教育とは、その子のうちにある力を引き出し、人そのものを育てることである。一人一人の人を開花させる。そうして現れた人のさまざまな力は,けっして個人の私有物ではない。どんな力も、多くの人々に囲まれ育まれてはじめて開花する。育まれた自らの力は、育ててくれたこの世間に返さなければならない。こうして人を育て,人に支えられる世でなければならない。
この立場で高校生に接し痛感するのは、言葉の力の衰えである。言葉とは、存在を分節してつかむことであり、同時に、考えることそのものであり、それをまとめ、話し書いてゆくことである。この力がおしなべて弱い。何度も何度もこの事実に出会ってきた。
考える力の衰退という現実に出会うことで、自分自身が高校時代、現代日本語への違和感を強くもってきたことに改めて気づいた。その頃読んだ哲学の本の中に「思考する」という言葉が何度も出てきた。しかし高校生の自分には「思考する」とはどのように頭を働かせることなのか分からなかった。「思う」は分かる。「考える」も分かる。だが「思考する」は分からなかった。高校生の私は「思う」と「考える」は別の言葉だと考えていた。
私のことをほんとうに思っているの。
そうだよ。
なら、もっとしっかり考えてよ。
この対話は、思うことがただちに考えることではないことと、本当に思うのなら考えるはずだ、ということを意味している。別の言葉だからこそ、この使い分けができる。
ところが近代日本語は、これをそのまま繋いで「思考する」という言葉を作った。これは英語の「think」等の翻訳に用いるための漢字造語であって、それまで用いてきた日本語に根ざした言葉ではない。
かつてドイツに留学した日本の哲学徒の部屋の掃除に来たメードが、窓をあけるときに「aufheben」と言った。「aufheben」はヘーゲル哲学の基礎概念で「止揚する」と訳している。それで「ドイツではメードまでこんな哲学語を使うのか」と感心したという話がある。しかしこれは逆で「aufheben」は誰もが使う日常語なのだ。それを抽象して基幹の言葉に育てたのがヘーゲルなのだ。
ドイツに学ぶのなら、何よりこのような日常語と哲学語の関係をこそ学ぶべきであった。だが、近代日本は、西洋の知の肝心なところは学ばず、結果のみを漢字語を作って移入した。ここに近代日本語の基本問題がある。
このような近代日本語のあり方にこそ、高校生の考える力が弱い根源がある。ここを何とかしていかなければ、高校生の言葉の力が衰える一方である。それどころか、日本語の世界は次の時代には人の言葉としての役割を果たせないのではないか。このことに思い至った。
ならばこの問題をほりさげて考えねばならない。これは言葉の専門家や教育にかかわるものだけの問題ではない。言葉の意味を自覚して問い、そして言葉をいつくしむことが、一人一人の日常の営みとして根づかなければならない。そういう文化でなければならない。そうなら、言葉の素人が言葉に向きあうことには意味がある。これが私が言葉にかかわる根拠であった。
ではこの日本語を、もういちど人の言葉として甦らせるための基礎作業は何か。
時代は近代日本語の見直しを求めている
日本語をもういちど定義し、大転換の時代をに日本語とその言葉で生きる人々が甦る。それが、近代の果てにおいて、いま歴史が求めることである。とりわけ次の二つの事実がそれを鮮明にしている。