この危機は一過性のものではあり得ません。有限な地球のうえで生産の拡大を続けるかぎり、このような恐慌状態はむしろ常態化すると考えるべきです。
この経済危機は大きな時代の転換点であると思われます。しかしこの恐慌の内容とそれが画する時代の転換の本質について深められた議論がなされているとは言えません。経済恐慌は一見すると資本主義の弱体化のように見えますが、それ自身は資本主義の枠内の運動であり、恐慌それ自体で資本主義が終焉したりはしません。恐慌はそれまでのやり方のままではそれ以上量的に拡大しえないところで起こります。これまでの恐慌がたどった一つの道筋は、恐慌過程を経て現実には資本の再編成が起こり、独占的な市場支配がいっそう強まり、対外的には戦争、国内的には搾取と収奪がさらに進むというものです。
南海 青空学園では2006年の時点で『兆民の遺言』のなかの「混迷と再生」−「混濁の世」で次のように近代をとらえました。
「近代」とは、資本主義経済とその上にのった世の中を作っていこうとする過渡的な時代である。この時代は、夢や希望によって人々を動かし、引っぱって行く時代であった。この夢は、封建的な身分や生まれ、社会階層で人生を拘束することから人々を解放し、自由な個人を生みだすという、人権、自由、平等の普遍的な理念を内実としているがゆえに、必然性をもって全世界的な流れとなった。近代はこの面において避けがたく、また意義あるものである。
近代化は国民国家の確立という段階を踏み、それによって加速される。近代化はそれを開始したときの世界がどのような時代であるかによって、それぞれに異なる様相を見せる。明治維新による国民国家の確立にはじまり、バブル経済の崩壊(90年代初頭の)による近代化過程の終焉に至る過程も、多くの近代化の一つの過程である。
身分制から解放され、努力すれば誰もが出世できる。大学を出ていい会社に就職して、よく働き、仕事を通して社会に貢献する。これが近代日本国の一般的な人々が目指す生き方であった。大学制度もまたこのような構造のなかに組み入れられて機能してきた。
しかし、このような近代化は当然にも限界に到達する。資源は有限であり、環境もまた限界がある。日本国のいわゆるバブルの崩壊もこの限界の存在が引き起こした。中国はまだ限界にまでは来ていない。しかしいずれ何らかの限界に来ることもまたまちがいない。限界に来る形には個別性がある。しかし、資本主義的近代化がいずれ壁にであうことは必然である。
これまでの近代化の歴史では、一つの社会が限界に達したとき、他国を侵略し経済世界を拡大して当面の限界を取り払うという方法がとられてきた。二十一世紀初頭のアメリカは未だにこの立場にたち、イラクを侵略した。イラクの石油をはじめとする世界の資源支配力を高め、巨大な経常赤字に信認が揺らぐドルの現状に対し、軍事力によって石油・ドル本位制を補強し、アメリカ経済の限界をさらに超えようとした。
戦争はつねにこのように経済的理由を根拠に始まる。侵略されたアラブ世界には、アメリカの侵略と戦うだけの思想と方法がまだ生まれていない。しかし人間は、人間の尊厳を奪う侵略者に対しては、そのときにある思想で戦う。今それはイスラム教である。イラク戦争によって新たな世界大戦が開始された。世界戦争によって必ずいくつかの帝国が衰退してきた。アメリカは今日唯一の帝国である。アメリカ帝国主義の古典的な帝国政策は必ずアメリカ帝国主義自身の凋落をもたらす。アメリカ帝国主義は2006年の秋の現在、イラク、アフガニスタンで泥沼に陥っている。これはすべて、地球という有限世界における資本主義の限界の具体的現象である。
限界にまで達した近代化の果てに、一人一人がどのように生きていくのか、それはまだ見いだされていない。あるいはこれを考える土台がない。この意味で、まさに今は混濁の世である。日々の生活におわれるなかで、ふと立ち止まり、我が来し方を省み行く末を考えるとき、人は何か胸をかきむしられるような気持ちに襲われるのではないだろうか。高度経済成長を終え一定の物質的達成を実現したとき、実はそれは人間にとってそれほど大切なことではなかったのだということに気づき、しかしではどうすればよいのかわからない、これが今、日本のそして世界の人間がおかれているところなのだ。問題はこのように日本社会だけの問題ではない。この意味で普遍的に開かれている。
北原 1930年代の恐慌は第二次世界大戦を引きおこし、その結果、世界市場の再編成によるアメリカの寡占支配と、それに対する社会主義陣営という構図に至りました。今日では、かつてのように戦争による再編成と市場の拡大という方向が可能かといえばそれは難しい。実は戦争による市場の拡大を先取りし、自ら戦争を起こし儲けるというのがブッシュ前アメリカ大統領の政治路線であったわけです。それが破綻し帝国アメリカの弱体化がすすんだ以上、戦争による再編成は難しい。オバマ政権ではそれに代わるものとして環境関連の新しい市場が意図されています。が、これがどのように進んでいくのか、まだわかりません。
しかし以下のことはいえます。近代資本主義は、それが現実のものとなって以来、生産力と市場の量的な拡大によって内部の質的な問題を乗りこえてきました。生産力の拡大や生産性の向上は個別の単位がそれぞれ独自に追求する。それが市場をとおして調整されることによって全体として発展する。自由主義経済そのものです。結局は規模の拡大による問題の解決、これが資本主義の基本戦略でした。近代経済学の自由主義派はこの思想と戦略に理論の形を与えたものでした。
しかしこのような方法は経済活動の場が地球という有限の場であることを想定していません。たとえ想定しても資本主義は拡大する以外にどうすることもできません。ところが今日、事実として生産と市場の拡大はもはや限界に達しているのです。大きくいえば、人類は新石器革命以来、生産力の発展を原動力とし、それに対応しうる生産関係を生みだすことで新たな時代を切りひらき、歩んできました。しかし、生産力の拡大は限界に来ています。
生産力と生産関係をともに制御しうる新たな智慧が求められています。拡大することなくまわる世のあり方が求められています。それには、能動性と目的意識性を支えるまったく新しい価値観がなければ不可能です。その智慧によって有限の場に人間の至高の意味を顕し、そのもとで世の再編を実現していく。
このように考えている人々は確実に増えている。過渡的に中国やアメリカによる資本主義の再編がはさまったとしても問題は何も変わりません。問題の把握がいかに大きすぎるとしても、「量の拡大でない道を。それを可能にする智慧を」ということは、まさにこれ以外にはありえないことです。これ以外にないことがわかっているときに、その場しのぎの議論に時間を費やすことはできません。われわれの対話も次の段階に進まなければなりません。
南海 最後はわれわれの生き方そのものです。現在を踏まえて、考えうることは考えておきたいです。
北原 われわれも還暦をすでに超えて数年、この先どこまで考える時間があるのかはわかりません。生かされてあるあいだ、考え続け、対話し続け、なし得ることをし、それを記し続ける。そしてその営みのうちに人生を閉じることができればそれでいいのです。
南海 2008年秋以降、われわれの考え方は一般的になりつつあります。社会学者の見田宗介氏が、昨年起こったアメリカ発のバブル経済の崩壊という事件を受けて、その意義を社会学の立場から深めています。
最近発行された2009年4月30日付けの「朝日ジャーナル」と銘打った週刊朝日緊急増刊のなかで『現代社会はどこに向かうか−世界の有限という真実<持続する現在>の生へ』と題した一文の最後の節「世界の無限。世界の有限」で言っています。
「近代」という高度成長期の人間にとって自然は、「無限」の環境容量として現象し、開発と発展のための「征服」の対象であった。「近代」の高度成長の成功の後の局面の人間にとって自然は、「有限」の環境容量として立ち現れ、安定した生存の持続のための「共生」の対象である。
かつて交易と都市と貨幣のシステムという、「近代」に至る文明の始動期に、この新しい社会のシステムは、人びとの生と思考を、共同体という閉域から解き放ち、世界の「無限性」という真実の前に立たせた。カール・ヤスパースが「軸の時代」と名づけたこの文明の始動期の巨大な思想たち、古代ギリシャの哲学とヘブライズムと仏教と中国の諸子百家とは、世界の「無限」という真実への新鮮な畏怖と苦悩と驚きに貫かれながら、新しい時代の思想とシステムを構築してきた。この交易と都市と貨幣のシステムの普遍化である「近代」はその高度成長の極限の形態である〈情報による消費の無限創出〉と世界の一体化自体を通して、球表の新しい閉域性を、人間の生きる世界の有限性を再び露呈してしまう。
かつて「文明」の始動の時に世界の「無限」という真実に戦慄した人間は今、この歴史の高度成長の成就の時に、もういちど世界の「有限」という真実の前に戦慄する。
宇宙は無限かもしれないけれども、人間が生きることのできる空間も時間も有限である。「軸の時代」の大胆な思考の冒険者たちが、世界の「無限」という真実にたじろぐことなく立ち向かって次の局面の思想とシステムを構築していったことと同じに、今人間はもういちど世界の「有限」という真実にたじろぐことなく立ち向かい、新しい局面を生きる思想とシステムを構築してゆかねばならない。
「近代」の思考の慣性のうちにある人間にとってこの「歴史の終息」は、否定的なもの、魅力に乏しい未来であるように感覚される。けれども幾千年かの間、人間が希求し願望した究極の世界のビジョン、「天国」や 「極楽」のイメージは、歴史のない世界、永劫に回帰する時間を享受する世界である。天国の歴史はあるが、天国に歴史はない。「天国」や「極楽」という幻想が実現するということはない。「天国」や「極楽」という幻想に仮託して人々の無意識が希求してきた、〈持続する現在〉の生の輝きを享受するという世界が実現する。
けれどもこのことは、質実ではあっても健康な生の条件を万人に保障する科学技術の展開と、他者たちや多種の生命だちとの自由な交響を解き放つ社会の思想とシステムの構築と、なによりも〈存在すること〉の奇跡と輝きを感受する力の解放という、幾層もの困難な現実的な課題の克服をわれわれに要請している。この新しい戦慄と畏怖と苦悩と歓喜に充ちた困難な過渡期の転回を共に生きる経験が「現代」である。
北原 まったくその通りです。見田さんは慣れた手つきで修辞の多い文章を書いています。かんどころは近代資本主義の量的拡大は限界に来ている。拡大ではなく、そのまま存在すること自体を受けとめ、存在に輝きを見出し、互いの存在自体を認めあえる智慧が必要なのだ、ということです。
近代社会はつまり資本主義経済下の社会ですが、この社会はすべて経済の量的な拡大によって再生産されるように制度化されています。量の拡大なしにこの社会が人間の生きる場として再生産されうるのか、これはまったく開かれた未解決の問題です。
南海 そのためには智慧が必要だと先ほどはいいましたが、結局は新しい世のあり方を担う人間が生まれなければありえません。今、世界のそれぞれの地で人間としての生存のために、あるいは尊厳のために、多くの闘いがあります。そこに生まれる人と人のつながり、組織のあり方などはすべて、この開かれた問題への試行錯誤です。
北原 問題を大きな枠組でまとめておきます。