を生存の危機に追いやっています。過剰生産と搾取の強化による購買力の低下、その結果としての周期的な恐慌、このマルクスの言葉通りの事態が進んでいます。
そのうえで、一体環境問題の本質は何なのか.
北原 四つの危機をあげられましたが、これらは並列的なものではありません。 過剰なエネルギー消費と地球の破壊という資本主義そのものがもたらす環境危機、そして弱肉強食の拝金主義がもたらす人間性と社会の危機、これがより本質的で基本的な問題です。今日の環境問題は,産業革命以来の問題であり、人間と自然の関係に関する問題の噴出ととらえることができます.
私は人間と現代技術をまとめたことがあります。少し書きなおして引用します。
協同し道具を用いて働き、自然から糧を得る。これは言葉によってはじめて可能である。道具が配置された生産構造が技術である。技術の発展は、一つの到達点として産業革命に至った。産業革命を考え方として準備したものは何か。それが、ニュートン力学とデカルトの近代的世界観である。
かつて人間は、自然界から恵みを受けとるという段階から、世界を耕し実を成らせるという段階へ転化した。それが新石器革命であった。世界を改変してそこから糧を得ることのはじまりであった。その一つの到達点が産業革命である。産業革命によってその規模は巨大化した。世界を改変するために、自然の法則を対象化して認識し、具体的現実に適用する、これを最後まで進めたのが産業革命なのである。
その思想と理論を準備したものこそが本質的にニュートンであり、デカルトであった。18世紀の自然科学の成立は、デカルトの二元論をその根拠とした。ヨーロッパ近代は世界を物質世界と精神世界に分離したうえで、その物質面の探究に専念した。十八世紀に成立した自然科学は、時間と空間を物質が存在し運動する枠組みとしてあらかじめ前提した。これは、言葉によって人間が自然を対象化して認識した時以来育ててきた世界認識の型であり、ニュートン力学はこの人間の世界を認識する仕方の集大成であり、その極限であった。いわゆる「主観−客観」という認識上の図式は言葉によって人間である人間の認識にとって必然の帰結である。近代資本主義文明はこの必然性に根拠をもっている。
しかし同時にそれは生命を物質に還元し、人間を個別の人間に切り離した。人間をばらばらにすることは、近代資本主義が人間の働くということそのものを冨の源泉として搾取するうえで、必要でありまた十分なものの見方であった。
相対性理論と量子力学は、現象の時間・空間的かつ因果的記述に対する制約を暴露し、時空概念の絶対性を奪い取った。ニュートン力学が生みだした近代の生産技術は、逆にニュートン力学を乘りこえる事実の存在を人間に示した。それまでの「problématique(問いの枠組み)」が事実によって転換を求められたのだ。
ニュートンの時間と空間を前提にする世界観の超越的枠組みは、相対性理論と量子力学においてとりはらわれ、その世界観は「発展する物質」としてのこの世界自体の認識を一歩一歩深めることを可能にした。相対性理論と量子力学は、時間・空間が物質存在と運動の前提ではなく、逆に物質が「運動しつつ=存在する」ことが、そこに時間・空間の「ある」ことである。このことを明らかにした。
この思想と理論によって獲得されたものこそ、原子エネルギーであり、今日のいわゆる高度情報化技術である。半導体技術や超伝導技術の前進、コピューターと通信の劇的な普遍化の土台には、量子力学が基本思想と理論として存在している。これぬきにいかなる先端技術も不可能であった。電子や光子を1個づつスクリーンに向けて放つ技術は、量子世界の波動性と粒子性という二重性の具体的応用であり、中性子の回折干渉の応用や原子を1個づつならべる技術など、すべて量子力学が基礎理論となっている。二十一世紀になって実際に応用されはじめた、一〇億分の一メートルの世界の技術、いわゆる「ナノ技術」もまた量子力学ぬきにはありえない。
相対性理論と量子力学によって人間は原子力エルギーという現代の火を手にし、高度情報化技術を獲得した。これは本質的には、かつて人をして人間とした、火の使用と言葉を生みだした有節音の獲得に匹敵する、根本的意義を有している。
近代の合理主義は生命を物質に還元することで大きな結果を生みだした。物質への還元はまた、生物を個別の切り離されたものとして考えることを前提にしていた。しかし、その結果として遺伝子を物質的に扱い分析したとき、生物を個別の切り離されたものとする考え方とは正反対の事実が人間に示された。遺伝子の普遍性と環境を前提にした遺伝子展開の構造、である。遺伝子の普遍性は、いのちが一つにつながっていることを示している。遺伝子は単独で存在するのではない。一つのいのちを前提にして、発現する機能を変化させてきたことが判ってきた。
近代とは近代資本主義の時代に他ならず、近代合理主義を実際に具体化するのは資本主義的生産関係である。資本主義は資本の論理で動く。資本の論理とは弱肉強食の拝金主義そのものである。
近代合理主義は科学を生みだした技術を発展させたが、その結果、近代思想の枠を超える事実が発見された。相対性理論と量子力学と遺伝子学である。資本主義はこれを制御することができない。近代の枠のなかにある資本主義にはこれを制御する意思も能力もない。
資本主義は本質的に放縦であり「神の手」としての市場を仮定しなければ調和を考えることもできない。しかし「神の手」等はない。自らを規制し律することができない資本に、近代を越えた技術の制御はできない。
ここに環境問題の本質があります。
南海 なるほど。環境問題の本質は今日の技術がその本性において資本主義を越えたものであり、資本主義にはこれを制御する力がない、というところにあるのですね。大きく問題をとらえてこれをおさえる。G8のようなところで何の解決も得られないことはわかりました。
しかし、実際に環境問題を少しでも動かしていくには、闘いが必要です。資本が自らその放縦性をかえることなど有り得ないからです。また、われわれの日常から資本の論理で作られた社会意識を変えていくことも必要です。
北原
好き勝手に環境を破壊する資本から、誰が環境を保全していくのか。資本の搾取される階級、働き人の階級しかありません。近代的価値観によって低く見られ疎外され使い捨てられてきた階級、彼らこそ、失うものが何もないがゆえに、この近代に対立する技術を使いこなすことができるのです。