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御言は民の事

北原   今日は歴史の大きな転換点です。しかし、これを正確に言うと、それは歴史が転換を求めている段階、転換の可能性の現実的土台があるという段階であって、その土台のうえに転換を実現する主体はまだ形成されていない。現在は、その転換を現実のものとする主体を準備する段階である、ということです。

転換にはそれを担う主体がなければあり得ません。主体が生まれていくためには、それぞれの集団の歴史からくる個別性に即した問題の解決が必要です。それが根のある変革思想ということです。日本においては天皇制の問題をどのように受けとめるかということが、現実の課題です。天皇問題は今日においても開かれたままです。

この問題に関する基本的な視点を議論したいと思います。天皇は古くは「すめらみこともち」ともいわれました。この言葉の意味を戦後、折口信夫は次のようにいっています。

『女帝考』(昭和二十一年十月『思索』第三號)
みことみこと執(も)ち。即すめらみことは、『最高最貴の御言執ち』の義であって、其處に、すめらみことの尊い用語例も生じて来たのだが、同時に、天皇に限って言ふばかりの語とは限らなかった。中つすめらみこととは、すめらみことであって、而も中に居られるすめらみことと言ふことであった。…中つすめらみことが神意を承け、其の告げによって、人間なるすめらみことが、其れを実現するのが、宮廷政治の原則だった(「折口信夫全集」第二十巻『神道宗教篇』)。

折口はここで神の言葉を聴きとる「中つすめらみこと」こそシャーマン的な女帝であり、その女帝が人間たる「すめらみこと」に伝える。「すめらみこと」はそれを受け取り、まつりごとをおこなう。これは天皇の「人間宣言」を受け、実は古代から天皇は人間であったということを語っている。

現人神の否定です。折口は戦前戦後を通じて天皇が神であるという考え方はとらなかった。それは民俗学の良心です。

しかし折口が書き残した天皇観には、より大きい虚構が隠されていると思います。日本列島弧の民俗はどこから来たのか。折口はそれは天皇から来たと言いつづけました。神の言葉を受けとるものとしての人間天皇と、そして天皇家の習俗が先にあり、それが民間に広がったという考え方は変えられませんでした。昭和四年のある論文の冒頭で次のようにいいます。

『古代人の思考の基礎』
尊貴族には、おほきみと仮名を振りたい。実は、おほきみとすると、少し問題になるので、尊貴族の文字を用ゐた。こゝでは、日本で一番高い位置の方、及び、其御一族即、皇族全体を、おほきみと言うたのである。この話では、その尊貴族の生活が、神道の基礎になつてゐる、といふ事になると思ふ。私は、民間で神道と称してゐるものも、実は尊貴族の信仰の、一般に及んだものだと考へる(「折口信夫全集」第三巻『古代研究』、初出:「民俗学 第一巻五・六号、第二巻第二号」1929(昭和四)年十一、十二月、1930(昭和五)年二月)。

南海   折口信夫は、神道は天皇家の信仰が広がったものであり、人民の生活や習俗も天皇家に由来し、それが下に広がったというのですね。これが虚構なのですね。

北原   まず私は、「我々の国語は、漢字の伝来の為に、どれだけ言語の怠惰性能を逞しうしてゐたか知れない程で、決して順当の発達を遂げて来たものではないのである。」(『古語復活論』、「大正六年二月「アララギ」第十巻第二号」)と言ってきた折口信夫が、「思考」を定義することなく「古代人の思考」ということに賛成できません。この問題は青空学園で何度も取りあげてきたことです。

そのうえで、この折口信夫の「(天皇の)生活が、神道の基礎になつてゐる」という考え方は、事実ではない虚構であると思います。この問題に関して私は「『夜明け前』を読む」で次のように述べました。


弥生時代末期から古墳時代の日本列島は戦乱の時代であった。この時代、後漢が滅びた後であり東アジア全体が大動乱であった。中国大陸、朝鮮半島、日本列島はこの大動乱の渦中にあった。そのなかで日本列島を武力統一し、列島中央部を支配したのが今日の天皇家の祖先である。彼らは、もともとこの日本列島のなかから成長したものかどうかも定かではない。中国大陸や朝鮮半島から亡命するようにやってきたものもあった。応神も仁徳も土着のものでない。

強大な武力をもったものが支配を広げていくにあたって用いた方法は「土着の習俗を取り込む」ということであった。この日本列島はもともと縄文文明が開けていた。そこに弥生人が外来し、長く並存しながら弥生の農耕文明が支配的になっていった。さらにその上に天皇家の祖先がやってきたのである。

彼らは農業協働体が協同体の維持発展のために行われてきたさまざまの習俗を取り込み、あたかも天皇家がそれを代表するかのように振舞うことで支配の権威を打ち立てた。その典型は「すめらみこともち」として天皇を位置づけることであった。固有の言葉を神から受け取るものとしての天皇、である。そして新嘗祭である。当時の基幹の産業である農業の発展を願う人民の心を取り込むため、農業協働体のなかで行われてきた習俗を取り入れ、それを大嘗祭と結びつけることで、天皇が即位するにあたって正統性と権威づけを演じ出してきた。このような支配の虚構は天武天皇から天平時代に完成する。日本書紀編纂の過程がこの支配のあり方が仕上がっていく過程でもあった。

天皇家を中心とする貴族社会が支配権を失って以降も、その時々の支配者は「日本文化を体現するものとしての天皇」という虚構を支配のてこに深くかつ本質的に活用してきた。


折口信夫は民俗の実地調査を重ねた人ですから、以上のことを十分承知していたと思います。しかし、天皇家の習俗は、この地での支配を確立する過程で支配地の民俗を取り込んだものだということは生涯口には出さなかった。陸軍中尉として硫黄島で戦死した養嗣子・藤井春洋はじめ虚構のもとに死んでいった多くの若者のことを思うと、とても言えなかったというべきかも知れません。

この虚構で作られた支配制度、ここに天皇制の特質があります。虚構のゆえにまたこれは巨大な無責任の制度でもあるのです。これを支配の体系に使えば、その体制は強固なものになります。

外来の天皇家とそれに連なることで利益を得るものが、内に住む他のものに対してはもっとも厳しく対する。ここに、同化指向が非人間的なまでに強く、また近代において近隣への侵略を政治としての必要以上に非道に行った根源があるのかも知れません。

このような支配と社会編成の方法は今日に続いています。ですから、天皇制に反対だという人々が、民俗や習俗を古いものとして棄て、それを近代市民主義で置きかえて立ち向かっても、それは根なし草でしかなく、天皇が里のことわりの体現者という虚構を打ち破るには余りにも無力でした。

さらにまた、総括することのないままに水に流す傾向は、結局は天皇制が作り出してきた傾向かも知れません。誰も責任をとらずすべてを天皇に預け、そして天皇はまた責任を問われない。中空の虚空が天皇制の特質であるとすれば、これをのりこえることは容易ではありません。

とするならば、天皇制の虚構をのりこえて里のことわりを述べようとするわれわれこそ、真の意味での愛郷主義、パトリオティズムかも知れません。われわれの愛郷主義は、資本家の手先となった右翼諸君には思いもよらないことでしょう。天皇家が日本列島にやってくるはるか以前から今日に続く里のことわりを、自覚して今日に生かす。この立場がなければ、時代を転換することなど不可能です。

北原   「みこと」を神の言葉とすること自体が虚構です。まことのみことは民の「こと」です。みことは天上に由来するのではなく、地上に由来する。さらに、「みこと」を「もつ」もの、つまり「こと」を執り行うものは天皇ではなく民百姓のことを実践するすべての者である。今風にいえば、活動家である。「みこと」のおさえ方が違う。さらにそれを受けとるものが違う。

近代の中で「こと」を聴きとるのが実は働くもののうちにおり、民百姓のうちにいるという思想は、内部からの近代思想として可能であった。この方向にもう一つの日本近代を構想することができる。

しかし近代思想が西洋近代思想でしかなかった明治以降の日本において、これは現実性を持ちえなかった。それはまた、明治維新の国学が徳川幕府を倒す旗印として尊皇攘夷を掲げ「みこともち」としての天皇という虚構のうえに立っていたことと表裏の関係である。「みこともち」としての天皇を担いで江戸幕府を倒した。しかし虚構はすぐに投げ捨てられる。今度は文明開化、鹿鳴館である。

それでも国学は一君万民思想であり、ただ一人をのぞく他の者の平等思想をもっていた。資本主義明治にとってそれは異質であり不都合であった。明治革命は赤報隊が粛清されたことによってまず変質し、次に明治五年、国学は近代にそぐわないものとして政界から平田派が追放され、さらに変質する。

いまいちど『民百姓のことこそ「みこと」であり、それを受けとる者もまたその中にいる』という青空学園の初心に立ちかえるときにきていると思います。構造日本語と名づけた言葉で現代を語る、現代を言挙げするときだということです。ここを通らなければ近代は本当にはないのです。あまりにも漠然とはしています。実際にやっていくことで、それを表していくしかない。

このように考えてきた根拠は、次のようなことばと人間に関する思索でした。あまりにも概略に過ぎませんが、次のようなことを考えてきました。言葉は硬く、まだこなれてはいません。しかしいわんとすることは、今も大きくは変わりません。固有性が輝いて共に生きる世が成るように、この世界で営々と荒れ地をきり拓き、耕し続けよう。自分を空しくして働こう。私個人の存在よりも、縁ある人々の生きるこの世界こそが大切である、ということです。

第一
人間は言葉によって人間である。言葉は労働とともに古い。この二つは、互いに作用しあって発展してきた。それぞれの人間にはその人が人間であるゆえんの言葉がある。その言葉は抽象的な言葉一般ではない。必ずそれぞれの具体的な言葉である。その言葉をその人間の「固有の言葉」という。人間として考えるとき、それは固有の言葉で考えるほかない。
第二
言葉は言葉である以上、世界をどのような基本構造としてつかむのかを定める言葉を持っている。それが構造語である。構造語は世界把握の言葉であると同時に、その言葉の仕組みも決定づける。構造語は発展する。しかし取り替えはできない。個々の言葉は、言葉の体系のなかに位置をもち、その相互の位置関係によって、内に考え外に伝えることが実現される。
第三
人間の営みは言葉に意味を加え、こうして言葉は耕される。人間の新しい営みは言葉の新しい意味をきり拓く。言葉は個別の人間の営みを協働する人間の営みに普遍化する。この相互の関係の構造が、一人一人の人間の生の場である。

南海   人間が言葉をもって働き共に生きること、この根源的な人間のあり方そのものを追求することは、そんなに深くできてきたとは言えません。それはすべて今後の課題です。ただしかし、このような人間のあり方をおさえることによって、現代日本の人間と言葉のあり方に、大きな問題点を見出し、これをのりこえることが、日本語圏の言葉の真の意味での近代には不可欠である。言葉は、このような課題や問題をかかえつつ、動いていくものでしょうが、しかしまた、これではだめだという見解もまた、なければなりません。

確かに近代日本では言葉に根ざした論理を育てることがなされませんでした。それにはそれなりの理由があることです。ですから、今日の問題として考えなければならないと思います。

日本語の内部に否定とそこからの創造の契機を育てることがなされませんでした。「なる」のは放っておいてなるのではない。拓き耕さねば成らないのである。耕すとは否定に裏づけられた、再生の営みであるのですが、これがまだまだ弱かった。

北原   私は日本語の骨格を作っている言葉は意味にも深く関係していると思います。それらの基本語を構造日本語と名づけたのですが、構造日本語は日本語である以上捨てられない。そしてそれは意味内容を規定する。ならば、これらの語としっかりつながった言葉でなければ、文のなかに配置しても浮きあがり、深く思想を表すことなどできない。

南海   英語の be 動詞や、ドイツ語の sein のような言葉が、西洋における「存在」の意味内容を深く規定しているのと同じように、「もの」「こと」「いき」「とき」「ある」などが日本語の意味を深く規定しているというのですね。それにしては、われわれはこれらの言葉に無頓着に西洋語を漢字語に置きかえて日本語のなかに配置してきました。最近ではそれもせずにカタカナ語のままです。それでは考えることはできません。

北原   しかしまた be や sein をいくらながめていてもそれで思想が生まれることはありません。あくまで現代の問題を構造日本語をもって立ち向かうということなのです。それがこの対話の意義です。それを確認してさらに進んでいこうではありませんか。

内発的な近代か内発的な近代かを、もっとも切実に問うたのは夏目漱石です。かれは明治四十四年八月和歌山における講演で次のように述べています。

西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。ここに内発的と云うのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾(つぼみ)が破れて花弁が外に向うのを云い、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。もう一口説明しますと、西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いているが、御維新後外国と交渉をつけた以後の日本の開化は大分勝手が違います。もちろんどこの国だって隣づき合がある以上はその影響を受けるのがもちろんの事だから吾(わが)日本といえども昔からそう超然としてただ自分だけの活力で発展した訳ではない。
これを前の言葉で表現しますと、今まで内発的に展開して来たのが、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応(いやおう)なしにその云う通りにしなければ立ち行かないという有様になったのであります。それが一時ではない。四五十年前に一押し押されたなりじっと持ち応(こた)えているなんて楽(らく)な刺戟(しげき)ではない。時々に押され刻々に押されて今日に至ったばかりでなく向後何年の間か、またはおそらく永久に今日のごとく押されて行かなければ日本が日本として存在できないのだから外発的というよりほかに仕方がない。その理由は無論明白な話で、前(ぜん)詳(くわ)しく申上げた開化の定義に立戻って述べるならば、吾々が四五十年間始めてぶつかった、また今でも接触を避ける訳に行かないかの西洋の開化というものは我々よりも数十倍労力節約の機関を有する開化で、また我々よりも数十倍娯楽道楽の方面に積極的に活力を使用し得る方法を具備した開化である。粗末な説明ではあるが、つまり我々が内発的に展開して十の複雑の程度に開化を漕ぎつけた折も折、図(はか)らざる天の一方から急に二十三十の複雑の程度に進んだ開化が現われて俄然(がぜん)として我らに打ってかかったのである。この圧迫によって吾人はやむをえず不自然な発展を余儀なくされるのであるから、今の日本の開化は地道にのそりのそりと歩くのでなくって、やッと気合を懸けてはぴょいぴょいと飛んで行くのである。開化のあらゆる階段を順々に踏んで通る余裕をもたないから、できるだけ大きな針(はり)でぼつぼつ縫って過ぎるのである。足の地面に触れる所は十尺を通過するうちにわずか一尺ぐらいなもので、他の九尺は通らないのと一般である。私の外発的という意味はこれでほぼ御了解になったろうと思います。

南海   構造日本語、実際の語彙では「やまとことば」と重なるわけですが、内発的にやまとことばから言葉を展開し「やまとことば」を基礎に現代を語ろうとすることは、和算の言葉で現代数学をやろうということではありませんか。

江戸時代を通じて和算は非常に高い水準まで達成していました。一方で例えば三角関数をもたないことや、測量と暦学の基礎ではあったが、一般的な科学の方法をしての数学という意識は育たなかったことなど、いろんな限界性もまたあります。

それは当然で、十八世紀、十九世紀の西洋数学の爆発は、アラビアで育った数学が欧州各地の人びとの交流のなかで急速に発展したのであって、狭い日本の中だけでは限界があったのです。いくらかの人は蘭学から西洋数学をしていましたが、開国によって西洋数学との交流が公のものとなり、西洋数学が育った場に和算も入っていったことを意味し、そこで新たな形式をえることで、飛躍したのです。それから半世紀を待たずに、高木貞治を生み出したのです。

和算は日本の数学世界や世の数学というものの深いところに生き続けています。西洋の形式を得ることが必要だったのです。同じことが言葉についてもいえるのではないか。

北原   『定義集へ』「日本語の今」「近代日本語再説」で 『思考のパルティータ 13:〈歴史の真理〉に向かって (13) ―メタ哲学としての佛教の可能性☆1』(小林康夫) の次の言葉を取りあげました。

いまからおよそ100年以上も前に、日本は、西欧から、「哲学」を輸入し、それを移植しました。そのために、多くの哲学的な用語を新たに翻訳し、新語を作りだしました。それらの言葉はすでにもはやわれわれの言語と思考の完全な一部となっています。

これに対して


そうだろうか。違う。これはやはり鹿鳴館の思想である。私たちはこのようには考えない。むしろ「それらの言葉はすでにもはやわれわれの言語と思考の完全な一部となって」いると考えるところに、日本語で考えることの衰退があると考える。「それらの言葉」とわれわれが考えることの間を見る知こそいま必要な知であると信じる。

今日「日本語」とよばれるこの言葉にも、長いときの積みあげがある。その過程で日本語は幾たびか変転してきた。新しい息吹、新しい力が言葉にいのちを甦らせてきた。その言葉で人間が生き働き、生活しているなら、必ずどんなに時間がかかっても、言葉は再びよみがえる。言葉の時の流れのなかで、「人間は固有の言葉を拓き耕さねばならない」と考えた者が、言葉の今を引きうけそして次につなぐ。それが人間である。このようなこころざしをもって、青空学園で日本語を考えよう、それがわたしたちの出発であった。


と書きました。

南海   では、哲学を数学に直して次のようにいえばどうでしょうか。


いまからおよそ100年以上も前に、日本は、西欧から、「数学」を輸入し、それを移植しました。そのために、多くの数学的な用語を新たに翻訳し、新語を作りだしました。それらの言葉はすでにもはやわれわれの言語と思考の完全な一部となっています。


となります。この一文にはそんなに違和感はありません。

北原   しかし、輸入したのは「数学」なのか。和算がすでにあったではないか。輸入したのは「数学記述の形式」ではないのか。

南海   確かに。数学では数学的現象そのものは存在し、明治になって輸入されたのはそれを記述する形式、方法であったのは確かです。その方法はやはり優れたものであってその形式を得たからこそ急速に進んだのです。

「数学」を「数学形式」とすればおおむね妥当な表現です。では「哲学」ではどうなのでしょうか。

北原   哲学ではそのように記述の形式を分離しそれだけを輸入するということはあり得ません。実際、小林さんは「哲学」そのものを輸入したといっています。しかしそうなると、いったい哲学を輸入することは可能なのか、ということになります。

輸入された哲学を受けとめることができたとすればそれはすでに哲学があったからであり、本当に哲学のないところでは輸入しても理解し得ない。このような原則論はともかく、「哲学の輸入」が何を意味するのか、定義されていません。また、この発言はブラジルでのものだということですが、いったい哲学の輸入はブラジルではどのように理解されるのか。

また、哲学とは言葉の形式そのものではないかという見解もあります。ですから私は、「哲学を輸入した」というような言説そのものを疑おう、といっているのです。このところを省みることなく「それらの言葉はすでにもはやわれわれの言語と思考の完全な一部となっています。」というに至っては、ここに哲学はない、といわざるを得ません。

南海   それでもういちど日本語での哲学を考えなおそうというのですね。しかしそれは数学をもういちど記述形式にかえって考えなおそうというに等しいことではありませんか。

北原   哲学世界で、これまで近代の言葉で考えられてきたことを清算しようということではありません。現在哲学としてなされる言説のすべてが空しいとはいっていません。言葉はそれでも方法であり、伝えるべき内容が切実であれば、そこには聴くべきことがあります。

その一方でやはりもういちどわれわれの言葉で考えようということも必要だと思っています。考える内容とそれを表す形式としての言葉の表現可能性に無頓着な思索は、結局は空しいということは譲れません。

その結果、どれだけのことが問題になるのかはわかりません。ただ、言葉への問いなしに哲学が哲学であり得るのかという問いは回避できません。近代日本語を問わなければ言葉を問うたことにはならないということもまた譲れないところです。しかし、このような議論はいくらいっても堂々巡りです。なしうるところから、言葉の意味を吟味しなおしながら、現代をとらえ直してゆこうではありませんか。


AozoraGakuen
2017-02-10