南海 これは大きな問題です。アメリカ政府やその近辺からは、民主党が勝ったというよりも、自民党ではだめだという主権者の気持ちが民主党への投票につながったという見方です。同様の見方は欧州、とりわけイギリスなどでも顕著です。もちろんこれは表に報じられてくる意見であり、その意味でそれぞれの国での支配政党の見解に近いものだといえます。しかしこれはものごとの正しいとらえ方ではありません。むしろ日本の保守論壇のなかの見解に本質をつかんでいるものがあります。
月刊『文芸春秋』八月号は「総力特集・さらばアメリカの時代」を企画していますが、その中で、文芸評論家で慶応大学教授の福田和也が「日本政治百年に一度の大転機・政権交代のその後に、本当の地殻変動がやってくる」と題してつぎのように書いています。
自民党が第一党の座を滑り落ち、民主党政権が誕生する――すなわち戦後日本政治を担ってきた五五年体制がついに崩壊するわけですが、今回の政変≠フ衝撃は「戦後」という枠を超えたものになるでしょう。もっと大きなスパンで、日本の政治は根本からの転換を余儀なくされるのではないか。気がつけば、永田町にせよ、霞ヶ関にせよ、国家運営を担当してきたメンバーの多くが入れ替わり、ルールがまったく変更されていた――そうした大転換の時代を迎えつつある。
現在の経済危機に対して、グリーンスパン元FRB議長は「百年に一度の危機」と評しましたが、私たちが直面しつつある日本政治の大転換もまた、「百年に一度」といえるかもしれません。
北原 七月十三日(月)付の産経新聞に、七月十二日実施の東京都議選の結果について政治部長の乾正人氏が「なぜ自民党は惨敗したのか」という一文を発表しているが、そこで氏はつぎのことを主張している。重要な部分をそのまま紹介する。
予想されたこととはいえ、自民の惨敗、民主の躍進という都議選の結末は、有権者の怒涛のような国政への怒りの表れ以外の何ものでもあるまい。
麻生太郎首相は「地方選と国政とは直接関係ない」と言うだろう。だが、自民党公認候補の事務所を激励にくまなくまわったご本人が最もよく分かっているように、都民は麻生政権に「ノー」の意思表示を示したのだ。…次期衆院選も都議選と同じような結果になるのは目に見えている。…
あの郵政選挙で自民党が空前の勝利を収めてからわずか4年。なぜ、かくも短期間で自民党は凋落(ちょうらく)してしまったのか。
理由はさまざま挙げられるだろう。小泉改革のもと、財政再建と「小さな政府」を目指すあまり、地方や福祉の現場が疲弊し、対策が後手にまわったこと。「100年に一度」の世界的大不況に目に見える効果的な対策を打てなかったこと。郵政民営化の見直しをめぐって党内対立が噴出したこと。「ポスト麻生」に有力候補が現れない事実が象徴する人材養成システムの行き詰まり。
相次ぐ地方選での自民敗北は、経済政策の失敗だけでは説明できない。自民党が掲げる旗が不鮮明になり、精神的な背骨を失っていると古くからの支持者が判断しているためではないか。
北原 二人のいうとおり、自民党型政治の終焉という問題は、民主党が政権党になり当面の政策が変っていくという問題より、はるかに根深い問題なのです。自民党の本質は、露骨な軍事独裁であったかどうかに関わりなく、開発独裁そのものでした。韓国の朴正煕、全斗煥、中国のケ小平以降の政権、インドネシアのスハルト、そしてフィリピンのマルコスなどと同じく、独裁政権のもとで欧米に追いつくことを、つまりは資本主義的近代化をめざした政権であったことは確かです。
南海 そしてそれが崩壊した。歴史的役割を終えたのです。
北原 その内容と意味を掘りさげなければなりません。いくつかの左派党派は民主党政権について、自民党と何も変わらない同じ保守党だと批判する。しかしそれでは問題の本質を見失い、歴史の要求と課題をとらえることができません。
民主党の中には、1)鳩山、菅、岡田、前原といった、都市型の保守グループ。2)小沢が率いる農村や地方、連合などに密着した利益誘導型選挙を経てきたグループ。3)いろいろな市民型運動や民生分野の運動と連携をもつグループ。この三潮流がせめぎあっています。高度経済成長期ではない今、地方の利益誘導がかつてのような土建政治では難しく、ここに小沢氏が自民党時代とはずいぶん考え方を変えた土台があります。
いずれにせよ歴史的な現実に規定されこれらのグループも変転していくので、民主党の外にいるものも、自分の関わる運動を等して、あるいは思想問題として、課題を提起し、自らも考えまた実践していくことが必要です。
南海 『青空学園だより』で鳩山由紀夫の「私の政治哲学」を読む記事を載せました。「私の政治哲学」の中の政治主張を抄訳したものがニューヨークタイムスに載り関心を集めたものです。
このように一党の党首が自らの政治哲学を語ることはよいことだ。私は党としての民主党を支持するわけでもないし、その政治路線の全体に賛同するわけでもない。しかし哲学を語りそこから政治の方向を議論していこうとすること自体は、まったく賛成である。戦後の日本政治はあまりにも議論ということなしに進められてきた。自民党の派閥はムラといわれた。ムラの中ではあうんの呼吸で分かりあえるというわけである。しかしもはやこれではやっていけなくなった。議論する、対話する、そして行動する、このことが当然のこととして根づくことを期待している。一読した意見を書いておきたい。
…
鳩山論文はこの十数年の日本政治について「冷戦後の日本は、アメリカ発のグローバリズムという名の市場原理主義に翻弄されつづけた」と言う。そして民主党は小泉の政治路線とはまったく違うという。しかしではなぜ市場原理主義に翻弄されたのか、そこには資本主義の必然性があるのではないか。日本の内部に市場原理主義を受け入れる素地があったのではないか。「アメリカ発のグローバリズム」と外に要因を求めても、小泉選挙で自民党を大勝させたのは日本の有権者自身ではなかったか、という問に答えたことにはならない。政権を担う政党として、新自由主義をはびこらせた根っこのところについてさらにつっこんだ分析をし、いっときそれを受け入れた一人一人の国民の心にひびく呼びかけができねばならない。そして、今の時代に「市場原理主義に翻弄」されないでやっていけるのか、その道筋はあるのか、小手先ではない大きな見通しを示さなければならない。それは書かれていない。
鳩山論文は「ドル基軸通貨体制の永続性への懸念」を表明し、「世界はアメリカ一極支配の時代から多極化の時代に向かうだろう」と書く。「日米安保体制は、今後も日本外交の基軸」と言いつつ「友愛が導くもう一つの国家目標は東アジア共同体の創造」と述べ、「地域的な通貨統合、アジア共通通貨の実現を目標としておくべき」と書いている。このこと自体は必然的にそうならざるを得ないものとして反対ではない。
しかし二つの問題がある。大きくはその実現には「東アジア共同体」について東アジア各国に呼びかけるの理念と見通しを提示しなければならない。そのためには近代日本のあり方にまでさかのぼる総括が必要で、これなしに説得力はない。もう一つは、日本を取り巻く情勢ははるかに緊迫しているということだ。この秋ドルが暴落する可能性が高い。最近株価や企業の景気観が上向いているとかが流される。しかしそれは作為のはいったものであり、一時麻薬でごまかしているだけである。基本的な事実として、アメリカはこの間、実体の裏付けを欠いたままドルを印刷し続けた。アメリカの幾人かの経済専門家もこの秋のドル崩壊を予測している。いずれこれは不可避なのである。日本は膨大なアメリカ国債をもったままである。そのときこれが紙切れになる。国民の金融資産が霧散する。民主党政権の誕生を待っていたかのように、新たな経済危機が起こることもありうる。今の民主党にこれに対する備えがあるのか。大きな理念と目前の危機、この二つに言及がない。
さらに政治家の政治哲学には、世界観とともに実践論がなければならない。どのように政策を実行していくのか、そこには基本的な人間社会のつかみ方がなければならない。鳩山論文にはそれが足りない。
北原 そうですね。民主党政権の誕生はこれまでの方法ではやってゆけないことが明白になった中で生まれたものです。しかしこれは本当の激動のはじまりに過ぎません。西洋に追いつき追い越せ、そのために最適化された制度、それが日本の政治機構であった。このような体制は資本主義を推し進めるうえでは大きな役割を果たしたが、資本主義自体が地球の有限性に規定されてこれ以上の量的発展が難しいという限界にぶつかったとき、この制度は機能しなくなる。それが今回の民主党政権誕生の意味でした。
しかしながら問題はそこにとどまりません。明治以来の日本国の近代化のために最適化された機構は、単に政治や経済、産業分野の問題でだけではなく、近代日本語と思想方法の内奥までをも大きく規定していた。
そのために、人間が内発的に考える土台、近代の受け継ぐべき側面が十分は準備されてこなかった。
このところに対する問題意識こそ青空学園が最初にもった問題意識であり、その内容は縷々述べてきました。問題を問題としてつかむことは、活路を切り拓く第一歩です。未だここにとどまっているとはいえ、問題の指摘は積みあげ深めてきました。
その内容を時節の動きを背後に感じながら深めてゆきたいと思います。