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昭和天皇の生き様

北原   民主党政権ができました。それを生みだしたのは、明治以来の政治、社会、人間のあり方を根本的に変えていかなければ、これからの時代に対応できなという客観的な事実があります。

そのとき、天皇問題は避けて通れません。この半世紀、実際に戦争を経験した世代から、天皇の責任を問う声が続いてきました。

南海   内発的に考える言葉が準備することなく、大急ぎで近代産業と軍備を拡大していく。そのための国民統合のてことして導入された方法が近代天皇制でした。その行きついた先があの十五年戦争でした。ですからいま天皇問題の現在を考えることは、たいへん重要です。

北原   十五年戦争は日本の歴史において未曾有のことでした。南太平洋から東南アジア、東北アジア、中国大陸と朝鮮半島、いわば日本列島弧にすんでいる人間の祖先の地のすべてに兵を進めたのです。そして大敗北をしたのです。

この戦争は、ぎりぎりの内容は資本主義日本の版図の拡大でした。それが、反西洋の形においてなされたのです。それを統合し戦争を進める結節点に天皇がありました。

敗戦処理の過程で、天皇は自ら責任を負うのではなく、臣下を戦犯として差し出し、自らはアメリカに命を乞うて皇統を守ろうとしたのです。昨年なくなった作家の小田実はその小説『玉砕』(岩波書店、2006/09/08)の前書きでいう。

 この事実(敗戦処理過程)で私が強い怒りをもつのは、ここには期せずして日本とアメリカ、二つの国家の国家権力の結託があるからだ。その結託の中心に天皇があり、天皇の「生命乞い」がまぎれもなくあった。
 この結託の事態で怒ったのは私だけではなかった。フィリピンのミンドロ島の戦闘で辛うじて生きのびたあと捕虜になってレイテ島の捕虜収容所にいた大岡昇平も怒っていた。彼は八月十一目に日本のポツダム宣言受諾を知ったのだが、そのあとの日本政府の正式受諾までの数日間のことを『俘虜記』のなかで次のように書いていた。
 まず「私は『星条旗』により日本の条件が国体護持であることを知って失笑を禁じ得なかった。名目をどう整えようと、結局何等かの形で敗者が勝者の意のままにならねばならぬのは同じことである。彼は収容所で親しくなった米兵ウェンディに言った。「私はこの条件が日本軍部の最後の愚劣であることを認めるが、幸いに貴国の寛大がそれを容れられんことを望む。」そうウェンディに言ったと書いたあと、大岡はつづける。「十二目、天皇の権限が聯合国最高司令官の制限の下におかれるという条件付きで、国体が護持されたことが伝えられた。今度は日本政府の寛大を待つ番になったが、私は結局軍人共がこれを容れることを信じていた。」
 しかしヽ大岡のこの期待は裏切られた。日本政府はなおも正式受諾をしぶった。ウェンディが「我々は日本政府が一目も早く回答することを望むね」と彼に言った。「十三日の『星条旗』は日本の回答の未着を同じ焦燥をもって報じていた。ウェンディの質問に対し、私は日本の戦争犯罪人が自己の生命と面子のためにで天皇を口実に抵抗しているのだろうと答えておいた。」「十四目の報道はさらに悪かった。『星条旗』の調子には威嚇が籠もって来た。満洲で依然ソヴィエット軍が日本車を砲撃していること、ニミッツの艦載機が「日本の決意を促がす」ために、各都市の爆撃を続けていることを報じていた。」そう書いた上で、さらに彼は書き記していた。「私は憤慨してしまった。名目上の国体のために、満洲で無意味に死なねばならぬ兵士と、本国で無意味に家を焼かれる同胞のために焦立ったのは、再び私の生物学的感情であった。」「天皇制の経済的基礎とか、人間天皇の笑顔とかいう高遠な問題は私にはわからないが、俘虜の生物学的感情から推せば、八月十一目から十四目まで四日間に、無意味に死んだ人達の霊にかけても、天皇の存在は有害である。」
 私も大岡同様に、八月一四目午後の大阪空襲で「無意味に死んだ人達の霊にかけても、天皇の存在は有害である」と、彼同様私も「天皇制の経済的基礎とか、人間天皇の笑顔とかいう」、あるいは、これは大岡でなく私小田が言うことだが、日本文化の伝承者として天皇や天皇制という存在がいかに垂要なものであったかというような高遠な問題は私にはわからないが」、八月一四目の大阪空襲のなかで「無意味に死んだ人達」のひとりになり得た人間の「生物学的感情から推」して考える。

南海   実際、もし八月五日までにポツダム宣言を受諾していれば、ソ連の参戦も、広島長崎の原爆もなかった。負け戦と決まれば一刻も早く幕を引くのが民の苦しみを少しでも減らす上での基本である。天皇とその取り巻きは、それよりも天皇制の保持を優先した。

前に『青空学園だより』に載せた飯田進さんの本の書評で私も小田実と同様のことを書きました。


『魂鎮への道−BC級戦犯が問い続ける戦争』(飯田進著、岩波現代文庫、2009)を読む。最初は1997年に発刊され、今回文庫に収録されたのである。これは歴史を主体的に記述したという意味で本当の歴史書である。

彼は日本の戦後に違和感をもって生きてきた。今年も八月十五日の追悼集会では「兵士たちの尊い犠牲の上に今日の経済的繁栄がある」といわれた。私の故郷の地方新聞『洛南タイムス』でも「平和の礎を築いてきた英霊」といわれている。飯田さんは言う。「飢えと病気の苦しみの中で死んでいった兵士を悼む気持ちはわかる。私だって特攻隊員の手紙を読めば号泣する。しかし、理性的に考えれば戦後の繁栄と兵士の死はまったく関係ない。」彼らの死によって戦後の「平和」があるというのは、事実ではない。現代日本のありようからいえば、その死がまったく教訓化されていないという意味で、日本軍の戦死者はまったく無駄死にだった。本当に死者を追悼しその死を無駄にしない道はただ一つ。あの戦争に向きあい、あの戦争を遂行したものの責任を暴き、責任をとらせ、人間としての道理をうち立てることでしかない。これが飯田さんの経験に裏づけられた主張である。飯田さんは、無謀な作戦計画を作った大本営参謀の責任だけではなく、昭和天皇の責任も問う。昭和天皇が終生その責任を明らかにしなかった結果、「戦争を指導した連中は、昭和天皇が責任を追及されないなら、おれたちだって免責だと考えてしまった。日本の倫理的な腐敗がそこから始まったと思う」という。

なぜ昭和天皇の戦争責任は追及されなかったのか。飯田さんも言うように、戦後急速に冷戦の時代になり、アメリカは天皇を免罪して日本統治に活用する方を選んだ。国内的にもそれを歓迎する旧日本軍国主義の流れをくむ勢力が少なからず存在した。その勢力が、一貫して「戦後憲法は押しつけられた。自主憲法を!」と主張してきた。戦争責任を追及するものは少数派であった。

1945年8月15日、日本の人々は日本軍国主義から解放されたのである。これを解放ととらえることができたものが少数派であった。多くは、解放の喜びではなく敗北の悲しみをもった。飯田さん自身はニューギニアの獄のなかで軍国主義思想から自身を解放した。多くの日本人は軍国主義思想を受け入れていた。内因論に立って戦争責任を問い、そのことを通して人間の道理を現実のもにしていく。このことは今もって開かれた課題である。


南海   敗戦直後にも天皇が責任をとって退位すべきであるという意見が出されていました。1948年6月頃、東大総長南原繁の「天皇は退位すべきであると思う」との談話が朝日新聞に載っている。熱心な天皇制支持者だった南原は、天皇制を「祖国再建の精神的な礎」とするため、天皇は道義的責任をとって退位すべきだと考えていた(奥平康弘『「万世一系」の研究』)。天皇制を支持するがゆえに退位すべきと考える。これは筋の通った考え方であった。

南原は天皇が責任をとることなく居座ることが、結局天皇制を衰退させると考えていたし、これは正しかったのです。

同じ年の8月26日付読売新聞は東大教授(のちに最高裁長官)横田喜三郎の「天皇退位論」を掲載した。「過去の最高の責任者がその責任をとろうとせず、国民もまた責任をとらせようとせず、たがいにあいまいのうちに葬り去るならば、どうして真の民主国家が建設されようか」。まことに正論です。

北原   右派の人々のなかからも次のような見解が出てきたことは注目すべきです。雑誌『表現者』(2009年九月号)で中野剛志さんが書いています。

 では、我が国の国柄に合致した政教の関係を踏まえた場合、天皇は、大東亜戦争について、どのように身を処すべきだということになるであろうか。それについて、筆者が最も有力と考える選択肢は、政治学者の河原宏氏の議論である。
 河原氏は『日本人の「戦争」−古典と死生の問で』の中で、太東亜戦争に問し、昭和天皇に問えるのは政治的な責任ではなく、道義的な責任であるとした。その上で、同氏は、天皇が道義的責任を果たすための最善の方法は、退位し、出家することであったと主張したのである。
 天皇が出家することのポイントの一つは、天皇が神道の最高神主の立場から一仏弟子の身に移ることで、神道という一民俗宗教の見地からではなく、仏教という世界宗教の視野から戦争を見直すというところにある、と河原氏は言う。
 例えば、靖国神社は、天皇のために戦って死んだ者のみを祀る場であり、それゆえに、「靖国問題」あるいは「靖国問題の政治的利用の問題」を招いている。これに対し、仏教は、神道とは異なり、敵味方、国籍を超えて、すべての衆生を平等に見る理念をもっている。それゆえ、天皇は仏門に入り、すべての戦争犠牲者を哀れむことによって、敵味方の別なく、特にアジアの民衆の犠牲に対して、道義的に対応することができるのである。
 すべての犠牲者を平等に哀れむという仏教の理念は、日本人にとっても身についたものである。しかも、我が国の歴史上、天皇が仏門に入ることは、なんら異例なことではない。河原氏は、天皇の出家のイメージの例を、『太平記』の光巌院(北朝の天皇であったが、戦乱続きの世を嘆いて出家し、諸国を行脚)に見出している。
 退位した天皇の出家は、我が国の歴史に沿う形式であり、そして仏教による敵味方の別なき供養は、我々の慣習に合致する。それゆえに、出家による道義的責任への対応こそが、我が国の国柄にもっとも相応する責任の果たし方であった。天皇は、国柄にあった身の処し方を自ら示すことで、敗戦という国家的危機にあって、国柄の所在を指し示し、国をまとめることができたはずであった。また、それが天皇の存在意義のはずであった。
 天皇出家論を唱えた河原氏の主眼も、歴史と国柄を回復するという点にあった。「敗戦と占領によって、日本人が唯々として、あるいは喜々として自らの歴史を破却したことは、その後の無責任状況到来の一因となっている。歴史を捨てて、人は道義の依るべき根拠を見うしなう。」「道義的責任を没却した日本人の戦後姿勢は、まさに戦後史の内に明証されている。これこそが天皇の戦争責任だった。」(『日本人の「戦争」−古典と死生の間で』)
 天皇は、人智を超えた危機にあっては、我が国の国柄を確認・回復するという使命を負った存在なのである。そして、そういう使命を課したのも、我が国の国柄であった。しかし、敗戦と占領という危機にあって、天皇はその本来の使命を果たさなかった。それゆえ、戦後、国柄は棄損されてしまった。当然のことながら、国柄が定めた天皇の微妙な位置づけも忘れられ、不毛な戦争責任論が継続する事態を招いた。
 河原氏が、本当に問うているのは、天皇の戦争責任ではない。むしろ戦後責任なのである。

南海   しかしながら、この意味での戦後責任は果たされなかった。

もし昭和天皇が戦争責任を一身に背負って死んだならどうなっていたか。法でどのように規定されるかにはかかわりなく天皇の権威はかぎりなく高まり、戦後の日本人は死んだ天皇を背負っていくしかなかった。

北原   そして天皇制は続いています。天皇のことは戦後天皇制として再編され持続しています。日本の歴史を顧みると、今日のようなあり方のときがほとんどです。徳川時代は禁中並公家諸法度で徳川の法のもとにおかれていた。今日は日本国憲法のもとにおかれている。江戸の法はあくまで徳川の法であり、したがってまた幕末それは無視され、天皇は反徳川の旗印となった。今日の法は国家法である。そして歴史的な天皇のあり方を具象化した「象徴」とされている。

北原   どのような政治的な対立があっても、それを超越するという虚構のもとに天皇を最後の調停者としておいておくことは、日本のような島国での支配者の智慧でもあったのです。列島では、徹底して争っても結局は島のなかで生きていかなければならない。大陸のように辺境に逃れることもできない。そこで争いから一歩引いた権威が保存されるのです。イギリスもまた島国でそのゆえにいったんは廃絶された王家がよみがえり、立憲君主として権威をもったのと同じことです。

南海   天皇はもともとは二、三世紀にこの地の支配者となった。その支配が、支配者側の文化や文物をおしつけるのではなく、逆に征服した土地の習俗、民俗を取り込み代表者、その文化の発信者としてふるまったのです。古代を経て鎌倉期以降は実際の支配権力は封建支配者や明治以降は近代資本家の手に移りますが、一方で最後の権威者として一貫して歴史のなかに存在し続けました。

北原   このあり方は支配者にとっては都合のよいものでした。しかし同時に民百姓のなかに人間原理が育ちません。日本の歴史は同化と差別の歴史でした。前にも言いましたが日本列島弧の少数民族はアイヌだけです。台湾島でも十を越える少数民族がいるのにです。それだけ古代から平安期にかけての同化政策、支配者の同化指向が強かったのです。天皇という一つの文化的権威を支配のてことする以上、同じ支配権力のもとに別の文化を認めることはできなかったのです。

国学者は明治革命期に天皇のもとの平等を掲げました。昭和維新もまた、その思想によって、金持ちやそれに使える役人支配を打倒しようとした。しかし、天皇の本質の一面は差別なのです。部落差別を典型とする差別です。それは単に人民同士を分断し対立させるといったことではなく、差別する側でもされる側でも人間としての尊厳を奪ってきたのです。天皇のもとの平等は空想でしかないのです。

南海   一君万民の国学思想は自己矛盾している。

北原   天皇制から自由になるとは、いわゆる反天皇を意味するものではありません。天皇制の基礎となる虚構から自由になることであり、天皇そのものとは、千八百年にわたってこの日本列島弧にともに暮らしてきたものとして、互いに認めあうということもありえます。これはこれから大いに議論すべきことです。

戦後民主主義や市民主義の運動はやはり底が浅く、それを深い根のあるものにしたいくこともまたこれからの問題です。問題はすべて開かれたままなのです。これまで書いてきたことをまとめておきます。

第一
太平洋戦争は日本歴史上空前のことであった。古代以来の事々を総動員して闘った。そしてやぶれた。遂行する制度を支えた官僚制度は、結局は無責任の体制であり、そのもとでまことに多くの命が空しく失われた。
第二
いずれにせよ昭和天皇は責任をとらねばならず、そのことにおいてのみ天皇の再生はありえた。しかしそれはなされなかった。
第三
昭和天皇は退位できなかった。なぜか。戦後革命を恐れたからである。天皇が責任をとることによって天皇制を再生させることはできなかった。

北原  最近になって次のような報告を入手した。天木直人さんのメールマガジンである。これを傍証として紹介する。 皇統の保持を第一とした天皇とその周りの人間のためにポツダム宣言の受諾が遅れたのだ。七月に発せられたポツダム宣言を八月五日までに受諾していれば、ソ連の参戦もなく、広島・長崎の原爆投下もなかった。その昭和天皇が戦後広島を訪れたとき、人々は歓迎したのである!! これが戦後日本の実相であった。

天木直人のメールマガジン2010年11月15日発行第202号
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昭和天皇が反共だった事を示すエピソードをまた一つ見つけた
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テレビでおなじみの三宅久之という政治評論家が、「書けなかった特ダネ」と題する新書(青春新書)を出した。その表題につられて読んでみた。元毎日新聞政治部の記者というから、さぞかし面白い事が書かれていると思ったらがっかりさせられた。
「たかじんのそこまで言って委員会」、とか「ビートたけしのTVタックル」などという娯楽政治番組の常連に身をやつしてダメになったのか、あるいは年老いてすっかり政治部記者の頃の記憶が失せたのか、たいした「特ダネ」はなかった。
その中で一つだけ私が注目したエピソードがあった。
それは、日ソ国交回復を手がけた鳩山一郎が昭和天皇に日ソ交渉に反対されて狼狽したという秘話である。
これは私も知らなかった。その概略はこうだ。
1955年早春のある日、皇居での内奏からあたふたと官邸に戻ってきた鳩山一郎首相は顔を蒼白にして、「陛下は日ソ交渉に反対された」とうなだれた。側近の河野一郎農相(当時)が、その時の昭和天皇の発言を詳しく問いただした上で次のように鳩山首相 に進言する。
「総理、陛下のお言葉はご質問であり、ご意向の表明ではないのではないですか。政府の決定に陛下が反対されるのは、憲法上ありえないことですから。あくまでご質問だったことにして、日ソ交渉は予定通り進めましょう」
この一言が鳩山の背中を押して、日ソ国交回復の扉が開いた、という。この話は面白い。鳩山一郎よりも河野一郎のほうが政治家としてはるかに腹が据わっていたということだ。
それにしても昭和天皇の反共ぶりは凄い。ゼネストに恐れた昭和天皇が、日本国民は何をするかわからないからと言ってマッカーサーに日本の治安維持を頼んだという話は聞いた事がある。ソ連の日本占領を恐れた昭和天皇が、マッカーサーに在日米軍を認めるから守って欲しいと言って、「憲法9条があるじゃないですか。憲法9条は最強の安全保障政策ですよ」とたしなめられたという話は聞いた事がある。
そして今度のエピソードだ。
因みにこのエピソードに驚いたのは私だけではない。政治評論家の岩見隆夫氏が11月13日の「近聞遠見」で河野一郎の言葉は凄いという間接的な表現で、このエピソードの衝撃ぶりを書いていた。たしかにこれだけは「書けなかった特ダネ」に値する。


AozoraGakuen
2017-02-10