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人間の溶解

南海   同書第4章「言語と法,人間の領域」では近代的人間が崩れゆくことについて、重要な指摘がなされています。
守中高明 
たとえば今日、人間の領域とは何か。これは、これだけで一つのきわめて大きな問題を構成します。かつて疎外論の文脈で語られたような、復権されるべき人間とはおそらく異なる意味で、しかしやはり今日、人間の領域はますます不確かなものとなりつつある。それはさまざまな場面で侵害され、傷つけられており、したがって守るべきものとしてあるように思います。

人間の領域とは何を言うのでしょうか。

生存権や労働権という最低限の人間の権利を互いに守りあう世が崩れ、人の尊厳を資本がないがしろにする。これは互いに守りあうものだ。また、学校でも互いに気を遣いあい傷つけあい、教室にも入れなくなって教育の権利を奪われる。このように人間が人間として生存する基本形式を互いに守りあうことさえ失われつつある。人と人の関係が断ち切られ、思いを聞いてくれる者もいない。

このようなことをいうのでしょうか。いろいろ考えさせられます。

北原   われわれは最初「本来の日本語」を求めて探求をはじめました。それは疎外論が論の根拠とした「本来の人間」と併行する考え方です。やってみてわかったことは、「本来の日本語」があるのではなく、現在する言葉が日本語のすべてであるということです。そこでわれわれは、現在する日本語を言葉として成立させている基本的な言葉、それを構造に日本語といったのですが、その相互の関係を言挙げる方向でやってきました。これは疎外論から物象化論への展開と併行かも知れません。

ですから守中さんの言われる「したがって守るべきものとしてある人間領域」は、われわれの関心事で言えば、「現代日本語を構造日本語から再定義する営為」を含むものでなければならないと確信しています。

そこで、われわれは定義集で人間をとのように定義したのか。用例を除いて再掲します。


【人間(にんげん)】「人」を「言葉をもって協同して労働する生命体」としてとらえかえすとき「人間」という。人の人であるゆえんを「人」に付け加えた言葉。人が自らを人として自覚するのは社会のなかにおける自己という認識を土台にする.さらにこれが近代にいたって資本主義の成立とともに言葉をもって労働する生命として人をとらえかえすようになる.この意味で「人間」は近代に発見され,この意味での「人間」は近代日本語ではじめて用いられるようになった。

▼もともと「人間」は「人の住む世界」「人間界」を意味し、「じんかん」と読まれることが多かった。

◆この言葉が近代になって、「人」を概念としてとらえるときに用いられるようになった。

近代は「人」を「言葉をもって協同して労働する生命体」として再発見した。これは、近代資本主義が勃興する時代に始まり、近代ブルジョア革命と資本主義生産制度のもとの産業革命によって社会が根本から変化して全面的に用いられるようになる。日本語でいえば、江戸期に今日に通じる「人間」の用法が始まり、「明治維新」と「殖産興業」による近代工業の成立以降になって一般化する。

明治維新は日本に資本主義を全面化させ、産業革命を準備した。産業革命の求める大規模な生産を可能にしたのは「自由」な(封建制度から自由になったが、しかし同時に搾取されることにおいても自由な)労働者である。明治資本主義の本源的な資本蓄積は農村の収奪によってなされた。その結果、農業で生活できず都市に多くの労働者が流出した。こうして労働のみが生きる術である労働者が生み出された。「自由な」労働者の出現である。

労働によって何が維持されるのか。それは生命と人間相互の関係である。労働は個人の労働ではない。すべて協同労働である。協同を可能にしているものは何か。それは言語である。これが「人というもの」である。このように再発見された「人というもの」が「人間」である。

もっとも早く「人間」を発見したのはもっとも早く資本主義段階に到達した西欧近代である。フランス革命に向かう時代にキュビエによって〈生命〉の概念が確立する。資本主義の展開は西欧人をこれまでとは違う言語に直面させ、言語の比較分析は、言葉の内部構造の探求へと向かい、〈言語〉の概念が確立する。スミス、リカードによって〈生産〉の概念とそれ担う〈労働〉の概念が確立する。学としてそれらは、生物学、言語学、経済学を確立する。

「人」を「労働し言語をもつ生命」として再発見するのが近代である。このようにして再発見された「人」を「人間」という。これは近代資本主義が定義する人間である。資本主義は人間を「人的資源」として把握する。「生命の尊重」という建前も、労働力は生きていてはじめて価値を生み出すからである。資本主義のいう生命の尊重は労働力としての尊重に他ならずそれ以上ではない。労働力としての力を失ったもに対してその生命を尊重することはない。

人の価値は生産活動につながるかどうかで定まるものではない。生産活動は人間にとって目的ではなく手段である。では人間の目的は何か。それは新たな人間性であり、資本主義的近代の人間を超えることである。二十一世紀初頭、未だそれは見出されていない。その探求こそ、現代の人間の目的である。


北原   この定義は人間を構造日本語で定義したといえるか。「人」を用いてその近代における再発見として定義している。ですからここでは「人」の定義が必要です。同様に用例をのぞいて掲載します。


【ひと(人)】[hito]←[fito]

■「ひと[hito]」の「ひ[fi]」は「ひ(霊)[fi]」の[fi]とおなじく生命力そのものを示し、「と[to]」は「と(処)」、つまり「そと(外)[soto]」の[to]と同じく場所を意味する。「生命力のとどまるところ」としての「人」が、日本語が人間をつかんだ原初の形である。

協同労働と言葉を獲得することによって、考えることが可能になった霊長類を人という。近代にいたり,労働し言語をもつ生命として人が「人間」として再発見された。

※古代万葉仮名では「ひ(日)」の[i]と「ひ(火)」の[i]は甲乙違い別の音であった。『大和言葉を忘れた日本人』(長戸宏、明石書店、2002年刊)では「大和言葉『ひと』は『火の使用』と関係します。つまり、『ひと』は『ひ』を『と(=つなぐもの)』という意味になるでしょう」と述べている。しかし、これは、万葉仮名の時代にあった区別がそれよりも古い弥生期やあるいは縄文期には無かったということを実証しない限り、単なる思いつきになってしまう。この書はいろいろと示唆に富むものであるが、この点は是非再検討してほしい。

▼動物に対するものとしての人。(用例略)

▼一人前の人格をもつものとしての「ひと」。 ▽具体的な人を表す場合。 ▽抽象的に人というもの一般を表す場合。 ▽人間の品格。人柄。人品など人としての内容そのものを意味する。

▼人を一般的に示す。漠然と示す


北原   これで日本語の内部で人間を定義したといえます。

前にも言いましたがこの「人間」定義は「近代の人間」の定義であり、近代の「人間の定義」です。近代資本主義は人間の生命を資本主義的な価値を生み出すものとして見出しました。人間を生産資源として見出したのです。同時に、人はこのとき、自らを自由で尊厳ある人間として見出したのです。近代の二重性に対応して、人間の定義にもまた二重性があるのです。

ですからこれを定義集の定義としたのです。近代の人間の定義を一足飛びに観念だけで超えることはできないからです。現実に新しい人間はまだ生まれていないのです。「人間として」ということは、近代資本主義の人間を乗り越えていく歴史の運動としての「人間」であり、定義集はまず近代の人間からはじめなければならないと考えました。

何か本来の人間があって、それが資本主義によって疎外されているという考え方はできません。われわれもかつて、「本来の日本語」があって、その内容をつかめば現在の日本語を再建する景気となるという考え方でいました。しかしそれは違いました。「本来の日本語」が虚構であったように「本来の人間」も虚構です。

そのような形ではなく、しかし、新しい人間は必ず形をとります。今はそれを待ち望んでいるところです。

南海   前の対話で私は次のように言いました。「新自由主義はまだまだ根強く続きます。これを超える人間が世界大に生まれてこなければなりません。人間としての原理を問い直し、地に足のついた言葉でこれを語り、新しい人間の血肉とならなければ、次の段階はありえません。」

そして昨年の恐慌です。これで新自由主義が自ら退くかといえばまったくそんなことはありません。ますます搾取・収奪を強めざるをえません。われわれはこの闘いのなかで生まれた新しい事物の意味を深くとらえ、広げ、共有し、それを積みあげることが必要です。

北原   同書にある次のような言葉には励まされます。このような言葉に、人間は今同じ問題に向きあっているのだということを思います。

制度化された近代のほころび 竹村和子  「人間」は、人間中心主義的な思想のなかで、とくに近代的な枠組みのなかで、定義されてきました。近代法が成立し、近代の民生主義が広まり資本主義が稼働していくのと歩を一にして、人間の概念が重要になった。いわば近代の知(言語)の枠組みが、近代特有の「人間なるもの」を作ったのです。そこでは、「人間」の概念が通時的にも共時的にも普遍化されましたが、特定の時代の必然が生み出したきわめて歴史的な産物にすぎないことを確認する必要があるでしょう。
生存が脅かされる時代に  わたしは、この次にすばらしい世界が来るとは思えません。言語的存在である人間に、予定調和は訪れないからです。
近代になるときに、神が死んで「人間」が誕生し、人間や人間社会を解析する学問領域、そして人間の理性に基づいた自然科学などの学問領域が、新たに展開していきました。そういった啓蒙主義的過程で、社会学や精神分析や文学研究が誕生したのです。いわば近代になって、知の地殻変動が起きたわけですが、現代は、同じくらいの大規模なパラダイム変換をしつつあると思います。だから、思いがけない新しい学問分野、もしくは学問かどうかもわかりませんが、そういうところから新しい知が生まれてくるのではないか。現在の人文学では解読できない別種の人間たちから或る別種の社会が生まれていく、その変化の黎明期にわたしたちはいるように思います。あまりにも気宇壮大かもしれませんが。

南海   われわれははじめからこのようなことばかりを考えてきたのかも知れません。なしえたことは、消去法でこれではだめだということばかりです。こうだということを打ち出すところまでいっていません。現実にまだ新しい人間は生まれていない。あるいはわれわれはまだ知らない。そうであるなら、まず消去法は必要なことではありました。

現実が先行しなければなりません。そうでないところで「こうだ」と打ち出されることは、多くの場合一時のものでしかありません。それにしても今はまだまだ深い恐慌世界のほんの入り口にいるだけです。混沌とした時代に向かっていることはまちがいありません。

北原   人間として生きるために働かせろという叫びは、人間と世界の存在の意味が、この世から生きる糧を受けとる労働の喜びにこそあることを教えています。

産業革命を生みだし今日の資本主義に至った西洋の「学」は、ギリシア時代に労働を奴隷に任せた貴族の「知」として成立した。生きる現実からのからの遊離は、キリストの神の前の真理として「真理」それ自身を自己目的化することによって正当化された。この「労働」と「知」の分裂は形を変えて生き続けている。

働きの場こそ固有の言葉の生まれるところであり、ことわりの世界そのものであり、働くものが固有性に立脚してたがいに分かりあえる土台である。「新しい知」は闘うことによって奪いかえされた働きの場に生まれる可能性をもつ。われわれはそのような新しい知の兆し、新しい人間の現れに深い注意を払いながらやっていきたい。


AozoraGakuen
2017-02-10