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人間として

南海   六八年のような激動のときには、どの世代としてあの闘争に関わったのかが、内部にいた学生にとっては大きなことでした。東大全共闘の山本義隆氏は大学を去るときに「物理学徒として」といわれました。その後、大学を離れたところで、「物理学徒」の立場で科学史の仕事をされてきました。山本氏の世代は既に何かの専門家としてあの時代を生きたのです。

北原   六八年の闘争はそのような既成の「何々として」からは自由であろうとしたこともまた事実なのです。実際にまたわれわれはその前の段階で時代の動きにのみこまれました。そして、それまで漠然と考えていたことや、その背景となっていた考え方を変えたのです。大げさにいえば「何々として」といえる前に近代大学制度から離れたのです。われわれには既成の知的分野で「何々として」ものごとを考えるという前提はありませんでした。

ではどのように生きていくのか。それを模索しました。その頃、先日亡くなられた小田実さんは何人かの人と雑誌『人間として』を出していました。また、小田さんは森有正さんと、人間の原理、世直しの原理について対談をしていました(対談『人間の原理を求めて…揺れ動く世界に立って』(小田実との共著)、筑摩書房、1971年4月)。私はそれを読んで、震えるほど心を動かされました。「人間として」として生きていくということを教えられました。またわれわれにはそれしかなかったのです。

改めて読みかえしました。書棚を整理していたら、2008年の9月末に奥の方から出てきたのです。小田さんの発言をひきとるかたちでなされた森有正さんの言葉に、今改めて問題を提起された思いです。

ことに今度の学生の五月のパリの騒動で、私は学生と非常に接触しました。それで私はまたフランスを見る目が非常に次元が高まったと思うんです。そういうことはフランスで、そこで自分で働いて金をとって暮らしていないと、なかなかわからない。フランスの若い人は何を求めているか、それは驚くほど日本の若い人と近いのですが、それが内側からわかってきて、彼ら自身のフランスの過去の文化というものに対して自分をどういうふうに定義しているかということもわかってくるし、どうしても私の心の要求として今フランスを離れ去ることができない。
中国のああいう文化大革命の動きの根源的な動力というものは、どういうところから出てきているんでしょう。……その根本はどこにあるかというと、ある一つの社会が、あるいは一つの人民の集団が自分自身の現実の中に、進化といってもいいし、自己批判といってもいいし、そういう原理を自分自身の中にもつという一つの動きじゃないかと思うんですよ。
その場合に、人間とはなにかという問いに進みそうな場合、私は、すぐには進まない方がいいと思うのです。早急に進むと、やはり昔のままの人間に返ってくる。人間とはそもそもなんぞやというのは逆で、ある、人間という名よりほかに名のつけようがないあるものが、すでにそこにある。それに「人間」という名をつけておいて、さて、人間とはなにかといっては駄目です。第一無駄で、折角そこにある人間を観念で置きかえてしまうことになる。
すべての問題、ことに日本で特殊であるというふうに考えられている問題を、一般の次元に一ぺんひき降して、そこから見直す、理解し直すというゆき方は、たしかに必要だと思います。しかしそれは、かなり専門的な操作を必要とする問題だと思うのです。あれは人間の一般的な傾向だといっただけじゃ、非常に明確さを欠くので、あとの議論の発展がない。そのためにはやはり歴史と社会とかそういうものに対する心理であっても、あるいは論理であっても、あらゆるそういうかなり掘り下げられた知識をもった人たちが、その問題に挑戦して、日本の歴史の一般化というものをとにかくなしとげる必要があると思うのです。私は、あらゆる段階の意味で、そういうふうな仕事をして、日本の本当の民主化というものに貢献する人を、知識人と呼びたいと思うのです。
ぼくは、日本人のいちぼん大きな欠点の一つは、そういうことは日本人の性格だとか欠点だとかいってみんな逃げているのですね。だからまず自分が始めなけれぼだめだということですね。自分の生活そのものの中の折れ目をつけること、歴史の中に折れ目を織り込んでいって、そこから今の生きている意味を汲みだしていくということです。そういう点から見ていかないと、ただ漠然と日本の将来ということは言えないですね。私のいう経験も、私にとってのそういう作業だと思って下さい。

問題を三つ提起されていたと思います。

第一、
フランスの青年がそうなら、では,われわれは日本の過去の文化というものに対して自分をどういうふうに定義しているのか。六八年にこの問題意識はあったか。 固有性から一般性を結論づけるのに、人間の一般的な傾向ですませてはならない。固有性から普遍性を獲得するのは紆余曲折の地についた難しい道を歩まねばならない。その問題に挑戦して、日本の歴史の一般化というものをとにかくなしとげる必要がある。 これは青空学園日本語科に即していえば、近代日本語の根拠を問うた場を掘りさげ、新たな場で根拠を示すことです。固有の言葉のことわりを、言葉を超えた普遍性に高めるということでもあります。幾人かの先人が挑戦しつつ未だ活路の切り開けていない問題です。私もまたこの問題の前にに立ち止まってきた。が、やはり道はまだ見えない。
第二、
「人間」という名をつけておいて、さて、人間とはなにかといっては駄目だという。第一無駄で、折角そこにある人間を観念で置きかえてしまうことになるという。これはまた難しい問題です。人間という名よりほかに名のつけようがないあるものとどれだけ向き合いやりとりをしてきたのか。かつての活動を含めて観念的なものでしかなかったのではないか。 人間を定義するのは人間の経験である。人間を豊かに述べねばならない。人間という言葉で括って済ませてはならない。定義集の人間はまだまったく貧しいものだ。
第三、
ある一つの社会が、あるいは一つの人民の集団が自分自身の現実の中に、自己批判の原理をもつという一つの動き、これは実際には共産主義に向かう運動のもつべき内実であり、文化大革命が試行した最も重要なことである。 いま文革は表向き否定されたままである。そのために文革か試みたことが再度取りあげられるということもない。これは六八年の再評価でもあるのだが、そこにあった新しい運動論や組織論を取りあげ直すことはわれわれの世代の責任である。新たな共産・共生の運動の中味がここで問われていた。

くりかえしますが、私はかつてこの本に震えるように心を動かされました。この本とそして北白川の経験によって、一から自分で生きてみようとして、今日までやってきました。いろいろやってきて、いま読み直して改めて警鐘を鳴らされたという思いです。これだけのことが問われていたとはその当時思いもよりませんでした。

南海   でもこうして人間の経験は引き継がれていくのです。われわれが生きていく立脚点は「人間として」ということ以外にはなかったのです。しかしそれはいくら人間としてといってもそれでは何ともならないことだったのです。

北原   人間として生きるということは、考えてみれば当たり前のことであり、働き人はみな人間として働き人生を送ります。われわれは時代の力におされて「人間として生きる」ことを選び直したのです。それは決して時代に強制されたという意味での受け身なことではなく、これからの時代を人間の原理で一から生きてみようではないかという決心でした。

その試行錯誤の跡がこれまでの人生であったといえます。このような試行錯誤を生きてきたことに悔いはありません。少なくない人間が大学を中退したり労働運動や地域の運動に入ったりしました。いちばん誠実に考えた層が大学から離れた。知的誠実さをもった層は日本の大学を離れた。

既成の知的制度の体系から離れて人間として生き考えよう。近代日本はあの時期を通してはじめてそのような生き方を生み出したのです。私もまたそのような一人です。六八年のこころざしを生活の場で持続すること、これは前提です。そのうえで、この間の諸々の経験を深め、今、人間であるとは何を意味するのか、考えておきたいのです。それはまた、このように生きてきたものの責任でもあろうかと考えています。


AozoraGakuen
2017-02-10