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とき

【とき(時)】[toki]

■[toki]は「つき(月)[tuki]」の古形「つく[tuku]」の根拠[o]と移り変わり[i]から形成される。「つく[tuku]」は「つくる(作る)[tukuru]」の行為を表す[ru]がのぞかれた部分で、「作る」、つまり田を作る作業を成立させる月の運行に由来する。

◆人は、働く場で生成躍動するものの集まりを一つの意味のある「こと」としてつかむ。「こと」は生きた動きであり、「動き」は「とき」を成立させる。「こと」として「つかむ」ことが、つかむ「私」の確立であり、つかむ対象と「私」の共存する枠組みとしての「とき」の成立である。

たとえば、ある人とその人のいる場所が意味あることとしてつかまれるとき、「その人がそこにいるとき」が成立する。

あることが起こった「とき」別のことも起こったなら「とき」が「同じ」であると考えられる。また二つのことの一方が起こって「から」他方が起ったなら「あとさき」が考えられ、「もの」の持続と「こと」の推移としての時間が認識される。

※「とき(時)」は「解く」の連用形「解き」と同じ語源。「解く」は「堅く凍りついたものをゆるめる」ことが基本の意味。冬の氷が「解け」春の訪れを知ることで、時の推移を実感したことが、「とき」の根底にある。「解ける」とき、それは新たな命の躍動であり、こもっていたものが解き放たれるときであり、輝くときである。そのときにいちばん「とき」を感じる。

▼ことぱとしての「とき」は、「こと」のなかの個々のことが起こる位置関係を全体のなかで指示することが基本である。 ◇初めて出会った時 ◇『蜻蛉日記』中「念数するほどに、時は、山寺、わざの貝、四つふくほどになりにたり」

▼そこから抽象されていろんなことが順次起こる場の形のひとつとしての「時」になる。 ◇時がたつ(流れる・移る) ◇『万葉集』二六一二「わが背子にわが恋ふらくは止むときもなし」 ◇『万葉集』三三五五「木のくれのとき移りなば逢はずかもあらむ」 ◇『万葉集』三六八八「等伎(トキ)も過ぎ月も経ぬれば」

▼時節。季節。時候。時代。年代。世。 ◇『万葉集』三九四七「雁が来鳴かむとき近きかも」 ◇『万葉集』一四三九「ときは今春になりぬと」 ◇『万葉集』四四八五「ときに花いやめずらしも」 ◇『徒然草』二二六「後鳥羽院の御時」 ◇時は春 ◇『万葉集』一五二〇「天地の分かれしときゆ」 ◇『源氏物語』桐壺「いづれの御ときにか」

▼さらに協同して労働することをとおして共通の「時間」を客観的に定めるようになる。その制度的な時法(単位と尺度)によって示される一昼夜のうちの一時点。

◇『万葉集』二六四一「時守の打ち鳴す鼓数([yo])みみればときにはなりぬ逢わなくもあやし」 ◇時を告げる鐘の音を聞く。 ◇『土左日記』「いぬのときにかどです」 ◇『太平記』七「時(トキ)打つ鼓の声を聞けば」

▼(「秋」とも書く)ふさわしい時期。時宜。ちょうどその時。また、そうしなくてはならない時期、時間。 ◇『万葉集』三六七九「大船に真梶しじぬきとき待つと吾は思へど月は経につつ」 ◇『万葉集』一八五五「桜花ときは過ぎねど」 ◇国家危急の秋 ◇『十六夜日記』「ふるあめも時さだまれば」 ◇時の人 ◇『栄花物語』月の宴「時あるも時なきも、御心ざしの程こよなけれど」

※精神科医である木村敏氏は離人症における「こと」と「とき」の欠落を報告している。「こと」と「とき」が人間の認知を支える根幹であり、日本語はそれを「ことば」にしていることを述べている。



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