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ことば

【ことば(言葉)】[kotoba]←[kotofa]

◆(「こと(言)は(端)」の意)「こと」を分節して切りとり、そのようにしてつかまれた「こと」をあらわして現実のものとしたしたのが「ことば」である。言いかえれば、「こと」の現実のあり方(現実態)が「ことば」である。現実のものとするする行為が「いう(言う)」である。言葉は言うという行為がなければ、現実には存在しえない。

「ことば」は本来は「こと端(バ)」であり、「軒端」が軒の端とさらに軒に近い空間を意味するように、「こと」と現実とが触れあう領域での「こと」の顕れを意味した。同時に「ことば」は「ことの端」や「ことの葉」、つまり「こと」が言われたり書かれたりしたものとして「ことの現実態」をあらわしてきた。「こと」は「こと−の−は」として現実の存在となるとき「ことば」となるのであり、「ことば」を意味あるものとするその本質、内容を示す。

「現実態」として、人々が感情、意志、考えなどを伝え合うために用いる音声、また、それを文字に表わしたもの、を示す。その表現行為にも表現内容も用いる。

※人間は、言葉によって協同して働く生命体である。言葉があることは人をして人間とする本質である。それぞれの人をして人間としている言葉を「固有の言葉」という。

▼表現行為 ◇『万葉集』七七四「百千(ももち)たび恋ふといふとも諸弟(もろと)らが練(ねり)の言羽(ことば)は我は頼まじ」 ◇『伊勢物語』一〇七「されど若ければ、文もをさをさしからず、ことばも言ひ知らず」

▼表現内容 ◇『土左日記』「『黒鳥のもとに白き波寄す』とぞいふ。このことば、何とにはなけれども物言ふやうにぞ聞こえたる」 ◇『源氏物語』手習「いとをかしう、今の世に聞こえぬことばこそは弾(ひ)き給けれ」 ◇『竹取物語』「うち泣きて書くことばは」 ◇『小説神髄』坪内逍遙「形容(おもひいれ)をもて演じがたく、台辞(コトバ)をもてうつしがたき」

▼用語 ◇『源氏物語』玉鬘「よろづの草子・歌枕、よく案内(あない)知り、見つくして、そのうちのこと葉を取り出づるに」 ◇『小説神髄』坪内逍遙「詩歌伝奇に鄙野(ひや)なる言詞(コトバ)を用ふるを悪(にく)むが如くに」

※西洋近代に成立した「学」の対象としての「言葉」を定めることは大変困難である。「学の対象としての言葉」とわれわれが構造日本語定義集で取りあげる「言葉」とは違う。「学の対象としての言葉」は学の対象としてとらえるために何かを捨象する。何を切り捨てるのかをめぐって常に論争があった。近代日本でもいわゆる翻訳されたソシュール言語学と時枝誠記の間の論争がある。それは「言葉とは何か」をめぐってなされているようでありながらじつは「学の対象とする」ために何を切り捨てるのかをめぐってなされているに過ぎない。より本質的には、「学」は西欧語の構造に根ざした知のあり方であって、非西欧語で「学」はどのようなものとしてあり得るのか、ということが問われねばならなかった。この問いの探求は構造日本語定義集の試みの目的の一つである。

この問題を西欧の側から根底から考えたのはドイツの哲学者ハイデッガーである。ハイデッガーは神秘的な表現をしているが、西欧とは異なる日本語のあり方を言い表そうとしている。しかし問題は、西欧の補完としてではなく、日本語内部の問題として「学」はどのようなものとしてあり得るのか、という問いである。



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