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歴史を忘れず

北原   2008年になって、雑誌や単行本で何かとよく六八年の闘いがとりあげられます。

南海   確かに。一つは若林監督の『実録連合赤軍』が公開されたことも大きいと思います。ここにえがかれた歴史に直接の関わりをもった当事者のなかには、細部においていろいろと違いを指摘する人もいます。しかし、大きくいって人民の側から連合赤軍を歴史として残そうとする意志は実現していると思います。

北原   もう一つは、日本においても規制緩和という名の新自由主義が90年代前半に準備され、むき出しの資本主義的搾取が社会の各分野で次々あからさまにおこなわれるようになりました。その結果、21世紀になって日本国においても貧困と社会の荒廃が誰の目にも明らかになってきたということがあります。今問題となっていることに対する本質的な問題提起がすでに六八年の闘いのなかで出ていたのではないか。社会がその記憶を取りもどそうとしているというべきかも知れません。

革命の歴史を物語にして後世に語り継ぐ、このことについていえば『平家物語』がまさにそうです。平家物語は古代律令制から封建制への革命期に、武家の出でありながら貴族主義に陥った平家と、武家の世をめざす源氏の革命闘争の記録です。それを敗者の側からえがくことによって、革命期に人はどのように生きたのかという歴史の真実が、勝ったものの自己正当化ではない言葉で語られています。

明治革命では、島崎藤村の『夜明け前』や長谷川伸の『相楽総三とその同志』などに物語として明治革命のこころざしが語られています。司馬遼太郎の『龍馬がゆく』『世に棲む日々』『花神』などもまた優れた物語です。しかしそれでも明治革命全体の物語はまだありません。

『将門記』にはじまり『平家物語』、『太平記』と、日本では歴史を物語る伝統が根付いています。人間の革命期の生きざまが世の中の深いところに記憶されていくことが、あの六八年にも必要です。革命のなかでこころざし半ばにして倒れたもの、あるいは道をはずしてしまったもの、それら草莽の生きざまを記録し残すこと、それが必要です。

南海   今、日本でも若者が自分の生き方としての反乱に立ちあがりつつあります。2008年のメーデーなんかにも新しい生きざまが表に出てきています。それは素晴らしいし希望もあるのです。しかし、この運動も世の闘いの記憶と繋がらなければ一過性のもの、失われた10年の世代だけのものになって終わってしまいます。老人切り捨ての問題と貧困若者の問題が同じく困民の問題として結びつき、闘いの歴史とつながることを願っています。歴史の記憶を継承するという意味で小林多喜二の『蟹工船』が読まれることに大きな意義があると思います。

北原   一つ闘いの継承という意味でもう一つ重要なことは戦後革命です。この時代の運動の中心にあったのは、労働運動は産別会議、政治運動は徳田球一の日本共産党でした。1949年の中国革命の勝利によって東アジア、引いては世界の勢力関係が大きく変わります。社会主義陣営の拡大です。この現実の前にアメリカ帝国主義は急速に反動化します。そして朝鮮戦争です。このような世界情勢の変化に共産主義運動はどのように対応するのか。これをめぐる混乱が起こります。この時代の闘いについては『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』(脇田憲一著、2004年、明石書店)に詳しいです。

このとき、日本共産党はいわゆる所感派(主流派)と国際派に分裂します。六全協を経て共産党は議会主義に支配されます。議会主義に飽きたらない青年は共産主義者同盟などを旗あげし、いわゆる新左翼が生まれます。しかし新左翼も国際派の中から派生してきたものであり、そのため戦後革命を闘った共産党主流派とそのもとでの闘いや産別会議の闘争は継承されませんでした。私は徳田球一を尊敬していました。徳田球一の継承を掲げる党派に参加したのはこのためです。

ナチスと闘いぬいたフランス共産党は、肯定するにせよ批判するにせよ巨大でした。徳田球一らもまた獄中18年を闘いぬきました。しかしそれは人民闘争ではありませんでした。これはそれぞれの国と民族の歴史でありその歴史のうえに次に進まなければならないのですが、戦後革命の継承という点において日本の新左翼は歴史を清算して継承してはいなかったと思います。

私は上田等さんにひとかたならぬ世話になりましたが、上田さんはかつての日本共産党主流派に源をもつ人です。それは『大阪の一隅に生きて七〇年〜私の総括〜 自伝』(2002 創生社)に詳しいです。その人が六八年〜72年の時代に大学を離れた人間をたくさん引き受け、生活の場と闘いの場を作ってこられたことは、貴重なことです。事実としての協働の場、これが重要です。この意味は大きい。

私は、徳田球一の伝統や戦後革命期の記憶、60年安保闘争と六八年の闘いなど、戦後60年の人民闘争を物語ることは今こそ大切ではないかと考えています。それは、書いたものの中にだけではなく、人びとの記憶として残らなければならないのです。その蓄積が次の高揚期の質を決めます。

南海   新左翼は「反スターリン主義」を掲げました。

北原   私は「スターリン主義」という主義があるとは考えません。ナチスドイツや日本軍国主義のファシズムは結局は社会主義に対抗するものです。ファシズムに包囲されたなかでいかに闘うのか。この観点からスターリン時代を考えなければなりません。

スターリンの時代のソ連は反ファシズム連合の中心として1000万人にのぼる犠牲を出して闘いぬきました。中国人民もまた800万人の犠牲を出して日本軍国主義と闘いぬきました。その中心にスターリンや毛沢東がいたことは事実です。そのなかで多くの誤りもまたあったのだと思います。しかしそれは闘いのなかで生まれた未解決問題であるということです。後のものが、まさにこれから21世紀の闘いのなかで解決していかなければならないのです。反ファシズムの闘いの社会主義の立場からの継承、これがいまほど求められていることはない。

南海   なるほど。反ファシズム連合の勝利があったからこそ、戦後の日本における政治活動の自由もあり、それがあったからこそ新左翼もありえた。新左翼が「反スターリン」をいうことは、存在の基盤を自ら否定することになるのではないか、ということですね。

北原   もちろん、われわれはかつて党派に属し、その党派もまたスターリン問題についてはいま述べたことと同じようにいっていました。新左翼の人からいえば「だから破産したのだ」という批判はありえます。私自身はスターリンの未解決問題をこの党派もまた解決できなかったから破産したのだと考えています。これはまだまだ考えなければならない問題です。

はじめの対話の締めくくりに、青空学園の初心を互いに確認したいです。現実の青空学園はわれわれがはじめたのです。が、最近私は、この学園は昔からあった、そこに自分が青空学園にやってきたというふうに思うことがあります。青空学園は、すでにある「何々として」にとらわれず、人間として考える場です。

人間として考える場としての青空学園で一人は日本語科に、一人は数学科にやってきて出会ったのです。

『青空学園の初心』に書かれています。

青空学園は1999.8.27 にはじまった電脳世界の仮想学園です。その理念は、人間として自分の力で考えぬく ということにつきます。この世界のすべてのことを、自らの内の力で徹底して考える、ということである。この学園はだれでも参加できる。必要とする考える力は、およそ、高校生の段階を目安にしているが、これとて大きな幅のあることであり、参加資格は、疑問を大切にして大いに考え大いに議論すること、これだけである。 自学自修、そして大いに対話する、これが青空学園の方法である。
すべてを、ただ人間として考え、そして生きよう。青空学園が将来どのように発展していくかはわからない。初心を忘れず現実に立脚し、しかも日本国の学校制度からは自由に学ぶ場として育てたいと考えている。ともに考え、ともに学び、意義ある人生をともに生きよう。

いま話しあっている事々のはじまりはこの初心にあります。これは忘れてはならないと考えています。

南海   私は、教員になったときからおよそ四半世紀を生きて、そして青空学園数学科に来ました。90年代後半に今の塾で教える仕事に就いたのですが、はじめの頃はいったんは忘れた数学を思い起こし、高校数学の周辺領域を再確認していくのに精一杯でした。青空学園数学科は、そこで考えた内容を客観的に見直していく場ともなりました。そして、2000年代になってようやく高校数学の方法を系統立って考えることができるようになりました。私が『高校数学の方法』にこだわるのも、70年頃の生きる方法の模索があるからかも知れません。

2000年頃から青空学園で数学書の読書会をはじめました。これは私自身がもういちど数学を勉強し直すということでした。最初は『解析概論』からはじめて2007年末には『数論I』に至りました。ここに至る道は紆余曲折と言うべきです。大学院を辞めて社会に出て働いて三十年です。大学をやめたときには、仕事として数学を教える以外には再び数学に関わることはないだろうと考えていました。また、途中十年近く、他の仕事についたときは、数学を教えること自体からも離れていました。

北原   その十年は党派活動に専念していたときです。

南海   結局、それに破れ、生活のために再び数学を教えはじめたのです。以来、高校生に数学を教える仕事に携わってきました。強く感じるのは、近年の高校生の変化であり、人間の変化であり、学問という営みの危機です。六八年の問題そのものです。

そこで同じ青空学園のもとでそれぞれが考えていくことになったのです。近年の高校生の一般的な考える力の衰退はすさまじいです。しかしそのなかで自分の力を自分でつけていこうとする高校生もいるのです。彼らにもっと適切な材料を提供したいものだと思っています。

数学は実際には文明の土台です。にもかかわらず、高校では単なる受験科目の一つにおとしめられています。これを見るにつけ、草の根から数学を根づかせるために、できることはしたいと考え読書会をはじめたのでした。

北原   われわれは数学を専門にしようと大学に入り、大学闘争の渦中でそのことを見直し、その過程を経てそれとは異なる道に進みました。私は高校生の時、大学の学の学部をどこにするかというときに、言語学をやりたい気持ちもあったのです。が、言語学はいわゆる文系学部で、数学を生かすことができないように感じたのです。数学を身につけることで自由に考えることとそして生きることができるように思え、そこで数学科に進みました。が、根っからの数学人間というわけではありませんでした。言語学が理系学部、あるいは文系理系以前の基礎学問という位置づけがあれば、そちらに進んでいたかも知れません。その後、個人史に書いたような紆余曲折を経て青空学園でやってきたのです。

南海   やはりわれわれは、六八年から70年代初頭の時代が求めていたことを自分自身の問題として考えるところから、はじまりました。そのことは忘れないようにしたいものです。

北原   青空学園をはじめて十年を迎えます。初期のものを読みかえし、今をふり返ると、ずいぶん深く考えられたということを確認することができる一方、初期の問題意識からすれば、まだほとんど進み得ていないこともわかります。

このような対話を踏んで、さらに深く広く考えたいきたいと思います。


AozoraGakuen
2017-02-10