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出立の場所

北原   還暦を過ぎました。願うことは多くあります。求めることはあまりありません。今日まで、何かに追われるように走ってきました。最近、少し落ちついて考えられるようになりました。青空学園は里であり、ものごとを原則から考え、その根拠を問う場としての根拠地です。私が青空学園に来たのが99年初秋、幾ばくかの時が過ぎました。

しかし、これまでここで書いてきたものを読みかえすと、おしなべて、自分の考えを掘りさげたりまとめたりするのに精一杯であり、思いついたことを直感的に述べるのみで、根拠を示すことが弱いのが目につきます。根拠を問う場をめざしながら、根拠を示さない陳述が続き、論述は荒く、わかるように、また説得的に書くことはできていません。

が、問題は単に書く技術のことではありません。私は近代日本語の根拠を問いました。しかしその問いが意味あることを述べきれていません。これまでのところ自分の力が根拠を問いきるには不足していた、といわざるを得ません。まして、問題を掘りさげ新たな場で根拠を示すことはほとんど何もできていません。根拠を問うとは、現象を根本において捉えることであり、その根本としたことさえ疑い、さらにその根本を求める永続運動なのです。

問題を考えるのは独りでなければならない。ですが、考える契機は対話のなかで得るものです。青空学園で出会った二人で改めて対話をすすめ、それを通してわれわれが考えてきたことを深めたいのです。このように考えることができるのは、これまでの人生があるからです。それは忘れないようにして、われわれに残された時間、考えうるところまでは考えおきたいのです。

南海   19世紀後半、数学の世界ではカントールやデデキントが解析学の根拠を問いました。そして実数論を展開しその中から数学基礎論がうまれゲーデルにまで至りました。この時代はまた資本主義がその根拠を問われたマルクス主義の時代でもあるのです。時代の危機が人間にその根拠を問うことを促すのです。

私は高校時代に学ぶべき数学がどのような構造をもち、人間にとってどのような意義があるのかを、改めてつかみ直したいと思っています。人間にとっての数学、です。このような問題意識をもっています。数学教育の根拠を問うということです。

ですから、近代日本語の根拠を問うことと近代日本の数学教育の根拠を問うことは、現代という時代、資本主義が爛熟し崩壊をはじめたこの時代によって促されているとも思います。ささやかでも、時代につながっていることを感じとりつつ対話を進めていきたいものです。

北原   対話のはじめに、われわれがどこから来たかをおさえておきたい。思い出話などそれだけでは意味ないのですが、1968年に青年学生が問いかけたことは、今日になっていよいよ重要な開かれた問題であると思われます。われわれの生きてきた事実のなかに今日につながるどんな問題があるのかをふりかえっておくことは、若干の意味はあると思います。

南海   人生はどのみち試行錯誤であり、その意味では実験です。実験からどんな教訓を引き出すのかということは大切なことです。そんなにたいそうなことなど何もなかったですが、われわれが歩みはじめた六八年を考えおきたいと思います。

北原   私はそのつもりで『個人史』を書いておいたのですが、あれは私の一つの段階におけるまとめに過ぎないので、改めて考えたいと思います。

われわれは1947年生まれで、大学闘争の渦中に学生時代を送りました。そこで考えたことが、その後の歩みを規定しています。われわれは学部学生の頃にあの闘争を闘いました。

南海   「あの運動に関係したのは同世代の一割に満たないし、時代の基調は大学の外で形成されていたのだ」という意見があります。しかし六八年から70年にいたる若者の反乱は世界的なものであり,また大学にとどまるものでもありませんでした。

北原   反戦青年委員会などの労働運動や街頭闘争もありました。が、その一方で表には出ない地域や職場の闘いが各地でくり広げられました。そのような闘いこそあの時代を特徴づけると思います。

私は、1973年に高校教員になりました。その地での教育運動の歴史をいろいろ勉強したのですが、六八年から75年にかけて阪神間では受験体制のなかでは底辺に位置する定時制高校、工業高校をはじめいくつかの普通高校でも教育闘争が火を噴いていました。その前史として戦後間もなく燃えあがった阪神教育事件 といわれる民族教育を求めた闘いや、地域ぐるみで取り組まれた勤評闘争 がありました。

その歴史のうえにたって、学校の差別体質を批判し、学力の保障を求める運動があちこちで闘われ、そういう高校生の闘いや地域の教育闘争と一体となった教育運動もまたあの当時高揚していました。私はその闘いの過程で勝ち取られた教員定員の増加枠(同和加配)で教員になりました。

そのように考えると、六八年から70年代初頭の大学闘争は、同時代に高揚した新しい運動、それまではまだ声をあげていなかった層が、それを突き破って声をあげた、その一環であったと考えることができます。運動する側からいえば、日本の人民運動にとって、闘う側の足下が問われ、それに応えようとする人間がそれまでの人生を少し変え、そのうえで闘いを担った、はじめての運動であったということです。

1968年の闘争は、1968年5月のパリのカルチェ・ラタンの学生暴動をきっかけに、フランスの若者が解放を求めて決起したことにはじまります。この五月の革命は、ベルリン、サンフランシスコ、東京と世界に広がりました。共通点は、自分自身が「何々である」という既成の体系から離脱し、闘おうとする運動であったということです。

もちろん青年の自分探しという側面もまたあったのですが、それが時代のなかで鍛えられ、制度や体制から離れ、自主的な方法や生きる仕組みを模索しようという決断を促しました。それを自分自身で受けとめる人間が存在した。それがこの六八年の特徴です。彼の地での闘いの詳細はわかりませんが、世界的にいっても、単なる学生の運動ではなかったと思います。

南海   そうですね。近代西洋社会が生みだしてきた価値観とその制度が、中国文化大革命やベトナム戦争によって揺らいだ。東大闘争の発端となった医学部での問題のように、その制度は内部で疲弊しはじめていた。青年はそれを鋭く感じ、制度とその背後の価値観に闘いを開始した。近代制度のもとでおさえられてきた人びとが、このときはじめて立ちあがった。

北原   私が働いた高校とその地域では、被差別部落の生徒、障害をもつ生徒らの、教育権保障を求める切実な闘いがおこなわれていました。高校へ行きたい。行けないのは中学までに必要な力をつけなかった社会の責任ではないのか。私は赴任して早々でしたが、障害生徒の普通高校での教育保障に取り組みました。

全国ではじめて公立普通高校にいろいろな障害をもつ生徒を、教育保障として受け入れました。しかしその後、80年代後半になってそれらの取り組みはいわゆる中曽根行革の流れのなかでつぶされてしまった。地域で問われた教育の問題は何も解決しなかった。それどころか、より深く厳しくなって今日の問題に直結しています。中曽根行革は小泉改革のさきがけであり、新自由主義資本主義です。私の働いた高校は、この行革の流れのなかで終に廃校になってしまいました。

新自由主義資本主義とは近代西洋資本主義の価値観の誰はばかることのない宣言であり、資本の露骨な搾取と収奪の行動です。一方、イラク戦争を通して帝国アメリカはいよいよ凋落し、アメリカ主導の世界経済もまた2007年夏には明確な恐慌過程に入りました。今はまさに新自由主義が山を越え下りはじめる節目となる時代です。


AozoraGakuen
2017-02-10