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ものとひとの輝き

南海   構造日本語で最も基本となるのは「もの」です。そして現代の根本的な様相を「ものを見失っている」ととらえたいのです。資本主義世界とはものを見失う世界である、このように考えています。

「もの」という言葉は日常あふれています。しかし「ものづくり」、「それが人生というもの」「もののけ姫」の「もの」がなぜ同じものであるのか、あらたまってまじめに考えることはありません。またそれが大切なこととして学校教育で教えられることもありません。用いる言葉への反省作業、これが一般的になること、これは近代のための前提条件ではないかと思います。

北原   そうなのです。「もの」は定義集では次のように書きました。またそもそも青空学園のはじまりはこの言葉を近代があいまいに扱っているのではないかということでした。用例を省いて載せます。


【もの】[mono]

■「心」[kokoro]−「括る」[kukuru]、「所」[tokoro]−「作る」[tukuru]からすると[munu]という言葉があったのではないか。絶対的に定義される場である[ma]と、相対的に定義される場である[na]、あるいは宇宙空間としての「ま」と大地としての「な」、つまりはありとあらゆるものにかかわることが[munu]であり、その根拠としての[mono]であったのではないか。

□タミル語<man>に起源。

◆定め、きまり。ここから意味が深まり、定めやきまりの根拠として、人が見ることができるものを「もの」という。さらに思いを寄せる対象としてとらえることができるすべてのものをいう。見たり思ったりするその視線にあるものが、「もの」としてとらえられる。「もの」を「もの」としてとらえるのは、まず「見る」働きあるいは「思う」働きである。そして見たもののことを言葉で切り取る、つまり考える。逆にこの認知作用が成立するものすべてが「もの」である。これが第一義である。

生起し消滅するすべてのことは、不変の存在であるものが担っている。諸々のことが生起する土台にある「もの」は、人の力の外にあり人が変えることはできない。ここから既定の事実、避けがたいさだめ、さまざまの規範など、を表す。しかしまた「もの」は人に対して無関係に存在するのではなく、逆に人との関係においてつかまれ、人をひきつけるとともに、ひきつけてはなさない力のある存在である。これが第二義である。

「もの」は、物と心を切り離す二元論の「物」とは異なり、「思い」や「こころ」と切り離されていない。それどころか「もの」はそのものへの「思い」を引き起こし、見る者のいのちに関わる力があるものとしてとらえられる。つまり「もの」は人に働きかける。もの自体が人が恐怖し畏怖する対象となる。 鬼や悪霊など明確にはわからないがしかし人間に働きかけるものを表す。

さらに、接頭語や接尾語など文章構造のなかでも存在するもの一般を意味して用いられる。形は多様に分化している。しかし「もの」の基本的な意味は用法の違いを越えて一貫している。

※「もの」に対して「こと」は生きた動きである。「こと」が成立している「とき」から我にかえって人は「こと」が成立する前提として「もの」の存在に気づく。人間にとって「もの」は「とき」を超え「こと」によらず存在する。

▼何らかの、個体として認識されるすべての存在をいう。ものと判定するのは認識であり、人間がものとして認識するのである。

▼具体的な物質的なものではなく、人がどうすることもできない不変・不動の原理や存在を表す。

▽相撲の「物言いがつく」は、「異議を唱えることであり」、相撲の原理に照らして勝敗の判断に異議あるときになされる。「ある立場の人がお互いの関係のあり方として当然言わなければならない」言葉、原則的・原理的な言葉である。

▼「言う」や「思う」の前に置かれることによって、明確には言えないが意識の対象となる存在を指し示す。この「もの」がおかれることで「言う」や「思う」は概念としての「言う」や「思う」ではなく、具体的で現実的な行動であることが意味される。

▼人が恐怖し畏怖する対象を表す。

▼人を表す。この場合人をものに見下す気持ちがこもっている。

※「もの知り」とは「もの」の「こころ」を知りうる人のことである。「もの」としてとらえた中にあるはずの道理を「もののこころ」という。

※「ものがたり」は「もの−かた−る」で、「かた」つまり「形」がさだまり「型」に定式化されたことを述べる「語り」に、「もの」が接頭語としてつくことで、「世の原理・法則を知らしめるためにのべる」ことを意味する。沖縄「ムンガタイ」で昔話を言うが、これは「物語」そのものである。一方「ことのかたりごと」(古事記「八千矛神の歌」「天語歌《あまがたりうた》の結び)は一回的な歴史的な事件についての語りを言う。


北原   「もの」と「こと」、およびそれらを対象にする頭の働きである「思う」と「考える」は、それぞれ対をなし、これはまったく異なる意味である。このときに西洋語の二分法にあわせるために「思考」を作りこの対象としての「物事」という言葉を作った。しかしではこの漢字熟語の意味を日本語の中から定義することはできるのか。あるいは、「思う」と「考える」の違いをおさえたうえで改めて「思考」を定義しなければならないのではないか。この課題を考え続けることが青空学園の基調でした。

これを踏まえてこれまで書いて来たもののなかで「もの」の意味を次のようにのべました。


世界のすべては「もの」である。ものほど深く大きいものはない。この単純な事実を土台にする。この世界は「もの」からできている。森羅万象、すべてはものである。これが世界である。まずこれを明確にしよう。この世界は「もの」そのものである。人もまたものの一つの形である。人はこのものを両手で受けとめ、思いをよせ、じっと見、そしてそのもののことを考える。ものに語りかけ、ものの変化を促し、ゆたかな実りをものから受けとる。ものがすべての根本である。

ものは存在し、たがいに響きあっている。これが事実である。世界はそれしかない。そのなかで、人とものとは豊かに交流しあい、語らいあう、これが世界の輝きである。

ものは、いわゆる物質と精神と二つに分ける考え方での物質とは、まったく異なる。このような二分法ではない。「もの」は実に広く深い。この深く広いものを日本語は「もの」という一つの言葉でとらえる。この意義を吟味し、ここに蓄えられた先人の智慧に注目しよう。


南海   近代西洋思想は、このような意味での「もの」を見失ってきたのですね。そして近代日本の表層の思潮もまた「もの」を見失ってきた。

北原   いちがいにそのように言うことはできません。しかし、資本主義と産業革命に向かう流れは確かに「もの」を見失ってきた歴史であるといえます。その基本的な転換は古代ギリシアにあった。それについて次のように書いたことがあります。


古代ギリシア思想

私は「万物のアルケー(始源、原理、根拠)とは何か」を問うた「ソクラテス以前」のギリシャ思想古代ギリシアは「もの」をつかんでいたと考えています。

生物種としての人は数万年におよぶ協同労働の過渡期に協働体を発展させ、この過渡期を経ていわゆる社会、を生みだし人間となった。「社会」は実際には階級社会だし、それ以外ではあり得ないのだが、人間はその社会のなかにあることによって自己の位置を反省し考えることを身につけた。古代社会が成立しさらに数千年の時を経て、初期ギリシアで人間は世界を「もの」として再発見した。このときの驚きと喜び、これが初期ギリシャ思想には満ちあふれています。

タレス(Thales)(B.C.624?〜B.C.546頃)は、「万物の根元は水(ヒドール)である」と主張した。タレスは紀元前585年5月28日に生地・ミレトスに起きた皆既日蝕を予言し、エジプトの実用幾何学を輸入して理論的な幾何学研究を始めた(ピラミッドの高さを測量した)。タレスの弟子のアナクシマンドロス(Anaksimandros)(B.C.610〜B.C.540頃)は、「万物はのアルケー(始源、原理)は不死不滅で永遠に自己運動する物質。ト・アペイロン(無限のもの、無制約なもの、無限定者)である」、「生成する事象は、時の秩序に従って、相互にその不正をあがなわなくてはならない」といった。タレスの孫弟子になるアナクシメネス(Anaksimenes)(B.C.546頃盛年)は「万物は気息(プネウマ)、空気(アエール)であり、万物は空気の濃淡によって生成する」といったのです。

初期ギリシャ思想の肝心な点は、それが内因論であることである。万物は、「水」という「もの」、「無限のもの」、「気息(プネウマ)、空気(アエール)」という「もの」なのである。万物の根元としてとらえられたさまざまの「もの」が、内部の要因によって生成発展することへの驚きと、生成発展の輝きを見た喜びと、世界の意義を聞きとった感動にあふれています。

プラトン以降の西洋思想は、初期ギリシャ思想のアルケーとしてあげられた根本物質が生きて動き千変万化するという自然学説を「物活論(hylozoismus)」と呼び、初期ギリシャ思想を初歩の幼いものとして相対化してきました。

そこには貴族思想がある。生産労働を奴隷に任せる以上、作るべきものの理念と実際の作られるものが分裂する。 設計図を書くものとそれにもとづいて作るものの分裂である。この分裂のなかで初期ギリシア思想の「もの」は見失われた。このように古代ギリシア哲学は、プラトンの時代に大きく転換したのです。

そしてその分裂は今日まで続いています。プラトンの時代にはじまる西洋世界は、資本主義を生み出し産業革命にいたり、帝国主義として世界を支配してきた。

私は、初期ギリシャの「叡知を愛する人」(ハイデッガーはこのように言ってプラトン以降の思想との区分を明確にした)に共感します。


北原   そして明治近代化のなかで日本語もまた「もの」を見失ったのです。

南海   この意味でそのとおりだと思います。しかし明治革命が資本主義を導入するとするならば、「物事」「思考」という言葉を作くることによって「もの」を人びとから隠したのにはそれなりの理由があったということになります。「もの」「こと」という現実把握は、精神と物質、見るものと見られるものの二分法をはみ出してしまいます。

北原   確かに。そのように考えると、明治期に作られた漢字造語は古代からの日本語を隠すために必要であったのかも知れません。しかしそれを隠しきることなどできません。なぜなら、「もの」のような基本語は日本語の中でつねに用いられるからです。そして漢字造語で隠され押しこめられてもそれは噴き出すように表に出ることがあるのです。戦前の侵略戦争に突き進んだその根底には、この力があったのかも知れません。

南海   だからこそ、これらの言葉を自覚的につかむことが近代の二重性のうちにある人間が、この二重性を打ち破って自分の近代を獲得するために必要なのですね。

北原   そのようにいうことができます。もっと積極的に「もの」を再発見することが、次の時代をきり拓き支えるための言葉となると考えています。

資本主義は二十一世紀に至って一つの極限に達し、このままでは世界が立ちいかなくなることが心ある人の目には明らかになっています。しかし活路は未だ見いだされていません。この時代に再び「もの」を考える土台に置くことは、深い意味のあることです。

百年前に日本語で「もの」を第一とすることを主張したのは、中江兆民である。兆民は『続一年有半』において次のように宣言した。


余は理学において、極めて冷々然として、極めて剥き出しで、極めて殺風景にあるのが、理学者の義務否根本的な資格であると思ふのである。故に余は断じて無仏、無神、無精魂、即ち単純なる物質的学説を主張するのである。五尺躯、人類、十八里の雰囲気、太陽系、天体に局せずして、直ちに身を時と空間との真中《無始無終無辺無限の物に真中ありとせば》において宗旨を眼底に置かず、前人の学説を意に介せず、ここに独自の見地を立ててこの論を主張するのである。


兆民は「単純なる物質的学説」の主張を宣言しました。理学はこの兆民の立場を継承することをこころざしたのです。兆民が「物質的学説」でいう「もの」は、物心二元論にたつ「物質」とは違います。またいわゆる機械的唯物論がいう「物」とも異なる。まさにそれは「もの」であった。

第一
ものは確かにある。見たり思ったりすることができるものが「もの」である。すべてものは人と係わり、人と係わる一切がものである。ものとは思いをよせる方にあるすべてのものをいう。「もの」を「もの」としてとらえるのは、まず「見る」働き、あるいは「思う」働きである。そして見たものを言葉に切り取り名づける。逆にこの認知の営みが成立するすべてのものが「もの」である。思うことによってものとして切り取られ名づけられてものが成立する。これがものである。
第二
ものはそれ自体で存在している。人がものに思いをよせ、もののことを考えるのはなぜ可能か。それはそこに、ものが確かにに存在しているからである。それがものである。そのものは、諸々のことが生起する土台にあり、人の力の外にあり、存在をなくすることはできない。ものはもの自身の力で動いている。であるがゆえに、人がものを思うのは、実はものにひきつけられてはじめて起こる。ものは人間をつかむ。ひきつけてはなさない力のある存在である。
第三
人もものである。人もまたもののちからで生きる。ものを思い、もののことを考え、ことの内容を聞きとる。それはものが人にはたらきかけることであり、人はものからのはたらきかけを受け、人生を変え、そしてものを動かす。人あってのもの、ものあっての人である。ものは人と無縁に存在するのではない。切実な働きかけと真剣な受けとめ、そして決断、こうして、人は無限に向上する。これが人生である。

人生は厳格です。この世界もまた厳格です。「練習通りにやる」「自分の相撲を取る」。これはこの厳格さをそれぞれの道において言っている。その厳格さ、その自覚が「もの」としての把握の根底にあります。「人生とはそういうものだ」ということです。

南海   厳格であるからこそ、じたばたしてもだめなのですね。一方で、なるようにしかならないと何もしないのも厳格ではない。人間とは「どうでもいい」と投げやりになることもなく、じたばたすることもなく、生あるあいだ生きてゆくものなのですね。能動的に生きることができればそれが人生なのですね。

北原   そう思います。私は考える枠組のなかに創造神を置きません。そうするとしかし、神のない時代に、この厳格さの根拠は何か、という問うが出てきます。いまそれを考えるとわからなくなります。ただ、わからなくてもよい、とも思うのです。この厳格さに直面すればよいのではないか。「もの」はそういう人生を人に教えます。

「もの」という認識は人間の営みです。人間が世界の存在をものとしてとらえる。ではその人間はどこから来たのか。ものからきたのです。この意味で「もの」はものの自己認識である。

「もの」は人なくしてはあり得ない。一方、人はものに魅入られ人となる。このように考えることもできます。そして、このように考えること自体は、世界外の視点です。

「もの」を発見した驚きと喜び、このときの輝きが実質の内容、「もの」の「こと」である。世界はものと人の交流として輝いている。その内部の構造をもう少し立ち入って考えてみたいのです。


AozoraGakuen
2017-02-10