next up previous 次: きく 上: か行 前: かわ(川)

かんがえ

かんがえ(考える)[kamugae]←[kamugafu]

◯「かむ[kamu]」は、「かみ(神)[kami]」を根拠に協同体を「結ぶ[musubu]」ことであり、[gafu]の[ga]は[muka]から転じ「向かう」の意味。つまり[kamugafu]は協同体を結ぶ場で「向かう」ことである。

「かみ(神)[kami]」の[ka]は「アリカ」や「スミカ」の「カ」と同じく人が働く根拠としての場と、それを成り立たせている(結ぶ)もの([mu]→[mi])、つまり協同体をまとめるはたらきそのもの、これが「かみ」の基層の意味である。

※「かむ[kamu]」はタミル語由来。二つ揃って真とする日本語のなかで、「考える」は「思う」を対の言葉として熟成した。

◆ものとものとをつきあわせ、もののことをわる(分析・判断する)こと。「考える」ことは次の三つの段階の総体である。

第一に、この世界のある範囲のものの集まりを一つの「こと」としてとらえる。

第二に、「こと」としてつかんだ中にあるものとものをつきあわせ、その関係を調べる。

第三に、「こと」の仕組み、つまりことの内部の構造を知る。「考える」の連用形の名詞化として「考え」は、考えた結果の内容を表す。

「考える」という行爲は、自己の内部でなされる自分自身との話しあいがその実体である。自己との内部対話、これが考えることである。

古形は「かむがふ」であり、「かむ」は、「かみ(神)」を根拠に協同体を「結ぶ」ことであり、「がふ」は「向かう」の意味。つまりは協同体を結ぶ場で「向かう」ことである。

その「かみ(神)」の「か」は「ありか」や「すみか」の「か」と同じく人が働く根拠としての場と、それを成り立たせている(結ぶ)もの、つまり協同体をまとめるはたらきそのもの、これが「かみ」の基層の意味である。

「思う」と「考える」は別の言葉であり、そのうえで、「思う」と「考える」の二つがそろってはじめて「真(ま)」となる。一方を欠いては真ではありえない。これが日本語のことわりである。こうして、二つ揃って真とする日本語のなかで、「考える」は「思う」を対の言葉として熟成した。

▼「かみ」においてものとものを向かい合わせ対比して比較しその違いを調べること。

※古代中世では次の三つの意味で用いられた。

▽調べ吟味して罰を与える。◇『天武紀』下「かんがふべきはかんがへ、杖(ウ)つべきは杖たむ」。◇『拾遺雑』「かしら白き翁の侍りけるをめしかんがへむとし侍りける時」

▽占いの結果を判断する。◇『源氏物語』桐壺「宿曜(スクヨウ)のかしこき道の人にかんがへさせ給ふにも、只同じさまに申せば」

▽比べどちらにしようか判断しようとする。◇『法華義疏』長保点「文を推(オシハカ)り義を考(カムガ)ふれば」

▼もののことをつかもうとする。

※近代に入より一般的な意味に発展した。近代になって人は封建的な身分的束縛からは解放された。しかし近代社会で人が生きていくためには、人生の選択を自らの責任で行わねばならず、「考える」ことが求められるようになったからである。それが文学に現れたのが次の例である。

◇『二人女房』尾崎紅葉「男親の方はさほど不当な思想(カンガヘ)を持たぬ」◇『運命論者』国木田独歩「聞いたら聞いたと言ふが可え。そんなら乃父(おれ)には考案(カンガヘ)があるから」◇『それから』夏目漱石「代助は書斎に閉じこもって一日考(カンガ)へに沈んでいた。◇『浮雲』二葉亭四迷「あれをこうして是を斯うしてと、毎日毎日勘(カンガ)へてばっかゐたんだ。