同時に数学は、今日のわれわれの生活でなくてはならないものです。工業は言うにおよばず、経済学や社会学でも数学は必須です。数学にはこのように二つの面があると思います。
人類の歴史を見れば数学は文明を支えるものとして機能してきました。数学の専門家の成立はこの200年ほどのことでしかありません。 いったい数学とは何なのでしょうか。
南海 確かに。私も数学から離れることができずにきました。が、ではいったい数学とは何であるのか、わかっているわけではありません。教員時代の終わり頃でしたが、ある日突然高木貞治の『初等整数論』が読みたくなって、学生時代に作った青焼きの写しを読みはじめたことがありました。それは、そこでまた中断し、その後伏流のように心のどこかにあったのでしょう。後に青空学園数学科をはじめ、『数論初歩』をまとめるところにつながりました。
青空学園数学科で自己史を書いたなかで、「文明の方法としての数学」として次のように書いています。
数学は古代エジプトをはじめとする古代文明とともにはじまります。ユークリッドやピタゴラスに代表されるギリシア文明は、古代エジプト、メソポタミア等のアジア・アフリカ文明と北方の古代アーリア人の文明の混交のなかに花開いたものです。それはアラブ世界に保存され、ルネッサンスの西欧が再発見した。いちどは近代西欧文化に収斂し、そして今日世界中に広がったのです。
今日の文明の土台にあるのは、なんといっても数学です。数学がなければ、初歩的な技術も設計も機械の運転も何もできません。また、情報技術の基礎にあるのは世界を形式化し数字化してつかみ動かそうとする基本的な傾向です。世界を数学化してつかもうとする基本的な方向性を現代文明は持っています。この基本における仕方こそ、文明の方法としての数学です。数学をを基礎として現代文明は成り立っています。
人間はつねに、ある文明のもとで生きているのですが、そこで生きるうえでの具体的な形を与えるのが文化です。文化は歴史的に形成された固有性をもっています。学術の研究とは、この文化を耕し、文明のもとにおける人間の生き方を豊かにするとともに、文明をもまた改変していくものです。
文明の方法としての数学が、日本の文化のなかにまっとうな位置をしめることができていない。世上いわれる「文化としての数学」は定義があいまいでたいへん底が浅く、とても文明の方法としての数学をとらえる文化にはなっていません。私は、数学が日本社会に根づくとしたら、文化が「文明の方法としての数学」をとらえ直すことからしかはじまらないと考えています。
よく「道具としての数学、ではなく文化としての数学を」ということがいわれます。しかし「文化としての数学」が外部から呼びかけて可能なのかといえば、文化の本質において不可能です。文化は内からの展開以外にはありえません。今、本当に「文化としての数学」が日本で可能なのかと考えると、問題は簡単ではありません。
数学がより普遍的な文化として根づくためには、いちど、現代文明のなかで、数学がどのように普遍的に機能しているのか、あるいは数学を学び身につけることがこの文明のなかで生きる人間にとっていかに大切で、人間形成の根幹の一つをなしているか、そしてそのような数学が現代の数学とどのようにつながっているか、などを掘りさげて考えなければなりません。「文化としての数学」ではなく、文化が「文明の方法としての数学」をとらえる、ということです。
文明と数学の問題と、文明における人間存在の具体的で固有性のあるあり方としての文化、これを明らかにすることです。その前に「文化としての数学」といっても、それは西洋文化のうわべをまねた大変根の浅いものにしかならないのではないかと考えています。私自身、数学と文化、数学と文明の問題は、まだ考え続けている問題です。
「文明の方法としての数学」にまで立ちかえらないかぎり、日本語文化圏に数学が根づくことはありえません。ここを掘りさげ、「道具としての数学」と「文化としての数学」の対立を乗りこえ、日本における数学を再認識し、それにもとづく数学教育を考えることは、すべてこれからの問題です。
わかりにくい書き方です。これまで対話してきたことをふまえ、次のように考えています。