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それを担うもの

北原   搾取は資本主義の本質であるから、搾取をなくすには資本主義を廃棄するしかない。私はそのように考えます。資本主義が生み出した国際的な金融資本、資本をかき集めそれを投機し濡れ手で粟をつかむように儲け、そのもとで多くの人民が塗炭の苦しみを味わう、これが新自由主義の時代です。このような資本の行動はその本質にもとづくものであり、このような生産における関係は廃絶しなければ問題の解決はない。

南海   その主張は理論問題としてはその通りだと思います。しかし、現実には資本主義を廃棄しようとする運動はすべて敗れました。社会主義ロシアはすでになく、毛沢東の中国革命も見る影もありません。今も初期のこころざしが生きているのはキューバだけです。キューバは人民の生活の最低限度の保障を社会制度として実施する体制をつくってきました。共産主義に向かうということではありませんでした。

北原   資本主義を廃絶するといっても、それは実際にそれに代わる人間の関係が生み出されていかないかぎり不可能です。この点でかつて日本の運動は弱点をもっていました。キューバは政治路線としてどのような内容を掲げるかの問題とは別に、新しい人間のあり方を実際につくり出してきました。これが大切だということです。

人間と世界の金を媒介にしない関係をどのようにつくり出すのか。それは、むき出しの資本主義のもとでもはや何も失うもののないものにしてはじめて可能なことです。世界の各地域で萌芽として生まれつつある新しい関係をどのように普遍的なものとして広げていくのか。これがいま問題です。

その意味で、最近、貧困に反対する立場のなかに芽生えた立場の違いはよく考えなければなりなせん。ある人は、丸山真男に代表される既成の知のあり方を批判し、現状をかえるためなら戦争でもよい。戦争によって根底からひっくり返ればよい、ということを主張しました。一方、別の若者は、「貧乏でなにが悪いのか」ということから街のなかで自分たちの生き方を作り出そうとやっています。前者は後者を、それは貧乏を肯定することだ、と批判します。

私は後者を支持します。前者は、カネがすべてという世界観は前提にして、戦争でも起こってこれまで金を取れる立場にいいたものの権威が失墜し、カネの流れが変わればよい、と主張しているように見られます。しかし、重要なことはカネは目的ではないということを事実で示し、新しい生き方を打ち出すことなのです。それを打ち出し実践している後者の運動を支持したい。

南海   アメリカの過剰な消費体質や、金持ちになることが価値そのものという精神、自分たちが世界の中心だと考えそれを疑わない傲慢さ、そして現在のサブプライムローン破綻問題の本質がこのようなアメリカ資本主義それ自体の帰結であると考えようともしない鈍感さ。一つの帝国、一つの文明が終焉を迎えるときとはこのようにその中にいるものは気づかないまま事態がよりいっそう抜き差しならないところへ進んでいきます。

帝国アメリカのこのような生活文化は総体的なものであり、資本主義をそのまま肯定したなかで変わっていくとは考えられない。それに対して、国際的な資本の搾取に対抗する運動はまだまだ小さいものです。しかし新しい芽はいくつもある。このような芽はまず南米に生まれた。アルゼンチンでは数年前、国家財政が破綻。IMF主導の再建過程で人民は本当に生活できなくなった。そのときにいろいろな相互支援のつながりができた。南米には実に多種な試みがありそれらはいずれも資本主義的な関係ではない人間のつながりを生みだしています。

ようやく日本でもこのような新しい文化を内包した運動が生まれてきました。まだまだ各地でこのような運動が生まれ、それがつながり、そして新しい生き方として、思想化されていかなければなりません。時間が必要です。このような新しい関係が資本主義を食い破っていく。

北原   固有性を尊重した協働体、その連合、連合のための普遍性の土台、労働そのものに生きがいを見いだし、必要に応じて受けとる社会。それが育ってきました。

長い人類の歴史のなかで、階級社会から社会主義を経て共産主義へ至る転換ほど根本的なものはありません。それは新石器革命と対になった根元的な革命です。新石器革命で出現した階級が、新たな段階の革命において廃絶される。このような転換期は、すべての人間に、それぞれの条件のなかで、ものごとを根源的に考え実践することを要求します。

この転換は、これまでの生物期のように、偶然による試行錯誤のなかから淘汰され道を見出すという方法でなされたり、階級期のように生産力の発展が歴史発展の人間の意志を越えた原動力であるという方法でなされるのではありません。

人間の自覚した目的意識をもった行動によって新たな人間関係が生み出され、人間が生きる意味をふまえた協働体を土台とする世がつくられる。国家もまたそのなかで役割を終えていく。

われわれは人間の目的意識的な営みを信頼する。この目的意識性は、マルクスによって現実のものとされた。マルクスが到達した段階を引き継ぎ超えていかなければならない。人間は社会的人間として自らを形成したが、その内実は「階級社会的人間=生産関係によって組織される人間」であった。ここから出発し、そして、「階級社会的人間」をのりこえなければならない。これは言葉によって言葉を越えた人間の新しい協働の世界、資本主義の暴力を制御する智慧をもった新しい人間の関係とそれを可能にする場を生みだすことと同値である。

『論座』2008.10 終刊号で若手の思想家である白井聡さんが次のようなことを書いています。

それにしても、いまなぜコミュニズムか、思われる向きもあるだろう。筆者の考えでは理由は二つある。
ひとつには、諸々の修正資本主義的な政治的方向性がことごとく行き詰まってきていることがあげられる。… リベラル・デモクラシーは一個の特殊なイデオロギーに過ぎないことが意識されつつある。このことは、われわれを反資本主義ないし脱資本主義の原理であるコミュニズムにまで遡行することを強いる。
もう一つはコミュニズムの探求それ自体が喜びをもたらすという事実である。… この現実の底を突き破って新しい生のあり方を求めること、それ自体が喜びに満ちた行為である。
近代国家と資本に代わる信用のシステムをいかにして構造化できるのかという問い、これがもミュにズムの問いであり、今日われわれが集団として生まれ変わる可能性、生成の喜びがこの問いに賭けられている。
この通りなのです。ただこの一文はネグリ批判と柄谷批判のみで、自身の問題提起に対する白井さんの展開はほとんどなされていません。私は次のことは共通に確認されねばならないことだと考えています。

新しい歴史の始まり

客観的事実として、人間は、生物としての人から発展し、技術の進歩を土台に生産力を発展させ社会を変革し思想を深め、ついに、マルクス主義を獲得したことによって、世界に対する目的意識性と能動性を最終的に生みだした。人類ははじめて、「客観的歴史」の法則と目的意識的活動を統一した人生を生きることが可能になった。人類史の新しい段階、それを共産主義と言うならば、共産主義を生みだす可能性が準備された。

現代の共産主義思想とその実践、歴史に対する目的意識性、これは近代資本主義のなかからそれを乗りこえるものとして生まれた。『今までの哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけであった。だがそうではなくて、もっとも大切なことは世界を変革することである』(マルクス『フォイエルバッハについてのテーゼ』1845年)。このマルクスの言葉が今ほど輝いている時は、実は他にない。

この可能性は20世紀にロシア革命、中国革命として現実性に転化した。しかし、その試みは少なくともいったんは挫折した。しかしその試みが終わったのではない。新自由主義という新しい段階の資本主義は、世界を一つの市場としてつなぎ、搾取の場とする。この場は同時に搾取される階級の場である。この場において新たな歴史をつくる人びとが形成される。

人間は言葉によって協働して生きてきた。階級を根拠とする言葉による繋がりを準備しなければならない。歴史が求めていることは可能なことである。新しい歴史は必然です。

第一
、西洋近代資本主義、とりわけその土台である産業革命は、根本的にギリシア後期のプラトン以来の考え方を最後まで進めることで達成され、その世界への拡大が近代であった。しかし今やそれは地球という有限な世界のなかで限界に至っている。資本の増大を第一にする拡大の運動は、地球の破滅要因となり、これを制御するとことはできていない。
第二
、人間と世界の存在の意味は何か。資本のためなのか。そんなことはあり得ない。この世界から「さち」を受けとる労働の喜びこそ、意味の有無を超えた輝きである。西洋の「学」はギリシア時代に労働を奴隷に任せた貴族の「知」として成立した。生きる現実からのからの遊離は、キリストの神の前の真理として「真理」それ自身を自己目的化することによって正当化された。この「労働」と「知」の分裂は形を変えて生き続けている。分裂した知は働く喜びを知らない。
第三
、働きの場こそ固有の言葉の生まれるところであり、ことわりの世界そのものであり、働くものが固有性に立脚してたがいに分かりあえる土台である。固有性を深く耕し新しい段階の普遍性をめざす。固有性が解放された人間の生き生きとした普遍性は可能である。固有性が互いを認めあって共存するところ(場)としての普遍性は可能である。
第四
、可能性は人間の目的意識的実践によって現実に転化する。それを担うのは新たな「階級」である。世界を覆う新自由主義は新たに階級を形成する。存在としての階級を組織された階級に高める。またそうしなければ虐げられた階級は生きることができない。量的蓄積が質的転化をもたらすことはまちがいない。
第五
、しかしその具体的な方法はまだ明かでない。可能性を現実性に転化するための実践的方途は、開かれた問題のままであり、膨大な努力の蓄積と、現実のちからが不可欠である。前途は明るい。しかし道はまだ見出されていない。
以上です。

南海   一人一人がまず生活と仕事の場でまじめに生きることです。その上でなしうることを積みあげていかねばなりません。

近代において、文化と科学は華々しく展開しました。しかしその一方で、政治と社会の退廃と破産はとどまることを知りません。いったい何のための文化なのか、何のための科学なのか、政治とは何のためにあるのか。政治や社会がこのように荒廃する文化や科学とは何なのか。

北原   経済は目的ではない。あくまで手段である。何のための手段なのか。人間が一定の生活水準で生きるための手段です。生きてそれがどうなのか、それはここではいえません。一人一人がそれを考えることを保障する土台が経済です。その準備が重要なのです。

経済のために人間性を荒廃させるのは本末転倒なのです。資本はその本性から金儲けをたとえ人間を破壊しても追求します。手段が目的になっています。これを止めねばなりません。

日本の問題についていえば、最後は天皇制の問題に行きつくように思います。日本の支配層はぎりぎりまでゆきづまったとき、天皇制の擁護者として振る舞うことで、支配を維持しようとします。

南海   小泉元首相がそうでした。彼は日本の郵便局などに蓄えられた金融資産を帝国アメリカに売り渡そうとした売国奴です。その彼が靖国神社に公式参拝することで、売国奴としての本質を覆い隠そうとした。日本右翼や民族主義者はこれにすっかりだまされて、国民の資産が国際的な金融資本の手に落ちることを見過ごした。何が民族主義だということです。

北原   おそらく青空学園日本語科の立場こそが、最も日本列島弧の固有性に立脚しよういうことを明確に主張している。これは日本語科が失うもののない階級の立場に立とうとしていることとつながります。失うもののないものこそ最も問題を根源的に考えることができます。

私は多くの失敗をしてきました。その教訓から私は、世の変革の思想は次の内容をもたねば無力であると考えています。

第一、
言葉の固有性に基礎づけられた人民文化の固有性を失わない。言葉と人民の里、その神を失わない。固有の言葉に内在することわりと向きあい、それををとりあげて磨き、言葉に根ざした論理を育てること。
第二、
固有性の内部に、否定とそこからの創造の契機を育てること。「なる」のは放っておいてなるのではない。耕さねば成らないのである。耕すとは、否定に裏づけられた、再生の営みである。
第三、
最後の分岐点は天皇問題である。保守派は里のことわりの体現者(みこともち)という虚構のもとに天皇を担ぐ。実は、里のことわりを簒奪したのが天皇制だ。これに、近代市民主義で立ち向かっても無力だ。天皇制に奪われた里のことわりを人民の手に!

南海   これはよくわかります。近代市民主義とは、いわゆる戦後民主主義ですね。戦後民主主義は軍国主義時代の天皇制への批判から、愛国主義のみならず「愛里主義」までも否定した。その結果、古里への愛着をもつ人民を草の根保守の側に追いやった。80年代、90年代に盛んであった草の根保守主義は、実は戦後民主主義の根なし草の市民主義が、それへの反発として生み出したものだったのです。

青空学園日本語科が準備しようとしてきたことは、天皇制に絡め取られることことのない、里のことわりに根ざした変革の思想をうち立てようということですね。

北原   固有性に根ざした抵抗と生活の場を生み出すための基礎作業です。はじめたばかりです。われわれは自らの生きてきた時代の経験から、なしうることをします。そのうえで、新しい世代が新しい時代をつくっていくことを願っています。


AozoraGakuen
2017-02-10