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来し方行く末

北原   来し方をふりかえるのは以下の一文で最後にしたい。これからはただ前に向かって進みたい。

南海   私もそう思います。前後しますが、二〇一二年一月の末にこれまでの様々のノートや資料等を整理し、多くを捨てました。その作業の数日、様々の思いに浸っていたのですが、授業をするために仕事場で準備をしているときに、突然「振りかえるのはるのはもう終わりにして、前に進もう。」との気持ちが起こってきました。

北原   来し方を起承転結でまとめれば、今は転を終えたところです。

一、起

私がそれまでの人生をいささか転換しえたのは京都・北白川での経験であった。中学や高校時代の作文や学習ノートを見ると、何ごとも自分でよく考えている。ある人は、私の勉強上の頂点が高校時代にあり、大学ではその反動で勉強しなかったのではないか、と言う。実際、受験業界で見ているとそういう子供も多いのであるが、私はふり返って、そのように自分で考えていたからこそ、あのように転換しえたのだと思う。その意味であのときの自分の判断を認めている。

その後一九七三年の六月から七四年の一月にかけて、京都ベ平連の活動の一つとして天皇問題を考えるミニコミ誌を出していた。ガリ版刷りのB5版数頁というものであった。最近、実家から送ってきた段ボール箱を整理していて、それを見つけた。読みかえすと、いまにつながる問題意識はかわらない。高倉テルの戦後の『天皇制ならびに皇室の問題』を取りあげ、それを批判している。一言でいえば、高倉テルのような近代主義的天皇批判は無力であり、もっと人々の生き様に即した天皇批判でなければならないということである。

後に,多くの経験を経てこの問題が再び意識され、そして、天皇制に奪われた里のことわりを人々の手に取りもどそうと、集約されたのである。しかしそのためには、里のことわりそのことを言割ることが必要であり、その基礎作業として構造日本語定義集の営みをはじめた。が、七三年当時はまだそこまで考えることは出来ず、このような基礎作業に着手することも出来なかった。その年の秋から高校教員になり時間的にもミニコミを続けることが難しくなった。

私の実際の出発は解放教育運動だった。26歳で大学院を辞め教員になってはじめの六年間は地域の障害生徒の普通校への進学保障に取り組んだ。解放教育運動が、部落の子供の教育保障から、より広く教育権の地域における確立という普遍的な立場に立ち得ていたことを意味している。その後の六年間は、職場組合の委員長として地域の教育のための共同闘争に専念した。

もとよりこのような運動は紆余曲折を経るものであり、中曽根行革の流れのなかで、この高校を廃校にしようとする動きが加速した。その最初は組合弾圧であり、私と書記長に停職の処分をかけてきた。これは後に裁判を経て撤回させたが、県の高校教員組合は、問題を民主主義や人権への攻撃と捉えることができず、職場の組合を支援しなかった。また、兵庫県下の解放運動や教育運動にはさまざまの意見や運動の分岐があり、心から団結していたとは言い難い。

そのなかで委員長であった六年のうちはじめの三年間は主導権をもってやっていたが、あとの三年間は担がれていた。その責任は私の未熟さにあった。当時の自分をふりかえると、属していた政治党派にあった形式主義を、どれだけ現場で克服できていたかといえば、十分ではなかった。

二、承

一九八〇年,尊敬する徳田球一を継承することを掲げる党派の結党に参加した。徳球,これがこの党派を選び取った理由であった。その後、一九八七年三月、専従になるために退職した。職場集会を開き、自分のことを隠さずにいい、立場は変わってもともに闘うことを確認して認めてもらった。その夜だったか、私を担ぐ側の人たちが家に来て、やめることに反対し、説得に来た。しかし私は、こちらがやっていた対外的な諸関係を、これからは君たち自身でやりなさいということで、説得には応じなかった。

そのようにしてはじめた専従としての党派活動であった。が、しかし結論としていえば、私の党派活動は、敗北だった。中央の経済活動は結局バブル経済に躍らされていた。貴重な経験を多くしたし、いろんな人との出会いもあった。もっとも信頼できる友人もこの時期の人だ。しかしいろんな意味で党派の活動としては敗北であった。

三、転

党派を離れまったく孤立して一からの出直しとなった。この時期、家族には多くの心配をかけた。これもいちいち記さないが、いまになって一層それがよくわかる。路頭に迷いかけたときに助けてくれたのが、前の高校の職場の同僚で、その後、彼も職場を離れ塾などで教えていた。お前は結局数学を教えるしかないのだから、と塾での仕事を世話してくれた。いろいろつてを頼り予備校でも教えはじめた。

その頃、予備校からテキストと解答を受け取って読んでみた。しかし自分の高校生の時のことを思い起こすと、こんな細々とした勉強はしなかったし、それでも数学は得意科目だった。もっと本質的なところをつかんで、自由に考えるということを身につけた方がいいのではないか。そう考え、自分で教材や教え方を工夫してやってきた。そこで工夫した事々や、教えるためにその背景や土台を自分で勉強した事々、これらをウエブサイトに青空学園数学科として公開してきた。このサイトは多くの人の支持を受け、ここで学んだという人も結構いる。

日本の学校教育は、大きくいえば、生徒を賢くするのではなくただ従順にすることを目指すものになっている。良心的な教師の個別の努力によって学校は支えられているが、そういう教育に金はかけられないとなれば、廃校にする。最近も定時制高校などの統廃合が続いている。このなかで、せめて、自分で考えようとする高校生に、その一助となる場を造りたい。これが、私の置かれた場で何とか出来る最低限のことであった。

これは何を意味しているのだろうか。党派の時代からいろんな文書を書きためていた。これを客観的に見ながら考えていく場として、ウエブ上にサイトを持つことを考えた。しかし経済的破綻の後遺症でクレジットカードは作れず、当時は電網空間につながることもままならなかった。ようやく九九年になって電網接続ができるようになり、自己サイトを持つことができた。

こうして電脳空間の仮想学園として『青空学園』をはじめたのだ。かつて大学への進路を決めるとき、本当は理系としての哲学や言語学があれば、数学は趣味にとどめて、そちらへ行っていたかも知れない。文系理系の分離は日本の入試制度の根本的な弊害であり、その根は深い。ここは自分で考えた本来の知のあり方を、できるところからやってみようとして、学園という形をとったのだった。

言葉と数学は文明の基本的な方法であり、土台である。現代においては人間の土台そのものである。これを一つの文明の土台として統一的に掘りさげること。これがなされねば、その文明の近代は砂上の楼閣である。近代日本文明は、まさにこの問題を避けてきた。固有性を大切にしながら、普遍性を実現することはできるのか。あるいは固有性自体を展開し、近代的な普遍を乗り越えることはできるのか。このような問題意識のもと、固有の言葉と文化の土台を耕すことを試みようとした。

大学をやめたとき、もう数学を勉強することはないだろうと考えた。しかし、それから四半世紀を過ぎて、再び青空学園数学科の読書会で数学の勉強をはじめたのだ。高校数学を見直していくなかで、言葉を越えた人間の根底的な営みの一つに数学があることを再発見し直したことが、いちばん大きい動機だった。同時に、やはり数学は捨てきれなかった、というべきなのかもしれない。

学生時代、教員時代、党派の時代、再び数学教師の時代、それぞれ、今思えば中途半端であった。一所に居続けることはできなかった。自分のなかにある問題意識と、現実の場でさまざまの人間関係のなかで実際にしていることの間に、つねに乖離があった。何をしているときも、問題はそんなところにない、という声が聞こえてくる。そこには、現実から逃避する意識もときに働いていただろうが、やはり問題は未解決のままだ。そのために、現実のことにすべてをかけることができず、遍歴放浪をくりかえしてきた。

近代一般の空洞、日本近代の空洞、それが今日の、多くの自死する子供や大人を生み出している。それぞれの人にはかならずその人をして人としている言葉がある。それを「固有の言葉」とよぶ。人間が人間であることを成立させている言葉、つまり人間の条件としての言葉、それが固有の言葉である。固有の言葉のうちから考えることをはじめなければ、人間は人間たり得ない。足下から言葉を耕していきたい。その言葉があれば、人間は死なないはずだ。

四、行く末

以上が来し方である。冒頭にも書いたように、来し方を振りかえるのはもうこれを最後とする。前に向かって進みたい。

現代文明における方法としての数学をとらえ直したい。文明を規定する数学的実在を少しでもつかみたい。数学は文明とともに古い。それが近代文明のなかで再発見された。西洋において再発見され、近代文明の根本的で基本的な方法となった。真の近代化は数学を発見しなければ、内発的なものとはならない。根拠を問い、公理系の構造を問う超数学的視点が数学自身を発展させる原動力の一つであった。この意味を考える。

哲学も数学も知識ではない。実践そのものである。人間の判断力や批判力につながらない哲学や、「わかる」という経験ぬきの数学は数学ではない。この哲学や数学のもつ実践性こそ教育の柱である。日本の文教政策は明治以来一貫して愚民政策であった。国家の愚民政策に抗い、人民は自ら考える力を鍛えよう。国家から独立し、これを食い破るような、人民の自己教育の協働の場を小さくても作る。

その場において、日本語の再定義を進める。

根のある地についた変革の思想は、まだない。われわれの側ですら、相も変わらず思想を外に求めている。私自身、さまざまの試行錯誤を経た。根のある変革の思想の決定的な重要さをかみしめている。ないときに、生み出されるまで耐える力が必要だ。なし得るところから、原則を譲らず、一歩一歩、である。歩みが遅く寿命が間にあわなかったとしても、それはよい。

このように考えることができる視座を、自己の存在として生み出した来たことはまちがっていない。また、これしかなかったともいえる。核惨事は、やはり、もういちど人間が日本語で生きることができる場を耕すことを求めている。この道を行くしかない。

今はこのように考えている。しかし、少し立ち止まって考えて見れば、私のこれまでの人生など小知識人の独り相撲にすぎない。そのとき、そのときは力のかぎりするべきことはした。そのことに悔いはない。しかし客観的に見て独り相撲の自己満足という面があることを心得ている。人間というのはそういうものだ。いくつかのことをもう少し深めたい。あとは、のちの者に託すしかない。人生をともにしてきた家族と困難なときに助け合った友人に心から感謝する。


AozoraGakuen
2017-02-10