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人間の定義

南海   定義集では「人間」が次のように定義されています。 用例を除いてここに挙げてみます。
【人間(にんげん)】「人」を「言葉をもって協同して労働する生命体」としてとらえかえすとき「人間」という。人の人であるゆえんを「人」に付け加えた言葉。人が自らを人として自覚するのは社会のなかにおける自己という認識を土台にする.さらにこれが近代にいたって資本主義の成立とともに言葉をもって労働する生命として人をとらえかえすようになる.この意味で「人間」は近代に発見され,この意味での「人間」は近代日本語ではじめて用いられるようになった。
▼もともと「人間」は「人の住む世界」「人間界」を意味し、「じんかん」と読まれることが多かった。
◆この言葉が近代になって、「人」を概念としてとらえるときに用いられるようになった。
近代は「人」を「言葉をもって協同して労働する生命体」として再発見した。これは、近代資本主義が勃興する時代に始まり、近代ブルジョア革命と資本主義生産制度のもとの産業革命によって社会が根本から変化して全面的に用いられるようになる。日本語でいえば、江戸期に今日に通じる「人間」の用法が始まり、「明治維新」と「殖産興業」による近代工業の成立以降になって一般化する。
明治維新は日本に資本主義を全面化させ、産業革命を準備した。産業革命の求める大規模な生産を可能にしたのは「自由」な(封建制度から自由になったが、しかし同時に搾取されることにおいても自由な)労働者である。明治資本主義の本源的な資本蓄積は農村の収奪によってなされた。その結果、農業で生活できず都市に多くの労働者が流出した。こうして労働のみが生きる術である労働者が生み出された。「自由な」労働者の出現である。
労働によって何が維持されるのか。それは生命と人間相互の関係である。労働は個人の労働ではない。すべて協同労働である。協同を可能にしているものは何か。それは言語である。これが「人というもの」である。このように再発見された「人というもの」が「人間」である。
もっとも早く「人間」を発見したのはもっとも早く資本主義段階に到達した西欧近代である。フランス革命に向かう時代にキュビエによって〈生命〉の概念が確立する。資本主義の展開は西欧人をこれまでとは違う言語に直面させ、言語の比較分析は、言葉の内部構造の探求へと向かい、〈言語〉の概念が確立する。スミス、リカードによって〈生産〉の概念とそれ担う〈労働〉の概念が確立する。学としてそれらは、生物学、言語学、経済学を確立する。
「人」を「労働し言語をもつ生命」として再発見するのが近代である。このようにして再発見された「人」を「人間」という。これは近代資本主義が定義する人間である。資本主義は人間を「人的資源」として把握する。「生命の尊重」という建前も、労働力は生きていてはじめて価値を生み出すからである。資本主義のいう生命の尊重は労働力としての尊重に他ならずそれ以上ではない。労働力としての力を失ったもに対してその生命を尊重することはない。
人の価値は生産活動につながるかどうかで定まるものではない。生産活動は人間にとって目的ではなく手段である。では人間の目的は何か。それは新たな人間性であり、資本主義的近代の人間を超えることである。二十一世紀初頭、未だそれは見出されていない。その探求こそ、現代の人間の目的である。

北原   これが定義集の「人間」です。「近代の人間」の定義であり、近代の「人間の定義」です。近代資本主義は人間の生命を資本主義的な価値を生み出すものとして見出しました。人間を生産資源として見出したのです。

そしてそれは実は人間の価値ではない。真の価値は、これを超える新しい人間の意味を見出すことだ、このようにいいたかったのです。

一方、 「人間として」の「人間」はこのような近代的人間ではないはずだと批判し、一気にそれと対抗する価値を生み出そうとする人もいます。その通りというべきかも知れません。

しかし、近代の定義を一足飛びに観念だけで超えることはできません。現実に新しい人間はまだ生まれていないのです。「人間として」ということは、近代資本主義の人間を乗り越えていく歴史の運動としての「人間」であり、定義集はまず近代の人間からはじめなければならないと考えました。

南海   人間を基礎とするということは、フランス革命の理念であり、革命はこの理念のもと人民の力を集めて王制を打倒したのです。しかしその後、ブルジョアジーは労働者や農民を裏切る。

北原   それは近代ブルジョア革命の一般的な道筋です。明治革命も同じことでした。典型は隊長相楽総三に率いられた赤報隊のたどった経過です。赤報隊が掲げた「年貢半減」はまさに人間としてのスローガンだったのです。この旗の下に民百姓は東征する官軍を歓迎した。しかし明治革命の帰趨が決するや、大商人の意図を受けた岩倉具視らは、赤報隊を偽官軍として除く。これは私の「『夜明け前』を読む」に書いたところです。

ブルジョア革命の常道として、明治革命でも権力が確立するや、人間原理は圧殺された。日本近代の諸問題は、ここで圧殺された人間原理をいかに再構築するかという問題を基調の底流としているのです。

人間原理はもはや古いということが言われます。しかし私はそれはまだ現実化していないがゆえに新しいと考えます。あるいは、今日、剥き出しの資本主義が世界大に出現し、そして山を越えつつあるときこそ、近代革命のはじまりのときに掲げられ、その後資本主義が成立する中で投げ捨てられた人間の原理を、再度われわれは現代において掲げ直さなければならないと考えています。それが、近代資本主義の人間を乗り越えていく歴史の運動としての「人間」ということです。いずれにせよ、歴史を観念で飛び越えることはできないのです。

南海   私もそれには賛成です。新自由主義はまだまだ根強く続きます。これを超える人間が世界大に生まれてこなければなりません。人間としての原理を問い直し、地に足のついた言葉でこれを語り、新しい人間の血肉とならなければ、次の段階はありえません。

北原   現代において「人間として」とは何を意味し、いかなる生き方であるのか、それがこの対話の基調となる問題意識です。人間を再度定義することが必要です。

南海   定義集の「人間」は「人」を基礎にし、そのうえで人と人間の関係を定義しています。では人とは何か。定義集には次のようにあります。用例と他書への批判部分を除いて引用します。

【ひと(人)】[hito]←[fito]
■「ひと[hito]」の「ひ[fi]」は「ひ(霊)[fi]」の[fi]とおなじく生命力そのものを示し、「と[to]」は「と(処)」、つまり「そと(外)[soto]」の[to]と同じく場所を意味する。「生命力のとどまるところ」としての「人」が、日本語が人間をつかんだ原初の形である。
協同労働と言葉を獲得することによって、考えることが可能になった霊長類を人という。近代にいたり,労働し言語をもつ生命として人が「人間」として再発見された。
▼動物に対するものとしての人。
▼一人前の人格をもつものとしての「ひと」。
▽具体的な人を表す場合。 ▽抽象的に人というもの一般を表す場合。 ▽人間の品格。人柄。人品など人としての内容そのものを意味する。
▼人を一般的に示す。漠然と示す

南海   さてこれは、「人間として」ということを生きる土台としようするときに、その根拠となる定義でしょうか。これは,日本語の相互関係のなかで何かを定義しています。しかし、人を定義するということはどのようなのか。定義するということは、人間とはこのように生きるものであるということをいいうるものでなければ、無意味だと思うのです。

北原   私はかつて『準備的思索』「歴史を尊重しよう」のなかで、生命の出現、人の成立、新石器革命、等について論じました。知られていることごとを自分の考えでまとめたものに過ぎないものであり、新しいことはないもありません。それをふまえて上記のように定義集に書きましたが、ではそれで「人」と「人間」が定義されたのかというと、そうではありません。そこを考えたい、考える端緒としたい。

南海   問題はすべて開かれていて、これからです。私たちが生きてきた経験をふまえて、人間を考えなければなりません。森有正がいうように、人間の経験が言葉を定義するのです。言葉は人生を経験が積み重なって豊かになるのです。人間を定義するのは人間です。われわれの経験を省みることです。

北原   変革の思想は根をもたねばならない。根とは根拠です。思想の根拠は人間の経験であり、経験を経験の場の言葉で語ることです。


AozoraGakuen
2017-02-10