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野を拓き田を耕す

北原   日本語科で『構造日本語定義集』をはじめたのも、このよう信念によるものでした。思いばかりが先走って、力が余りにも不足し、内容はまったく乏しいものです。素人談義を超えてはいません。しかしとにかく、考える土台としての言葉を掘りさげることは前提であるということ、この思いは強いものがありました。

一つは、日本語を「固有の言葉」としてとらえ、その日本語のなかの基本的な言葉である「構造日本語」をもう一度対象化して読みなおすということです。そうすることで、近代日本語が置き去りにした日本語のことわりを自覚し、自己の経験と照らしあわせて、定義しなおしたいと考えました。再定義は日本語の歴史のなかのまさに今の営みです。

結論としていえば、「近代日本語が置き去りにした日本語のことわり」はそれ自体として取りだすものではなく、語る内容をもって語るときにその語りの質としてそのときの言葉のなかに息づいていくものなのです。やってみたこと自体は貴重な経験でしたが、それ自体を取りだそうとする方向の探求で何かが得られるということはありません。

さらにまた、人間がわかりあえるためには固有の言葉を耕さなければならない、という問題意識もまた、それ自体問い直さなければならないと考えています。固有性を徹底することは本当に人間としての普遍性に至る道なのか。言葉が耕されることは結果であって、言葉のなかで問題が解決することはあり得ないのではないか。

南海   言葉が意識されて語られないかぎり経験が次代に伝わらない、ということはその通りだと思います。言葉を言葉として問題にするのは、言語学者の立場であって、われわれは言葉が生きているのかどうかが問題です。「生きている」の意味は多様であり、それを直感的に言っているのですが、いいかえれば言葉が人間の言葉としての働きをしているのか、といえると思います。

いくら今の言葉がだめだと言っても無意味で、一から考えるその営みそのもののなかで、実際に言葉を生かしていくしかないと思います。一方また、言葉への問題意識を欠いた思索は確かに底の浅いものになることはわかります。そのことは確かです。

北原   「言葉への意識をしっかりともって人間として考える」場、これが青空学園だと考えています。大学という場を離れ異なるところで生きてきたけれども、やはり人間は何かを考えるし、人間としての根っこのところで、世の中で人間が生きてゆく思想とそれと一体の生きた学問ということを考えたい、そのように思いました。技術の発展は、電脳空間で個人がそのような場をきり拓くことを可能にしていました。

南海   私もそれには賛成でした。数学もまた草の根の場で少しでも広げたいと思いました。数学読み物はたくさんあります。また、受験技術の参考書もたくさんあります。しかし、学問としての数学が、大学を離れた場でどれだけ根づいているかと考えれば、それは大変貧しいものです。数学の影ではない、たとえ初歩的でも数学そのものを、数学を職業とはしないものの間に広げたいと思いました。

北原   ここでよく考えなければならないことがあります。この青空学園の初心やはじめの頃の言葉は近代啓蒙主義そのものであり、西欧近代の大学の理念そのものです。その裏付けになっているのが近代的人間を土台とする考え方です。近代日本の大学への批判ではあっても、批判の根拠が西欧啓蒙主義にあるのではないか。

近代啓蒙主義は確かに近代日本では上辺だけで実際には現実のものでなかった。そのために私のように、言語学に引かれながら数学に進むというようなこともありました。現実を観念で超えることはできない。青空学園の初心の内容は私たちに必要でした。

ですが、今は再び近代的人間を問うときです。ですから、青空学園において青空学園の理念そのものも問うという立場から対話をすすめたいのです。青空学園の初心の文章は、それをふまえつつ、新しい段階に至れば書きなおすべきものです。

南海   このように、ある考え方を立ててはまたその根拠を問い、また考えを立てそして問う。このくりかえし、永続運動、これが生きる場を拓き耕すということです。深く根をはるためには、よく拓きよく耕さなければなりません。

北原   現代の〈根こぎ〉は湯浅さんがいうように、「教育課程」「企業福祉」「家族福祉」「公的福祉」「自分自身」の排除として現れる。根底にあるのはやはり資本の論理、金儲け第一主義である。〈根こぎ〉の結果、世の中の留めがすり減った。お金の“溜め”、親や親戚など人間関係の“溜め”、自分に自信がある精神的な“溜め”がすり減ってしまった。全体としてそういうものが失われるのが貧困である、と彼はいう。

資本の論理は弱肉強食の金儲けです。資本主義はこの世界に対してそれを金儲けの手段とします。金持ちになることがその人間の価値を決める社会、それが資本主義です。資本主義は人間を排除し溜をすり減らす。この世を本当に荒れ地にしてしまいました。ふたたび人間はこの荒れ地を拓き耕さなければなりません。

本来人間にとって経済はこの世界で生きてゆくための手段であり、金儲けは目的ではありません。資本主義に対して、「真に平等で万人が人間としての本質を実現していくことのできる新しい社会」に向かって一歩前へ進んだのが、ロシア十月社会主義革命でした。全世界の搾取されているプロレタリアート、抑圧されている民族の未来を確実にきりひらきました。社会主義は経済法則を目的意識的に活用しつつ、人間の本質としての労働自体が人間としての生きがいである世の中を生み出していこうとするものでした。

この社会主義は一定の時期、現実に存在した。

南海   そうです。資本主義の勝手気ままな搾取に対して、かつては社会主義がその対抗陣営として存在しました。

北原   その時代は資本主義の側も無茶はできなかった。それがケインズ主義です。修正資本主義です。あるいは福祉社会であり、大きな政府による最低生活の保障であり、教育の機会均等でありました。労働者の団結権を保障し、労働組合を社会の重要な機能として位置づけたのもこの修正資本主義です。

だが20世紀後半に至り、ロシア革命や中国革命は崩壊したのです。資本主義はしぶとかったのです。資本主義の思想と闘うのに、レーニンの残した資産だけでは、不十分でした。

考えてみればそれは当然です。レーニンがすべてを準備することなどできないのです。社会主義政権の内部からの腐敗や解体と闘うことは、レーニンの時代の課題ではなかった。したがって、歴史の課題という観点からみれば、たとえレーニンの方法が不十分であったとしても、原則を失わずにレーニンを継承し乗りこえることは可能であったし、またなさねばならぬことであった。だがそれはなされず、結果として、いわゆる社会主義陣営は崩壊したのです。

国家としてはただキューバのみが残りました。2008年、世界中で医療費と教育費が無料であるのはキューバだけです。医療制度が崩壊し適切で必要な医療を受けるためには金がなければならず、貧しければ医療からも排除されるアメリカや中国と比べて、キューバの社会主義がいかに優れているか、ということです。キューバが中南米の反帝国主義政権と提携し新しい歴史を作っていくことはまちがいありません。

南海   社会主義陣営が崩壊し、一気にむき出しの資本主義が再登場したのですね。それが新自由主義であり、日本でいいえば中曽根内閣の戦後政治の総決算と小泉政権を規制緩和だったのです。しかしながらこれによって、資本主義の根本的な矛盾もまたあからさまになった。

北原   それが2008年夏の現在です。いまアメリカ帝国主義はいよいよ凋落の過程を歩んでいます。これはまちがいのないところです。アメリカに従属する日本資本主義もまた必ず凋落します。これにつながる右派民族主義もまた歴史の遺物になってゆく。

南海   つくづくと思うのですが、人間は一定の環境のもとに生まれます。そのもとで精一杯生きることが人間である。それは確かです。が、現代世界はかくも悲惨で毎日毎日人びとは飢え、多くの命が失われる一方で、世界の富はごく少数の人間の内にあり、それを独占することがおおやけに認められ、「そのもとで精一杯に生きる」と考えても、やはり、この現実をそのままに、個人が努力するという方向はもはや限界に来ているのではないかと思います。

そのように考えないと、そもそも世界は何のためにあるのか、わからなくなるときがあります。

北原   現実の悲惨は人間に世界を考えさせるためなのか。日本の平安時代末期は気候の不安定な時代で、旱魃、飢饉が続き、貴族制から封建制への革命動乱と政治の混乱、その下で社会の再編と、まさに激動の時代でした。これを背景に鎌倉新仏教が生まれた。しかしもとよりだから平安末の悲惨を肯定することもできません。

今日の悲惨を正面から見つめ、そのもとで人間の生きる根拠を考えまたそのように生きる。このことしかありません。

いま世界では、新自由主義の過酷な搾取に対して、新しい闘いが始まりつつあります。それはこの世界のなかに、それと対抗しそれを廃棄していくような新しい根拠地ともいうべきものです。生きるための新しい人間の関係が生まれつつあります。

南海   日本を見ていてもそれを感じます。「生きさせろ」という叫びから新しい生き様が生まれつつあります。

北原   それはまだまったく萌芽でしかなく、この先資本主義に取り込まれていくのか、あるいはさらに深く横にも広がっていくのか、わかりません。しかし時代が厳しくなればなるほど、これに対抗せざるを得ない人間の結びつきも深まります。

南海   地球は神が作ったものではありません。そのようなキリスト教の世界観は地球を手段にします。地球は地球であり、いのちの輝く場です。また、この世界の他に天国も地獄もありません。原意存在するものとその意味、これがすべてです。私はそのように考えてきました。

社会主義は、キリスト教やイスラム教のような一神教とは決定的に違います。別の世界を仮定しません。この世界のなかで生きて死ぬ、死ねば土に還る。土とはこの世の存在です。

資本主義は方法です。経済もまた方法です。何の方法か。人間が人間として生きるための方法です。人間が人間として生きる、この内容を新自由主義に打ちかつまでに高め、それに基づいた人間関係を築いてゆく。このことが進まなければ問題は何も進みません。

資本主義によって荒れ地にかえったこの世をふたたび拓き、豊かに実のなる田に耕していかねばなりません。


AozoraGakuen
2017-02-10